後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「亜熱帯地方にある台北の冬でも咲いている花々」

2022年12月23日 | 写真
台北は一年中温暖で花が咲き誇る街です。そんな台北で冬でも咲いている花々の写真をお送り致します。写真の出典は、http://88yokohama.com/taicolor.htm です。

1番目の写真は艷紫荊(香港櫻花)Hong Kong orchid treeです。

2番目の写真は黄色いマリーゴールドです。

3番目の写真は黄色いウコンサンゴバナ(パキスタキス・ルテアPachystachys lutea)です。

4番目の写真は黄色いランタナの花です。

「師走の風物詩、クリスマス風景そして干し柿作り、村上の鮭、信州の寒天」

2022年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
12月も押し詰まって来ました。何かと気ぜわしい時期です。しかしこんな時こそ詩情を思い、そして少し余裕のある日々を過ごしたいものです。
そこで今日は師走の風物詩としてのクリスマスツリーそして干し柿作りの風景、村上市の塩引き鮭作りの風景、信州の寒天干しの風景をお送り致します。
あちこちの町にはクリスマスツリーが飾られます。農村の家の軒先には干し柿が釣り下がります。村上では鮭を乾します。信州では寒天を乾します。
そんな光景は見ていただけで心が暖かくなります。寛ぎます。
12月になると我が家でも毎年少しだけ渋柿を買ってきて軒先に吊るします。
戦前、戦後の砂糖が無かった時代に干し柿の甘さに魅了されたものです。その頃は初冬になると都会の家々の軒先にも干し柿があったのです。私が干し柿のある風景が好きなのは郷愁なのです。
今日は師走の風物詩の写真をお送り致します。

1番目の写真は函館のクリスマスツリーです。出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/52/ です。

2番目の写真は山形県上山市の干し柿のある風景です。背景の雪の山は蔵王山です。
写真の出典は、https://ssl.yamagatakanko.jp/gallery/…/img/food/food012.html です。

3番目の写真は山梨県 甲州市の甘草屋敷のころ柿づくりの風景です。写真の出典は、https://tokuhain.arukikata.co.jp/hokuto/2018/11/post_27.html です。
甘草屋敷とは高野家の大きな家のことです。江戸時代に薬用植物である甘草の栽培をして幕府に納めていた家なので、「甘草屋敷」と呼ばれてきれてきました。
江戸時代の「甲州甘草文書」によると、八代将軍徳川吉宗治世の享保5年(1720)に幕府御用として甘草の栽培と管理することになったのです。
そして高野家の甘草園は年貢諸役を免除され、以後同家が栽培する甘草は、幕府官営の薬園で栽培するための補給源として、また薬種として幕府への上納を負うこととなりました。

干し柿が初冬の農家の軒先を飾るころのなると新潟県の村上市では塩引き鮭が軒先に吊るされます。
村上の三面川(みおもてがわ)での鮭の遡上が始まり、塩引き鮭が作られるのです。
鮭の町、村上ではそれぞれの家庭で塩引き鮭を作るそうです。村上市庄内町は「鮭塩引き街道」として有名です。
毎年この時期になると大きな塩引き鮭が軒先にぶら下がっている風景写真が新聞にでます。
そうすると北海道の川をさかのぼっている数多くの鮭たちの写真を思い浮かべるのです。ヒグマがその鮭を取っている知床の川の風景を連想するのです。東の北海道の標津へ旅した時サーモンセンターという立派な建物があり、種々の生きた鮭が遡上する様が見られて感動しました。
寒い季節の到来です。雪が野山を覆う風景を思います。ですから村上の塩引き鮭の風景は私にとって初冬の風物詩なのです。下に村上の塩引き鮭の写真を示します。

4番目の写真は新潟県、村上の家々の天井から吊るした多量の塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、https://www.murakami-salmon.com/driedfield/ です。

そしてもう一つの初冬の風物詩は信州の雪の田圃に広がる寒天干しの情景です。寒天とは冬の空を意味しています。

5番目の写真は信州の雪の田圃にえんえんと広がる寒天干しの光景です。昔、信州を旅した時に何度も見た懐かしい風景です。
この写真の出典は、http://homepage1.nifty.com/hottayukio/syasin/KANTEN.htm です。
寒天の作り方です。
海で採ったテングサをを大きな釜で煮溶かし、四角形のトコロテンにして、それを凍らせては干し上げるのです。カビたり腐る前に干しあげるためには寒風が吹き太陽光の射す信州でないとうまく行きません。
信州の寒天作りに関して面白い話があるので下に、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9 から抜粋して示します。
江戸時代初期の1685年、京都府伏見の旅館『美濃屋』の主人、美濃太郎左衛門が、戸外に捨てたトコロテンが凍結し、乾物になっているのを偶然発見したのです。
これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励されたそうです。隠元は「冬の空」を意味する漢語の寒天という名前をつけたのです。
さらに、天保年間(1830年から1843年)に信州の行商人の小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着しました。
明治14年、ロベルト・コッホが寒天による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えます。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品になっていましたが、第二次世界大戦中は戦略的意味合から輸出を禁止してしまったのです。
現在、寒天はあまり料理に使われていませんが寒天にも面白い歴史があったのです。

「干し柿と塩引き鮭は縄文時代には重要な食べ物だったのでしょうか?」
私が想像した答です。
干し柿と塩引き鮭は簡単に作れる保存食なのです。縄文時代から作っていたと考えるのに無理はありません。
柿は野生の渋柿を採集して来て竪穴式の家の周りで干したに違いありません。石器のナイフで皮は剥いたのでしょう。
縄文時代は鮭が現在より多量に日本の川をさかのぼっていた筈です。しかし塩は貴重品でしたから海水に何度も浸けて、乾かすことを繰り返して作ったのでしょう。

現在でも柿も鮭も皆天然のものです。自然食品です。それらを食べると自然に対する憧れと感謝を感じるのです。ですから気持ちが晴れ晴ればれします。気分が良くなるのです。

今日は師走の風物詩としてのクリスマスツリー、干し柿作りの風景、村上市の塩引き鮭作りの風景、そして信州の寒天干しの風景をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「アフリカのケニアに咲く花々」

2022年12月22日 | 写真
アフリカに咲く花は強烈な色合いで見ていると元気が出ます。
昨日の南アフリカに続いて今日はケニアに咲く花々の写真をお送りいたします。
「ケニアに咲く花々」を検索したら沢山の写真が出てきました。その中から南国的な花を選んでお送りいたします。

「細川呉港著、『柔術の遺恨』(敬文舎)の紹介」

2022年12月22日 | インポート
『柔術の遺恨』(敬文舎)は細川呉港氏の力作です。記録文学の傑作です。

90年の時を経て今明らかになる柔道創成期の隠された葛藤を詳しく分かり易く書いた記録です。美しい文章でつづった作品です。

今日はこの「柔術の遺恨」の内容をご紹介したいと思います。あわせて私の感想も書こうと思います。

(1)『柔術の遺恨」の概要を示します。
講道館の高段者をすべて破るも、嘉納治五郎に技を禁止され、不遇をかこった「柔術家田辺又右衛門」の一代記です。

又右衛門の口述筆記4冊が、明治~昭和の武道界のようすや、又右衛門と嘉納治五郎とのやり取り、講道館の高段者との試合の詳細を具体的に伝えているのです。

おそらくこうした記録作品は今までにも例がないと思います。

1番目の写真は細川呉港著、『柔術の遺恨』(敬文舎)の表紙です。

現在、アメリカには柔術の道場と柔道の道場の両方があります。ところが柔術の道場は柔道の道場の10倍もあるのです。

南米も同じように柔術の道場が圧倒的に多いのです。

この本を正しく理解するためには柔術と柔道の違いを明確に分かる必要があります。

(2)柔術と柔道の違い
柔術は日本の伝統的なもので立ち技より寝技を重視します。

柔道は嘉納治五郎が柔術の寝技よりも立ち技を重視して作った柔術の一派で、それを柔道と名づけました。

日本では講道館の柔道が普及しており伝統的な柔術は普及していません。

しかし海外では逆転しているのです。南米の様子を紹介致します。

(3)ブラジリアン柔術と柔道は何が違うのか?
(https://bohemians-bjj.com/2020/09/01/jiujitsujudo/ )

1.技の数が全然違う!
柔道の技は100種類と講道館柔道では規定されています。一方ブラジリアン柔術はなんと数千種類の技があると言われています。

2.実は道着が全然違う!
柔道は袖や裾なども含め、全体的な作りが太めになっています。それに対し、柔術着はタイトな作りのものが多く、細身でスマートな見た目のものが多いです。柔術着は自由度が高いため、ファッション性の高いデザインのものも多くあります。

3.頭脳の使い方が全然違う!
柔道の時はまさしく格闘技といった野性味が溢れています。一方柔術では少しクレバーな試合運びです。柔術は体で行うチェスやパズルゲームと言われるほど、ゲーム性が高いことが特徴です。このように、ゲーム性と自由度の高さにより、飽きがこないところが、ブラジリアン柔術の魅力でもあります。

4.怪我のリスクの違い
柔道は立ち技から投げて畳に叩きつける。という練習をするため、34年間で120人くらいの部活生が練習中に亡くなっています。後遺症の残る怪我も多いでしょう。
一方ブラジリアン柔術は寝技中心で、関節技や絞め技を中心に構成されているので、技が極まる前に、まいったをしたら、そこで相手は技を解くルールがあります。
なので、気がついたら地面に叩きつけられる柔道よりも、圧倒的に怪我のリスクが低いのが特徴です。働きながら習うサラリーマンや女性にも人気の格闘技として、世界で注目されています。

(4)柔道はオリンピックの種目、しかし柔術は違う
柔道はオリンピック競技であり、ブラジリアン柔術はまだまだ新興の格闘技、武道です。
しかし海外ではオリンピック柔道家も寝技強化のためにブラジリアン柔術を取り入れたり、その垣根はどんどん取り払われています。
なお柔術と柔道はルールも違い勝敗の判定の仕方も違います。

(5)『柔術の遺恨』で強調している事実
柔術と柔道の違いが分かれば『柔術の遺恨』で強調している事実を正しく理解できます。
この本では柔術家の田辺又右衛門の苦悩の一生を描いています。柔道を提唱した嘉納治五郎によって苦しめられた一生です。

日本人は嘉納治五郎を知っています。しかし田辺又右衛門は知りません。

何故田辺又右衛門は忘れられたのでしょうか?

この本が主張したいことは田辺又右衛門のように愚直にそして誠実に生涯を送ることの重要さだと思います。

それはたとえ人々に忘れられても理想の生涯なのです。この事実を細川呉港氏は言いたかったのでしょう。

(6)この本で感動したこと
この本で感動したことは沢山ありましたが、今日は一つだけ書きます。

細川呉港氏は柔術の起源を求めて中国に行き中国の武闘を詳細に調べています。そして中国の武闘の形を見せる表演は柔術とは直接関係していないことを示唆しています。

また日本では柔術家やその関係者の数多くの人を訪問して話を聞いています。

この本の内容は実証的な研究にもとづいているのす。その点にも私は感動しました。

今日はこれで終わりにして、「細川呉港著、『柔術の遺恨』(敬文舎)の紹介」の続きはもう一回書く予定です。

2と3番目の写真は柔道の立ち技1種と寝技1種です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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細川呉港(ホソカワゴコウ)
広島県出身。集英社に入社後、宣伝部、雑誌編集部を経て、つくば科学万博副館長、学芸編集部長を最後に定年。中国担当として長年中国を取材。現在フリー。東洋文化研究会の顧問は今年で三三年目。
細川呉港氏の作品の一覧は、https://honto.jp/netstore/search/au_1000252432.html にあります。

「南アフリカの花」

2022年12月21日 | 写真
南アフリカの花です。写真の出典は、https://taptrip.jp/2528/ です。

南アフリカには特色ある生物種からなる生態系が形成されています。
植物は多様な環境に適応したベンケイソウ科やトウダイグサ科、ハマミズナ科の多肉植物やトランスヴァール地方に花畑を形成するガーベラやユリオプスデージーなどキク科の植物がある。
またエリカやクンシランなどは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。
南アフリカの国土は全世界のわずか2%ほどにすぎないが、世界の植物の10%近く、約2万4,000種類の原産国となっている。

「ノスタルジアという言葉と小樽にまつわる話」

2022年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
ノスタルジアは英語で nostalgiaと書きます。意味は異郷から故郷を懐かしむことです。また過ぎ去った時代を懐かしむことです。強いて日本語にすると望郷や旧懐の情となります。私の好きな言葉です。
今日はこのノスタルジアにまつわる話を書きたいと思います。
この言葉は1688年にスイスの医学生、ヨハネス・ホーファー (1669-1752) によって新しくつくられた言葉です。2つのギリシャ語「nostos」(帰郷)と「algos」(心の痛み)を組み合わせて造った合成語です。意味は「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う心の痛み」でした。転じて旧懐の感情と言う意味でも広く使われます。
人はどんな時に旧懐の感情を覚えるのでしょうか?さまざまな風景を見てノスタルジアを感じる場合もあります。人によっていろいろです。
一つの例を示します。私の場合は北海道の小樽の風景を見た場合にノスタルジアを感じます。強く感じます。
小樽は何故か哀愁が漂う町です。そしてノスタルジアを強く感じます。
明治時代の古い建物が憂鬱な印象をあたえています。暗い運河や石造りの倉庫が町の雰囲気を暗鬱にしています。明治へのノスタルジアを感じる町です。その雰囲気が小樽の魅力です。他の観光地には無い魅力です。

小樽の歴史です。小樽の町は江戸時代には松前藩の商業港として栄えた古い町です。札幌の海の玄関口でした。小樽港は北海道の開拓民の上陸や物資陸揚げの港だったのです。
しかし青函トンネルが出来、函館と札幌間の鉄道が完成すると忘れられた町になったのです。北海道経済の中心都市として発展していた小樽は忘れられてしまったのです。そして明治時代の建物だけが残ったのです。
小樽は何度行っても旧懐の情、ノスタルジアを掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方にささやかな赤い火がポッと灯ります。
そんな赤い炎を大切にしながらゆっくり、ゆっくり散策し、写真も撮りました。2010年の6月17日の夕暮れに家内が撮った写真をお送り致します。

1番目の写真は暗い運河と石造りの倉庫です。この倉庫の中は土産物屋になっています。倉庫群がそのまま商業施設になっています。

2番目の写真は海運業者のビルだったものをそのままガラス細工の土産物屋に使っている風景です。内部にはベネチアから運んで来たゴンドラが飾ってあり華やかな雰囲気です。

3番目の写真は明治時代の役所のような建物です。中の1階部分は公開してありました。

4番目の写真は昔のまま暗い倉庫の内部です。物資運搬用とトロッコのレールが残っていました。

小樽の暗い印象の原因の一つは1933年に特高に殺された小林多喜二を思い出すからです。享年29歳でした。小林多喜二の『蟹工船』を思い出すのです。小樽には小林多喜二が行った寿司店もそのままあります。
小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして1933年に逮捕され拷問で殺されたのです。小樽には小林多喜二文学碑があり市立小樽文学館には小林多喜二ゆかりの物が展示してあります。

今日はこのノスタルジアにまつわる話を書きました。小樽にまつわる話を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「常夏の国、小笠原諸島の花々」

2022年12月20日 | 写真
常夏の国、小笠原諸島の花々の写真をお送りいたします。
「小笠原諸島の花々」を検索たら沢山の写真が出てきました。
南国的な花を選んでお送りいたします。

1はムニンヒメツバキ(固有種)の花です。

2はテリハハマボウ(固有種)の花です。
3は月桃の花です。

4は小笠原村のムラサキカタバミの花です。

「606基もの古墳がある関東地方の不思議」

2022年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに私が受けた学校の歴史教育では応神天皇や仁徳天皇の巨大な前方後円墳だけを強調して教えます。天皇制を賛美しようという偏った視点で古墳時代(AD300年からAD700年まで)を教えるので大和地方の古墳だけを丁寧に教えます。
その結果、私は古墳は大和地方だけにあると信じていました。しかしそれは大きな間違いでした。大きな誤解でした。
よく調べてみると古墳は北海道の江別古墳群を含めて全国に普及し、盛んに建造されていたのです。関東地方だけでも606基もの古墳があるのです。古墳は不思議なものと思います。不思議な墳墓です。
今日は関東地方にある幾つかの古墳をご紹介したいと思います。
まず隣町にある府中市の熊野神社古墳をご紹介します。

1番目の写真は府中市の熊野神社古墳です。AD650年前後に作られた古墳です。私が撮った写真ですが、多摩川の河原の石で造った古墳の様子が写っています。なお熊野神社は江戸時代に作ったもので古墳とは本来無関係なものだったのです。
そこで以下に関東地方の古墳の幾つかをご紹介いたします。詳細は、https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20130901 にあります。

(1)埼玉県行田市の古墳群のご紹介
埼玉県の行田市の郊外には巨大な古墳群が存在しているのです。
埼玉(さきたま)の古墳時代に強大な王国が存在したことを想像させます。出土した、見事な細工の金属製馬具や装飾品の展示もあります。5世紀終わりから7世紀はじめに作られた古墳から出たその他の副葬品が数多く展示館に公開されています。

2番目の写真は埼玉県の行田市に9基もある巨大な前方後円墳や円墳の航空写真です。

3番目の写真は行田市の古墳群を囲むお堀です。以下は家内が2008年に撮った写真です。

4番目の写真は行田市の古墳群のなかの一つの古墳です。

5番目の写真は古墳から出土した騎馬像です。金属製の馬具や飾りは韓国、慶州の古墳からの出土品と似ているのです。埼玉の古墳を作った人々の中には韓国、慶州から渡ってきた人もいたようです。高麗という地名も埼玉南西部に現存しています。
尚、古墳に関する調査結果やその検証と写真は「埼玉古墳群」と検索するといろいろ出てきます。

(2)山梨県の古墳群のご紹介
さて甲府盆地の石器時代と縄文時代には、現在の北杜市の八ヶ岳南麓に人々が沢山住んでいました。
時は流れ、西暦後300年以後の古墳時代になると甲府盆地の釜無川と笛吹川の両側の稲作地帯にのみ人々が定住していたようです。
その様子は山梨県にある30基の古墳の分布が甲府盆地の稲作可能な地帯にだけ集中している様子からも明快です。

6番目の写真は甲府盆地にある古墳を横から見た写真です。古墳の中腹に立っている人は家内です。古墳の大きさが分かります。

7番目の写真は笛吹川の傍にある全長170mの巨大な前方後円墳の甲斐銚子塚古墳の写真です。この古墳は西暦350から400年に造営されたと言われています。2013年1月17日に家内と一緒に行って撮って来た写真です。
山梨県の古墳や、出土品を詳しく見ていくと、このような内陸地にこれだけ多くの古墳が築造されていたことに驚きます。
古墳は3世紀から5世紀にかけて全国に造られました。大和地方や機内の前方後円墳だけが教科書に載っているので、巨大な古墳が全国にあったという事実を知らない人も多いようです。しかし甲府盆地にも30基も作られていたのです。
この数多くの古墳の存在は地方豪族の存在を示しています。そして古墳造営の費用を支えたのは弥生時代から始まった水稲栽培の発達だったのです。
さて、日本の総人口は、縄文時代中期の26万人まで増加し、末期の寒冷化で数万人まで減少します。しかし弥生時代に入り、農業の発達し始めると増加一方に変化したのです。
山梨県の甲府盆地は古墳時代になると豪族たちは巨大な古墳を造営したのです。しかし30程の古墳に葬られている豪族達の名前は定かではありません。この状況が、律令国家の甲斐国の成立と甲斐国分寺が出来る時代へとつながって行くのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:山梨県にある30基の古墳の説明======
下は山梨県にある30基の古墳の一覧表を示します。http://kofun.info/kofunlist/15より。

名前、     形、       紹介文
姥塚古墳   円墳 径約40m、高さ約10mの円墳。 一番の見所は南西に開口す ...
滝坂の往生塚    円墳 径15m、高さ3mの円墳。 埋葬施設は無袖型の横穴式石室で ...
王塚古墳   帆立貝式古墳 全長約65mの帆立貝式古墳。 墳丘各所で円筒埴輪が見つかっ ...
大塚古墳   円墳 径約15mの円墳。 片袖型の横穴式石室が南に開口、全長約8 ...
岡・銚子塚古墳    前方後円墳 全長92mの前方後円墳。 墳丘には段が有り、葺石、埴輪が存 ...
おつき穴古墳    円墳 墳形・規模は不明。公園内に保存されている。 横穴式石室が南 ...
甲斐銚子塚古墳    前方後円墳 全長約170mの前方後円墳。 墳丘は後円部3段、前方部2段 ...
加牟那塚古墳    円墳 径約45mの円墳。 埋葬施設は南に開口する横穴式石室で、全 ...
かんかん塚(茶塚)古墳    円墳 径約26mの円墳。 埋葬施設は全長約7mの竪穴式石室で、武 ...
狐塚古墳    円墳 径約15m、高さ約3mの円墳。 埋葬施設は南東に開口する無 ...
経塚古墳    八角墳 全国でも発見例の少ない八角形墳の1基である。 径約12.5 ...
こうもり塚古墳     円墳 大平1号墳、地元では「こうもり塚」と呼ばれている。 径10 ...
盃塚古墳    円墳 径23m、高さ4.5mの円墳。 墳丘の周囲を幅1.8mの濠 ...
地蔵古墳     円墳 大平2号墳、地元では「地蔵古墳」と呼ばれている。 径10~ ...
地蔵塚古墳    円墳 径約35mの円墳。 片袖型の横穴式石室が南に開口、全長約1 ...
団栗塚古墳    前方後円墳 現在は円形をしているが、前方後円墳だったようだ。 円丘部の ...
千米寺古墳群     群集墳 古墳時代後期の円墳群。 かつては60基以上が存在したようだ ...
塚原上村古墳     円墳 古墳時代後期に築造された円墳。愛称は「大西のおかま」。 墳 ...
天神塚古墳     円墳 径約35m、高さ約4mの円墳。 埋葬施設は南に開口する横穴 ...
中秣塚古墳    円墳 赤坂台古墳群の1基で、径14m、高さ約3mの円墳。 埋葬施 ...
西ノ原古墳    不明 墳形・規模不明。石室が保存されている。 石室は南東に入口を ...
子の神古墳    円墳 古墳時代後期に築造された径約5mの円墳。 横穴式石室が南に ...
八幡塚古墳     帆立貝式古墳 現状は方墳だが、築造当時は帆立貝式古墳だったようだ。 葺石 ...
平林2号墳     円墳 春日居古墳群の1基で、径15mの円墳。 埋葬施設は無袖型の ...
ポンポコ塚    円墳 径15mほどの円墳。 出土品は不明だが、横穴式石室の形態か ...
丸山塚古墳     円墳 径72m、高さ11mの円墳。 墳丘は2段に築かれ、埴輪が存 ...
万寿森古墳    円墳 径約25m、高さ約5mの円墳。 2006(平成18)年の発 ...
六科丘古墳    円墳 径28mの造出し付円墳。 内部構造については不明だが、鉄剣 ...
物見塚古墳     前方後円墳 現存長約45mの前方後円墳。 墳丘全体を葺石が覆っていたと ...
竜塚古墳     方墳 1辺約56m、高さ約7mの方墳。 墳丘は2段に築かれ、上段 ...
・・・以下省略します。

「今年のシクラメン5鉢、これでクリスマスやお正月が来ます」

2022年12月19日 | 写真
例年、12月にシクラメンの花を5鉢を買います。今年は気に入った色合いのがなかなか見つからず今日やっと5鉢揃いました。
これでクリスマスやお正月が来ます。
今年のシクラメンの花の写真をお送りいたします。

「行田への遥かな旅、美しい城と秘密の食べ物」

2022年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は遥かに遠い町をご紹介したいと思います。関東平野の北にある行田市のことです。ロマンチックな旅でした。
東北自動車道を加須ICで降り、17km西へ走れば行田市に着く筈です。ところが道の左右は茫々たる水田と麦秋が広がっています。人家が遥か遠方に散在するばかりです。とても心細くなり旅愁を感じさせます。旅愁はロマンチックな思いに繋がります。知らない町への憧れも湧いて来ます。途中の風景の写真を示します。

1番目の写真は 東北自動車道を加須ICから行田市までの風景です。撮影日時は2008年6月7日午後です。
写真のような風景の中を根気よく走ると行田城が現れます。行田市は水田に浮かぶ孤島のようです。
行田城の高い天守閣は美しい白壁の建造物です。天守閣は高い石垣に囲まれ碧い水を湛えたお堀に写っています。3枚のお城の写真を示します。

2番目の写真は行田城の天守閣です。

3番目の写真は行田城の簡素な造りの隅櫓です。

4番目の写真は行田城を囲んでいるお堀の様子です。
行田城は忍城とも言います。この城は1479年に成田顕泰の作った城です。
埼玉県にある行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。
江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。
外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。

1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。
石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。

深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。映画「のぼうの城」で野村萬斎さんが城主を演じていました。水面は7月になると一面淡紅色の蓮の花に彩られます。
しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。
江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城しました。
上の写真にある白い天守閣は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。
幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。

私は若い頃から日本のお城の美しさに魅了され日本中のお城を丹念に見て回りました。
北海道の松前城、本州の津軽城、盛岡城、仙台城跡、白石城、松本城、掛川城、犬山城、名古屋城、大阪城、彦根城、姫路城、岡山城、松江城、高松城、熊本城などを訪れました。
日本のお城は戦争の為の構造もしていますが、それよりも美しく作られている文化財と思います。

考えて見ると箱根の関所から東には立派な天守閣のある本格的なお城は3つしかありません。
お城のある風景を見ながら戦国時代の歴史を想って頂けたら嬉しく思います。

城の話を止めて行田市の不思議な食べ物をご紹介したいと思います。
忍城のそばに水城公園があります。入るといきなり行田名物「ゼリーフライ」の看板の店があります。

5番目の写真は行田名物「ゼリーフライ」の看板の店です。
これが奇妙な食べ物で、秘密の名物らしいのです。ジャガイモ粉、おから、小麦粉を混ぜ、葱少々をいれ、木の串に笹かまぼこのような形につけて、油で揚げ、ソースに漬けたものです。おやつに行田の人々が好んで食べるそうです。買って食べたら素朴な懐かしい味がします。しかし何とも形容しがたい微妙な味です。味の好みは習慣によります。行田の人は子供の頃おやつとして食べ、習慣で好みの味になり、大人も老人も気軽に食べます。市内にゼリーフライを売る店が数十軒あるそうです。行田の主産業である足袋工場が当時は多くあり、女工さん達のオヤツとして作られたものだそうです。
好奇心の強い観光客が買っている。味はどうですか?と聞くと、買うのは2本だけにしたほうが良いですよ、と忠告してくれる。食した後で忠告に感謝!

行田の人の合言葉。「うまい。うまい!、うま過ぎる!」と呼びかけると、「十万石饅頭!」と答える。答えられない人は行田の人でない。よそ者である。この饅頭はテレビの「秘密のケンミンショー」で最近取り上げられたので有名になりました。
地方テレビ局のコマーシャルで、「うまい。うまい!、うま過ぎる!十万石饅頭!」と30年間変えずに流れていたそうです。

たまたま入ったウナギ店の隣が「十万石」の菓子店であった。ウナギを丁寧に焼いている間に家人が饅頭を十分過ぎるくらい買ってきた。上質の小豆をつかった、じょうよ饅頭で「花園饅頭」の行田版でした。

行田への旅は関東平野の広さとローカル文化の面白さを実感した小さな旅でした。
地方の歴史を調べると戦国時代から徳川の江戸幕府が出来るまでの動乱の時代の地方、地方の実態が浮き彫りになってくるのです。それぞれの地方には激しい時代の変化と武将の興亡があったのです。その動乱に巻き込まれた農民や町人を想うと粛然としたき気持ちにもなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ボルネオ島北端のキナバル山麓のエキゾチックな花々」

2022年12月18日 | 写真
熱帯地方なので色んなカラフルな花がたくさん咲いていたそうです。詳しくは、http://yamadeasobou.sports.coocan.jp/.../kinabaluhana1.htm をご覧下さい。
例として4枚の写真だけをお送り致します。花の名前は分からないのでご容赦ください。

「イグナチオ教会の今日の『待降節第4主日のミサ 』の動画配信」

2022年12月18日 | 日記
今日の『待降節第4主日 のミサ』は 10:00 時からです。

動画配信のご案内をお送り致します。
https://www.youtube.com/watch?v=XcF4sEetUmw

10:00 時以後なら何時でもミサにあずかることが出来ます。

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
イザヤの預言(イザヤ 7:10-14)
第2朗読
使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ 1:1-7)
福音朗読
マタイによる福音 (マタイ 1:18-24)

写真はカトリック関口教会です。

カトリック関口教会からも今日の『待降節4主日のミサ 』の動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=lvyqsk0P9_s です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)

「荒れる日本海、雪の日本海」

2022年12月17日 | 写真
最近の日本海側は荒れ、雪が降っています。しかし太平洋側は晴天です。気温は太平洋側も低く
いよいよ真冬到来です。雪国の人々の苦労を思い、健康と安穏を祈っています。
太平洋側の人々が知らない荒れる日本海、雪の日本海の風景写真をお送りいたします。
写真は、「冬の日本海の風景写真」を検索して、多数の写真の 中から美しい写真を選びました。

「南国、ジャワ島に咲く花々の写真」

2022年12月17日 | 写真
ジャワ島はインドネシアの首都、ジャカルタのある大きな島です。世界一人口の多い島です。形状は東西に細長く、スマトラ島の東、カリマンタン島(ボルネオ島)の南、バリ島の西にあります。

1番目の写真はジャワ島 を彩る花、アラマンダ です。背景には ジャワ島のメラピ火山です。

2番目の写真はアラマンダです。この花もジャワ島を代表する花です。ツル性で庭先で屋根まで届いてよく植えてあります

3番目の写真はジャワひぎり (ジャワ緋桐)です。インドネシアのジャワ島が原産です。茎は直立し、高さは3.6メートルほどになります。枝の先端に、円錐状の集散花序をつけ、鮮やかな橙赤色の花を咲かせます。

4番目の写真はストレリチアです。日本でもよく見かけるストレリチアの花は、ジャワ島にも咲いています。インドネシアでは普通に見られる花のようです。