後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「マグノリアの競演をお楽しみ下さい」

2015年03月23日 | 写真
今日は久しぶりにマグノリアで有名な京王フローラルガーデンへ行き、いろいろなマグノリアの花の写真を撮ってきました。
マグノリアは西洋で品種改良された木蓮で鮮やかな色彩の花になっています。種類はモクレンやコブシと同じです。勿論、日本で品種改良されたものもあります。
昔、ドイツに住んでいた頃によく見たモクレンは色が濃かったので色彩の強いものを私はマグノリアと呼んでいます。植物学的には皆同じだと思っています。
それはさておき先程撮ってきた写真をお楽しみ下さい。













「この花咲き匂う春の陽に何を憂える?」

2015年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、武蔵野公園で撮って来た花の写真をお送りします。
順々に、紫木蓮、ミモザ、ミツマタ、レンギョウとミツマタ、そしてコブシとミモザの5枚の写真です。
それでは私が憂えていることを書きます。それは日本の社会がさきの第二次世界大戦の筆舌に尽くせない悲劇の数々を忘れ去ろうとしていることです。そうして戦争も辞さないという風潮が静かに、しかし着実に強くなってきたのです。
そこで私は戦争が人間を悪魔にすることを、そして最悪の悲劇の数々を忘れないようにと祈りながら以下のような連載記事を書いてきました。この3種類の連載記事の目的はすべて同じなのです。戦争の悲劇を忘れないでくださいという祈りなのです。
三種類の連載記事以下の通りです。
「戦争を絶対にしない決心の為に」(1)、(2)、(3)、(4)という連載記事を書いてきました。そして「ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」」、その(1)、その(2)、その(3)その上、更に「モンゴル民族をもっと知る」(1)から(6)まで書きました。
以上のことを書こうと思いつつ、今朝の新聞を見ていたら天皇陛下と美智子皇后が昔、南漠の果てのペリリュー島で戦い、生き残った海軍の兵士(95歳)と陸軍の兵士(93歳)を皇居に招き、激戦から玉砕にいたる話を聞き、ねぎらわれたという記事を見つけました。
今朝の読売新聞38面トップに写真入りでかなり大きく出ていました。陛下と皇后は戦死した1万人の日本兵の鎮魂の為に、25日からパラオのペリリュー島を訪問するのです。詳細は省略しますが、この記事は感動的な内容です。どの新聞にも出ていると思いますので是非、詳細をご覧下さい。
戦争の数多くの悲劇の一つ一つを心に刻み、残された者の悲嘆を心に浮かべ、その悲しみに寄り添うのが平和を守る一番重要なことです。
天皇陛下と皇后陛下は沖縄を訪問して戦死者の慰霊碑の並ぶ岬に立ち、鎮魂の祈りをしました。毎年、8月15日の終戦記念日の追悼式は欠かさず出席し心のこもったお言葉を述べています。
この姿は、戦争の罪を認めたヴァイツゼッカー元大統領の演説、「荒野の40年」の精神と同じなのです。絶対に戦争はしないという結意が強く流れています。しかし日本とヨ-ロッパの文化が違うことで表現方法が違うだけです。この違いについては稿をあらためて書いてみたいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









今日の武蔵野公園のユキヤナギの写真をお楽しみ下さい

2015年03月22日 | 写真
今日は春の陽気です。近所ではパンジー、サクラソウ、菜の花、コブシ、モクレン、レンギョウ、ユキヤナギ、ショカツサイ、ツバキなどが一斉に咲き出しました。家内が走り回って、いろいろな花の写真を撮って来ました。
桜はまだですがつぼみが膨らんでいました。
武蔵野公園で撮ったユキヤナギの写真を5枚お送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。









モンゴル民族をもっと知る(6)モンゴル帝国と元朝の成立と衰退

2015年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
数多くのモンゴル部族を統一したのがテムジンです。やがて、彼はほかの部族も統一して分裂していたモンゴル高原の諸勢力をまとめ上げたのです。1206年、クリルタイで大ハーンの地位につきチンギス=ハーンと名乗り、ここにモンゴル帝国が成立したのです。
 クリルタイというのは遊牧部族の族長会議です。ハーンというのは王の称号。チンギスという言葉の意味はわかっていません。
モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと、その他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げました。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていたのです。
モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなしていたのです。
中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称します。そしてその後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有していたのです。
この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続しました。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けたのです。
下の図面は動く図面は、いろいろな年代におけるモンゴル帝国の領土の範囲を示しています。

(この図面の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD です)
このモンゴル帝国の拡大は中国本土も占領し、元という国家が作られたのです。この元朝は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配しました。
下に元朝の領土を示します。

図面の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)#.E5.AE.97.E6.95.99 です。
中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継いだのです。
この元は、チンギス・カンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に1260年に即位したクビライ(フビライ)が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立したのです。
鎌倉時代に日本へ攻め込んだのがこの元朝と高麗の連合軍でした。
日本の鎌倉時代中期に2度にわたり行われた日本侵攻のは1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)と呼ばれています。
さて中国の元朝で特筆すべきはキリスト教とイスラム教の隆盛と思います。
中国の宗教で、はじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団でした。その教主、丘長春自らがサマルカンド滞在中のチンギスの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにモンゴル皇帝のために祈ることを命ぜられのです。これにより全真教団はチンギスの勅許によって華北一帯をはじめとするモンゴル帝国の漢地領土において宗教諸勢力を統括する特権を得たため、その勢力は急速に拡大する事になりました。
しかしモンゴル人はその他の多くの宗教を寛大に許したのでイスラム教やキリスト教も盛んになったのです。
国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体が出来上がったのです。現在の北京にある中国でも最古級のモスクである牛街清真寺はこの当時、中都城内にあり、モンゴル帝国、大元時代に大きく敷地を拡大したモスクのひとつだったのです。
もうひとつの大宗教はキリスト教で、ケレイト王国や陰山山脈方面のオングト王国などモンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元朝のもとでも依然として信者が多かったのです。
また一方、ローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていたのです。ローマ法王は1307年に初の大都管区大司教を任命していたのです。
これは驚くべき歴史で、日本にローマ・カトリックがザビエルによって導入された1549年より実に約240年も前のことだったのです。
この様な元朝やモンゴル帝国は次第に衰退し、近代には清朝の支配下になり、ロシアの台頭によりモンゴル帝国はロシアと清朝によって分断されるのです。
ロシア支配下の部分は共産革命後は共産党支配のモンゴル人民共和国になり、ソ連崩壊後はモンゴル国になります。一方、清朝支配の領域は内モンゴル自治区になり中国の領土になっています。そして文化革命期には軍政がしかれ大量粛清の嵐が吹いたのです。受難の民族の歴史です。
そして満州国の存在した期間は内モンゴル自治区は日本の支配下にあったのです。
関東軍はそこのモンゴル将校を日本の士官学校へ入学させます。そして最強の騎兵部隊として育てたのです。その騎兵隊は終戦後、今度は中国共産党の配下に入ったのです。そして中国のチベット攻略戦争の時、このモンゴル人騎兵隊を急先鋒にしてチベットへ攻め込んだのです。モンゴル人の信じるラマ教の本山のあるラサを攻撃するモンゴル騎兵隊の心境は悲しみに満ちていました。このモンゴル騎兵隊の悲劇は、楊 海英 著、「チベットに舞う日本刀ーモンゴル騎兵の現代史ー」に書いてあります。この本の写真を下に示します。出典は、http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163901657 です。

モンゴル民族について思いつくままに連載記事を書いてまいりましたが、今回でこの連載記事の終わりと致します。(完)


大自然の中で見る人間の小ささ、頼りなさ

2015年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、長野県と山梨県の県境にある甲斐駒岳の麓の山林の中で遊んで来ました。
その山林の中で見ると人間があまりにも小さく見えるのです。あまりにも頼りなく見えるのです。その様子を3枚の写真で示します。
一枚目は山林の中の荒地に駐車している私の車です。

この写真のように車は荒れ野では実に頼りないのです。わずかに車の幅だけ草木を取り除いた悪路をソロソロ走るのがやっとです。駐車する場所のためには、自分で草木を取り除いてわずかの空き地をつくります。
高速道路だけを走っていると車の頼りなさや無力さは感じられません。判りません。
この車を遠方から見ると次の写真のようになります。

車が何処にあるかお分かりでしょうか?写真の中央付近の山林に囲まれた荒地に停まっています。この写真は木内正夫さんの山荘のウッドデッキから昨日撮ったものです。その山荘までは車が入れないので何時もこの様に車を停め、荒れ地を歩いて行きます。
小さな存在は車だけではありません。人間の写真を撮ると人の存在も小さく、頼りなく見えます。下の写真は家内が木内山荘の小川と池の畔でカエルの卵を見つけて大喜びしているところです。

この写真の右上のあたりに家内が写っています。家にいると存在感のある家人ですが自然の中では小さく、頼りなく見えます。
このように山林の中で見ると人間の存在の小ささや儚さが感じられます。
そうしてそんな儚い存在の人間の傲慢さや争いを考えます。
最近、私のFace Bookの誌面でフランス在住の日本人女性のMotoko Boutdumondeさんという方と日本在住の 浦野 明人さんが人種差別に関して非常に興味深い対話を書き綴っていました。
Motokoさんはフランスで人種差別を感じたことが一切無いと言います。浦野 明人さんはヨーロッパ人のアジア人やアフリカ人に対する人種差別を具体的に描きました。対話を重ねてご両人とも人種差別は存在するが、その害を避ける方法で意見が一致しました。そしてお互いに楽しい議論が出来たと喜んでいました。
そこで人種差別について私自身の考えを書いてみます。
人種差別は動物の種族繁栄のための基本的な本能の一部で、どんな民族にも心の底に持っている本能です。それを無くすことは難しいものです。しかしその本能を弱めたり外部に表現しない方法があるのです。他人を尊重する良識や良質の宗教心があれば人種差別をしなくなります。されても怒りを感じなくなります。人種差別をされたら水に流し平然としている。自分が人種差別をしたくなったら「人間はみな平等だ」と呪文をとなえます。
一番いけないことは「自分は人種差別を受けた!」と訴えたり吹聴する行為です。それは必ず怒りの感情がともなっています。ですから吹聴すればするほど新しい人種差別を掻き立てることになるだけです。
よく「自分が人種差別するから、されるのだ」という原理を主張する人がいます。これは半分正しく、半分間違っています。自分がしなくても差別する他人は必ずいるのもです。
その時どう反応するかが一番重要なことです。「人種差別をされたら水に流し平然としている」、これが正解です。これ以上のことをしてはいけません。よく差別する人は良識の無い低級な人間だと思えば良いと言います。出来たらこれもいけません。差別した人を低級な人間だと差別しているからです。
今日ここに示した3枚の写真のような山林の中で考えたことを書いてみました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

40年間続いたつまらない趣味・・・でも私の人生で一番重要だった趣味

2015年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
この趣味は、始めてから40年になります。私の趣味の中で一番長続きしたものです。そして私の人生においても非常に重要な役割をしてくれました。
その趣味は山梨県と長野県の県境にある甲斐駒岳の麓の山林の中の質素な小屋へ通う趣味です。小屋の西には甲斐駒がせまり、北の方には八ヶ岳が見えます。東の丘に登れば白樺林があり、その下には広い牧草地が広がっています。
森の奥深くにあるので、悪路を根気よく車で登って行きます。
空気が新鮮です。イノシシや鹿が棲んでいます。猿や兎も時々見えます。
街燈などはありませんから夜は真っ暗闇です。満月前後には木々の梢の間から明るい月が見えます。丘に登れば満天の星です。
そんな小さな小屋へ行って、ただボンヤリしているだけです。とてもつまらない趣味です。心が躍るようなことは一切起きません。
春にはウグイスの美しい声が響き、夏の朝夕には淋しげなヒグラシゼミの声が聞こえてくるだけです。
そんな中でボンヤリしていると自然に思索が深まります。その思索が私の人生を支えてくれます。それがこの小屋の趣味の重要な役割の一つと思っています。
この趣味は1973年に始めました。つまらないからこそ42年間も続きました。一生、続けるつもりです。そんな趣味の小屋を写真で示します。

この写真は、小屋を西から見た後姿です。右側が6畳間の寝室で左側が4畳半ほどの台所兼食堂です。まわりに木造の風呂場や焚火小屋やバンガローを自分で作りましたが、それらは山火事で燃えてしまったり、台風で倒れたりして、現在は写真のような母家だけになってしまいました。コンクリートは何時までも腐らないし倒壊しません。

この写真は小屋の東面です。ガラス窓が東面と南面についています。右側に、ポツンと建っているのがスチール製の物置です。スコップやクワなどの道具類が入っています。薪も入っています。右下の端に小川の青い水面が少し写っています。

この小屋の東側の庭には一年中水の枯れない小川が流れています。
夏にはオニヤンマが清流の上を飛んでいます。ヤマメも上ってきます。
しかしホタルはいません。冬が寒すぎるためヤゴが育たない為でしょう。
写真に写っている立っている丸太は最近近所の伐採現場から頂いて来たものです。椅子として重宝しています。

夕方になると炉に火を焚いて、ビールを飲む準備を始めます。この炉は私が終戦の頃に疎開していた農家の囲炉裏の形を思い出しながら作りました。こんな炉で日本人は4万年前の石器時代から食材を料理して生きてきたのです。
土器が出来た16000年前の縄文時代から魚貝やイノシシを煮込む土鍋も出来たのです。このような囲炉裏が日本から消えたのは1975年頃のことです。
そんな事を考えながら冷えたビールを飲みます。肴は持ってきたソーセージや肉を焚火で焼いて食べます。

夜の小屋は冷えます。春になっても標高900m位なのでまだ冬です。この写真のような簡単な薪ストーブを燃やします。急に室内が温かくなります。
薪の燃える音を聞きながら持参した新聞を丁寧に読みます。小屋においてある古い本もゆっくり読みます。テレビの無い夜は静かです。

朝が明けると、東の窓からこんな風景が見えます。木々の新緑をしばらく見てから卓上コンロで湯を沸かし、顔を洗います。
香りの良いコーヒーを淹れ、トースターでパンを焼き、それだけの質素な朝食にします。
外に出て西の方を見ると下のような別荘があります。

道路の左にある別荘は勝沼のブドウ栽培家の中村さんのものでした。もう随分以前に亡くなった方です。バケツ一杯のブドウを発酵させて葡萄酒を作る方法を教えてくれたことを思い出します。現在はその息子さんが家族でたまにやって来ます。
そんなことを思い出しながら、朝食後は家内をさそって、山の新緑の写真を撮りにでかけます。
この山林の小屋には電気も水道もガスも一切ありませんでした。始めの頃はホンダの300W発電機で電燈をつけていました。その後、電気だけは引きました。
40年間の間にいろいろなことがありました。昔、一緒に遊んだ人々が一人、一人、と旅立っていきます。少しだけ淋しくなります。
つまらない趣味です。しかしこの趣味が私の人生においても非常に重要な役割をしてくれたのです。
今日もこれから家内と一緒に車で中央高速道路を走ってこの小屋へ久しぶりに行ってきます。小川の岸辺を掃除して、薪ストーブを焚いて昼食を食べて、近所に独り暮らしをしている友人の所に寄ってから帰ってくる予定です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

本年1月31日逝去のヴァイツゼッカー元大統領に関するメルケル首相の談話

2015年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
ヴァイツゼッカー元大統領 死去 メルケル首相談話:2015年1月31日(東京のドイツ大使館HPより)

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領逝去の報に接し、悲しみに暮れております。ここに、マリアンネ・フォン・ヴァイツゼッカー夫人ならびにご子息・ご息女方に対し深い哀悼の意を表します。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏は、我が国で最も重要かつ最も尊敬された人物の一人でした。氏が何十年にもわたり、高い知性、自然に滲み出る威厳、天賦の演説力をもって私たちの民主主義社会のために貢献し続けてくれたことに、私たちは感謝の念を抱き続けます。氏は、1984年から1994年まで大統領を務め、その職務に対する姿勢は高い規範を打ち立てました。大統領として自ら述べていたように「方向性を与える」ことを目指し、自ら課したこの課題を見事成し遂げました。
ヴァイツゼッカー氏は、新たな方向性を指し示すような演説を行ってくれました。これらの演説は、国内外で大きな反響を呼びました。それは、氏の言葉を聴く人が、その背景に実際の体験に裏づけられた価値と清廉潔白な高い人間性を感じたからです。
とりわけ1985年5月8日に行われた、第二次世界大戦終戦40年にあたっての演説が思い起されます。大統領は演説の中で、「ナチスによる暴力支配という人間蔑視の体制からの解放の日」という表現を用いました。これは、ドイツの自己理解にとって重要な意味を持つ、必要かつ明確な発言でした。
ベルリン市長も務めたことのあるヴァイツゼッカー氏は、我が国および欧州の分断克服とドイツ再統一の実現に、特別の思いを寄せていました。1990年10月3日の演説では次のように述べています。「私たちは、今日という日を贈物の受け手として経験することとなった。今回については、私たちドイツ人も歴史に好意的な巡り合わせを与えられた」。この演説と、演説を聴いたときの私の高揚感は、決して忘れません。しかしまた、統一条約だけで統一が成功するわけではなく、当時の発言にあるように、統一の成否は「私たち一人一人の行動次第であり、私たちが心を開き、互いに助け合うことにかかっている」と認識していました。この言葉は今なお真実であり、今日にいたるまで私を導いてくれています。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏の死は、ドイツにとり大きな損失です。氏が、我が国に対する大きな功績をあげたことを私たちは忘れません。そして一人の人間としても氏のことを忘れません。このような人物が大統領として我が国の最高位の職務を担ってくれたことに、感謝の念を抱き続けてまいります。

(写真はメルケル首相です。)

我が家の庭にも春が来ました

2015年03月19日 | 写真
チェリーの花、ヒヤシンス、ミズキの花、ルピナス、ツバキなどが咲いています。
写真は順番にこれらの花々の写真です。先程撮りました。他にはジンチョウゲの花も咲いています。白梅も紅梅も散ってしまいました。
これからはどんどん他の花も咲きます。間違いなく春ですね。











戦争を絶対にしない決心の為に(4)戦争の犠牲者と遺族の悲しみを何度も思い浮かべる

2015年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
戦争を再びしない決心は日頃、何度も、何度も戦争の悲劇を具体的に思い浮かべることです。
一人一人が心をあらたにして戦争をしない決心をすることです。そうしないと人間は忘れてしまうのです。ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、「戦争による悲しみの山並みを忘れてはいけない」と言い、具体的な悲劇を一つ一つ示したのです。この感動的な名演説を1985年にしました。
それはそれとして、フランスはドイツによって1940年から1945年まで占領されていました。そのフランスでは親ドイツのヴィッシー政権派とレジスタンス派の間で悲劇的な国内戦が繰り返されたのです。ドイツに味方することをフランスではコラボレーションと言うそうです。終戦後、親ドイツ派のフランス人はレジスタンス派によって徹底的な復讐を受けました。日本ではあまり知られていないコラボレーションの悲劇的な歴史を忘れないようにとパリで展示会が開催されているそうです。例によって日本のマスコミは無視です。
この話はFace Bookでフランス人と結婚して、40年以上フランス住んでいたに日本人女性のMotoko Boutdumondeさんから教えて頂いた話です。
今日の話題は、昨年の11月から今年の3月までパリで初めて開催されている「コラボレーション1940-1945 暗黒の4年間」という展示会にまつわる話です。Motokoさんの夫のお父さんがレジスタンス派の一隊に加わっていたので彼女は戦争の悲劇を深く心に刻んでいるのです。
何時ものように戦争の話を読むのは嫌いだという方々の為に昨日、お彼岸の墓参りの花を買いに行ったとき店先で撮った花の写真をお送りします。花の写真を見たあとで気が向いたら続きの文章をお読み下さい。









以下はFace Book で頂いたMotoko さんから頂いたコメントです。
・・・・「荒野の40年」という演説で話されたヴァイゼッカー氏の考え方、良く分かります。恐らく「ユダヤ人殺害を全く知らなかった」というドイツ人はいなかったはずです。・・・・
フランスでもドイツによる占領中はヴィシー政府がすぐにドイツ軍と手を結び、フランスの憲兵や警察がユダヤ人やジプシー、レジスタンスの人々を逮捕し、拷問にかけ、ドイツに渡しました。
フランスは、ドイツ占領下のフランスと自由フランスに分けられました。
収容所に罪のないユダヤ人たちを送ったのは必ずしもドイツ人だけではありませんでした。
コラボレーションと呼ばれるこのドイツ軍への手助けはフランスの恥です。しかし終戦時にこのコラボと呼ばれた人たちは酷い目にあったことも確かです。ドイツ軍の兵士たちと付き合っていた女性たちは公衆の面前で髪を剃られました。・・・・
コラボとしてレジスタンスの人たちや隠れていたユダヤ人をドイツに引き渡した人たちは、もと日本人だった私が考えても許せないと思います。しかし、女性については、本当に愛し合っていた人たちは気の毒です。愛ってロメオとジュリエットの例があるように、敵同士でもどうしようもなく生まれるものだからです。
やっと昨年の11月から今年の3月までパリで初めて「コラボレーション1940-1945 暗黒の4年間」という展示会が開かれました。これはフランス人にも第二次大戦中に起こったことを自覚させ、反省させるためのものでした。ヴィシー政府を支持していなくても見て見ぬふりをしていた人たちがいたということをも忘れないために。
・・・・ヴァイツゼッカー大統領のような真摯な心が一番大切だと思います。「敗戦国」も「戦勝国」もどちらも多くの犠牲者を出しました。ヴァイツゼッカー氏と同じ考えを持つ人が多ければ多いほど世界は平和に近づくでしょう。
私の主人の父は何故か、ヴィッシー政権の収容所に入れられていましたが、その収容所がドイツに移ることになりました。そこで夫の父親は、ドイツではメシが不味いと聞いたので、脱走を決めたそうです。
脱走しようとしたときに、見張りの担当だったドイツの下士官が門を開けてくれ、「俺はもうすぐソ連の前線に送られる。妻に会えることはもうないだろう。お前はまだ若いんだから奥さんに会える。奥さんを大切にしな」と言ってくれたそうです。
そしてまだ自由フランスにあった生まれ故郷に帰り、ひょんなことからレジスタンスの友人の一人がある日都合が悪くなったのでその代理として入り、戦争が終わるまでレジスタンになっていました。
恐らく戦後「コラボ」も処刑し復讐したことでしょう。夫の父がいたレジスタンスのグループは最初は130人ほどでしたが生存者は父を含めて17名だけだったそうです。
それなのに、ドイツと同盟した日本人である私を一人息子の彼女として、また嫁として、本当の娘以上に可愛がってくれました。ただ、レジスタンスで行った殺人とか処刑の話は92歳で亡くなるまで一切しませんでした。ただ、恐らく「コラボ」の処刑に使ったロープを20センチほどずっと持っていました。父は反省とか謝罪という言葉は口にしませんでしたが、きっとこのロープの端を持って自分の処刑した人たちや亡くなったレジスタンスの仲間をいつも思い出していたのだと思います。・・・・・
最後にヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」からレジスタンスの犠牲者への思いの部分を抜粋して掲載し、今日の記事の終わりと致します。
・・・ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。(フランスやポーランドには強力なレジスタンスがいましたー後藤による注記)
ドイツ人としては(ドイツ国内にもドイツ人レジスタンスがいたのですー後藤による注記)、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。・・・・・(続く)

ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(3)この有名な演説は誤解されがちです

2015年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人はこの有名な演説を以下のように誤解しがちです。
(1)この演説には反省とか謝罪するという言葉や文章が皆無なので真摯な反省とは言えない。
(2)この演説だけを取り上げてドイツは反省し、日本人は反省していないと非難する自虐的な態度の間違い。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。

さて上の3つの誤解について私の感じ方を説明致します。
(1)キリスト教文化圏では罪は個人が犯すものである限り、謝罪も神に対してするべきである。従ってヒットラーとその直属の部下の個人的な罪を関係の無い戦後のドイツ政府が謝罪すればキリスト教の教えに反することになるのです。これはヨーロッパ人共通の認識です。
(2)過去の悲劇を真摯に見つめ心に刻んでいるのは良識的なヴァイツゼッカーさんだけではありません。少数派ながら良識的なドイツ人なら同様に考えています。しかし大多数のドイツ人は戦前のドイツを悪とは認めたがりません。
しかるに朝日新聞など一部の自虐史観の持ち主たちはあたかもドイツ人全員が例外なくヴァイツゼッカーさんと同じ考えの持ち主だと吹聴します。これは明らかな誤解です。意図的誤解です。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
日本人は心にもないくせに反省します。そして謝罪しますと気楽にいうのが文化です。しかし深刻に反省したらそんなに気楽な言葉が出ないというのが彼等の文化です。謝罪は教会の告白室の中で神に対してするものです。
心に刻むことが何故真摯な反省になるか分からない方々には、以下の痛切な文章をもう一度読んで頂きたいと思います。。
・・・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・
以上の文章を読むと痛切な嘆きに満ちています。そして、「 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。」という言葉で終わっています。
反省とか謝罪とかいう日本人の好きな言葉は出て来ませんが深い反省と謝罪の真摯さを感じます。異文化の人々を許しその文化を理解してあげる寛容さがあればヴァイツゼッカーさんの「荒野の40年」を誤解する筈はありません。
いかがでしょうか?コメントを歓迎いたします。

ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(2)

2015年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。
 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。
 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。    
戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。
戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。
 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。
 ――第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
――人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。
――独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
――中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
――東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。
 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、

 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
今日、1985年の五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。 (終わり)

ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(2)

2015年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。
 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。
 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。    
戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。
戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。
 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。
 ――第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
――人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。
――独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
――中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
――東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。
 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
今日、1985年の五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。 (終わり)

小金井にあるリハビリ施設、「陽なた」を絶賛します

2015年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
よる年波とはよく言ったもので趣味のヨットも出来なくなり、最近は歩くのもままならなくなりました。そこで先月から毎週一回、リハビリ施設に通いはじめました。
そうしたらそこのスタッフのクオーリティーが大変良く感動しています。お蔭で足腰が少しだけ強くなり杖なしで出歩けるようになりました。
そこで今日はスタッフのクオーリティーが良いということはどういう意味で良いのか具体的にご紹介します。
その前にその施設の名前をきちんと書いて置きます。「医療法人社団大日会 通所介護事業所、陽なた」と言います。
老人相手のリハビリ施設のスタッフのクオーリティーが良いということはどういう事なのでしょうか?いろいろ考えて以下の項目に整理してみました。
(1)老人と優しく会話する能力を持っている。
(2)老人が若かった時代に興味を持って質問をする。
(3)専門教育を受けた常勤のスタッフが揃っている。
(4)訓練体操やいろいろな設備の機能と効果を必ず説明してくれる。
(5)そして老人一人一人の体力に合わせた訓練のメニューを作り、個人的な指導をする。
リハビリ施設、「陽なた」は上の5項目すべてが100点満点なのです。
それではまず(1)の老人との会話能力について説明します。スタッフ全員が老人の目線に合わせるためにしゃがんで話をするのです。明るい声で会話をするのです。これだけで老人は元気になります。
このように書くと、この施設はおしゃべりをするだけの場所のように見えます。しかし実はかなり厳しい肉体的トレーニングの合間に必ず休憩の時間をはさみ、おしゃべりをして続行する元気を取り戻すのです。そんな時間に、老人が若かった時代に興味を持っていろいろな質問をしてくれるのです。
以下はそのスタッフの写真です。まずセンター長の陽気なYBさんの写真です。

次は優しくて厳しい理学療法士のNKさんです。

そして下はインターネットの達人の介護福祉士のKBさんです。

下の写真が作業療法士のMTさんです。体の不自由な老人が一人で家で生活出来るように実に的確な指導をしてくれます。

最後は看護師のSTさんです。気さくに話してくれるのでついおしゃべりを楽しみます。

このほか写真は恥ずかしいと言って撮れなかったスタッフに介護福祉士のHDさんとFJさんがいます。そして生活相談員のKDさんもいます。総数8名がいれかわり指導をしてくれます。そして彼等は交代で送り迎えの車の運転もしてくれるのです。
料金は介護保険の適用を受けたので問題ありません。
たった1ケ月の体験ですが、日本の老人へのサービス産業の質の良さには感動しました。今後の楽しみになりました。
そして何故かインドの老人を大切にしたマザーテレサのことを思い出しています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(1)

2015年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker、1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、ドイツの第6代連邦大統領(在任:1984年 - 1994年)でした。
彼は敗戦40周年記念日に西ドイツ連邦議会で以下の演説をしました。それは「40年の荒野」と題し、ドイツ人の反省と謝罪として世界中で有名になりました。その演説は世界各国で出版せれています。勿論、日本でも岩波書店から『ヴァイツゼッカー大統領演説集』として出版されています。
これは西洋人の良心的な告白であり悲しみに満ちた独白です。
いろいろな意味で感動的な演説なので何回かに分け連載としてご紹介いたします。
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html よりの転載です。
 『荒れ野の40年』 (1985)    ヴァイツゼッカー
 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。
彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。
 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。
 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。

 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。 (続く)

そして写真はヴァイツゼッカーさんです。