春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

寒中、花見

2010-04-14 05:56:00 | 仲間との絆

毎年恒例の新宿御苑での花見。
開花は早かったが、その後寒い日が続き、花びらは散らずに長く持った。
既に満開の木の下であるが、この時期には底冷えする寒さであるが、花見客で満員の盛況であった。入場券売り場で長蛇の列「最終は此処」の案内看板が出るぐらいの混み方であった。
しかし、何時ものことながら、場所取りにご尽力頂く、御夫婦のお蔭で、たわわに垂れ下がる、最高級の場所を確保していただいた。
門から苑内に、入るとかなり「おいおいこれが花見かよ」と思われる桜からかなり離れた芝生での、淋しい花見席もびっしり埋められる位の混雑ぶりにこれ程の舞台は大変希少な贅沢な場所であった。

お弁当を拡げ、1年ぶりの再会に、先ずは健康で何とか、此処で出会える喜びを感謝する。既に此処での花見は10年以上の繋がりをもっている。
そもそも、パソコン通信の走りに、フォーラムの会議室を設け、自動で巡回出来るソフトを駆使して、登録した仲間が自由に話し合う、井戸端会議で知り合った仲間であった。
その巡回ソフトも、「ニフターム」「秀ターム」など諸々の専用ソフトを学び、パソコンの世界に深い入りしていったのも、この井戸端会議が一つの役割を果たしている。
今年は同行されなかったが、10年以上の歴史は子供、家族の成長が伴い、当初から参加した幼稚園、小学生も、既に大学生にもなられており、時間の経過を物語る。参加するメンバーも、おつむの方は豊かな黒髪から、テカテカ輝くか、銀髪の世界に変わり自然にその姿は年を重ねている。
組織で作られた会社時代とは異なる繋がりではあるが、気心知れ、1年を通じて僅かな出会いも、お互いの健康を確かめあい、酒を交わし楽しく過ごせる一時なのである。
まあ、それもこれも、宴会を支える御夫婦の尽力の賜物である。こうして今年も五体満足で参加出来ることに感謝する。
ところで気炎も上がり、寒さの中、飲めば生理現象も自ずから、生れてくる。満員の入場者に過少のトイレに必然的に長蛇の行列で、うんざりするも20分もかかった。未だそれでも、良い方で女性は2倍以上の行列が延々と繋がっていた。
こんな寒さにお燗の一杯が腹に染み渡る。宴もたけなわ尽きぬ話しに盛り上がったが、徐々に引け始める頃合いに散会する。新宿駅まで、混雑の行列が繋がった。
季節外れの寒さと電車の暖房が多少の酔いに、座ったらたちまち夢の世界へ気持ちよく寝てしまい、久しぶりに終着まで乗り過ごしてしまった。(笑い)

花の都でグループ会社のOB会

2010-02-23 11:57:00 | 仲間との絆

役員13名、 0B約150名、それにホスト10数名、恒例のグープ会社のOB会は花の都、丸の内の商工会の8Fホールで行われた。
未だ風が冷たい2月の外気に、会場だけは、枯れ木じいいさんに何故と思うほどのパワーと熱気で会場内は猛烈に暑い。社長に始まって、OB代表の挨拶が約30分続く。
世の中の不況の嵐に、会社も今まで経験した事のない状況にあることを数値を背景に赤裸々に伝えられ、改めて厳しい現実の姿を思い知らされる。しかし、会社の長いトレンドから、これまで何度か経験してきた事であり、今の谷底も一通過点と考えれば深刻になることはないとのOB代表からのエールに落ち込み気味の雰囲気も多少和らいだ。

「乾杯」の発声と共に、酒、料理に取り付き、会場内は三々五々、あちこちで塊が生れ、歓談が進む。
騒然とする会場に、知り合いの顔を見付け、他愛のない話しを交わし、群れから群れの中を彷徨い、正味1時間、あっと言う間にお開きになった。
1年に1回の開催であるが、これだけが拠り所か、北は北海道から南は九州まで遥々、高い飛行機代をはらってまで来る思い入れの強さははかりしれない。

組織の枠の中、数値目標に追われ、息の詰まる思いも、しながらこんな会社に恨み言を唱えたりしながら親方日の丸でとうとう満期まで居続けてしまった。
組織から離れても、育ててくれた会社と言う枠組みから、離れられず、活きている事の証、「生存証明」をアッピールすることが、此処に来る事の意義なのであろうか・・・。
既に三途の川を渡った者、輪廻転生に彷徨う者、端からこんな所には背を向ける者など居る中で、何故これ程集まるので有るのか。
僅か1時間の群れ会いに意義を解きあかせないまま、惰性で来ているような感じさえする。

結婚式に招かれて

2009-10-18 21:56:00 | 仲間との絆

舞浜のディズニーシーで結婚式があり、晴れやかな舞台を前に末席に友人の一人としてお招き頂いた。
ディズニーシーに隣接したホテルミラコスタの教会の厳粛なかでの式であった。
花婿のYさんとは幕末史を通じて知り合い、幕末ロマンを語り合う仲間の一人であった。関連する歴史読本を読みあさり、幕末の世界に浸り楽み、取りつかれてしまった一人かも知れない。
地味~な世界でもあるが、お母上さまも幕末フアンの一人、そんな家庭環境もあって、貪欲な知識欲から幕末思考は益々回転良く磨かれている。
縁は異なもの、今回素敵なお相手に巡りあわせたご縁は多少なりとも、幕末仲間としての繋がりから生れたようであり、多少の関わりをもつ当事者の一人として、大変おめでたいことである。
何となく、ギスギスした社会の中で、こうしたご縁が生れ、仲間として一緒にお祝い出来、こうした人との巡り合いに至福の喜びを感じる。
教会の周囲は飾り窓に囲まれ明るい日射しが、差し込む。天井はご覧のようなドームに繊細な天井絵が飾られている。

正面のステージには牧師さん。
奥にはオルガンと右側には男女数人の聖歌隊
オルガンの演奏に併せて朗々と唄われる賛美歌が教会内で響きわたり、厳かな雰囲気が会場内に包まれる中、結婚式が始まる。やがてモーニング姿の花婿、真っ白なウエーディングドレス姿の花嫁が入場する。
父親に手を携えバージングロードを進む花嫁姿は眩しく、光輝いている。

牧師さんの式進行に併せて、愛の誓いを滞りなく済ませ、参列者から祝福のコールと投げかける花の舞う中で教会を退席し、厳粛な式は無事に終了する。
心なしが紅潮する、二人の笑顔、とても素敵なカップルであった。

花の都、横浜関内で

2009-06-29 13:27:00 | 仲間との絆
横浜開港150周年、門戸を閉ざしていた幕府が外国からの圧力に屈し、遂に開いたのが当時辺鄙な横浜であった。外国との接点として港や、外国人の居留地が生れ、外国文化をいち早く取り入れ今日の隆盛を誇る"みなとみらい"に繋がっていく。
その独特の文化を持つ、横浜は美術も今日の隆盛を極める伝統的な文化遺産の一つで、絵を描き鑑賞する風土が今日まで引き継がれている。
横浜に住まい、第一線で次々と作品を生み出し、非凡な作品が評価され、数々の受賞までされている画伯の案内で、その作品に触れる事が出来た。
画伯と言っても元々、我々と同じ、会社人間で、入社以来、火力発電所の建設畑一筋に渡り歩き町から離れた辺鄙な建設場所での仕事が多かった。
建設に明け暮れ、完成後も保守メンテナンスにフィールドワークに身を捧げ、叩き上げ、役職を勤める筋金入りの火力発電所の顔でもあった。
そんな泥臭い毎日に、およそ美術とはどうしても結び付かないのであるが、要職を勤め上げた後、全くベクトルの異なる別世界に見事な転身を図られた。
早速往復4時間弱、遠い華の都、横浜関内の横浜市民ギャラリーに向かう。会場ロビーで出迎えを受け、その姿は長い髪にモダンな帽子を被り完璧なまでの画伯に成りきっており、あの現場でのヘルメット姿とは全く別人であった。
ギャラリーにはハマの市民芸術家が大凡200点以上のそれぞれ自慢の作品が展示され、それを鑑賞する多くの来場者で賑わっていた。

「ヒト並じゃだめなんだ!!」チンパンジーを素材にした油絵作品が大きな目を開き、何か訴えるようにこちらを見据える姿が印象的であった。
作品発表を機会に火力の建設に携わった仲間が集まり、場所を変えアルコールを注入し、老人達が喧々ガクガクと意見を交わし、発散している。
耳の衰えに自然と声がでかく、掴みかかんばかりのエネルギシュなバトルも落とし所は心得ているようで、豊かな発想の展開に、ただただ驚くばかりであった。
「アシカのベクトル理論」「魚の骨によるメール誤操作分析」などなど電気理論やQCの話が懐かしく聞こえてきた。以下でご案内している。
K5・K6この指止まれ

頑張れ友よ

2009-06-13 14:32:00 | 仲間との絆

◇病魔に蝕まれた友
写真はつい、数年前一緒に行った青梅の梅見物の時の旧甲州街道を歩く、友人の姿である。
それが、病魔に蝕まれ、その歩く姿に、今の姿をとても重ねる事が出来ない位に悪くなってしまった。


玄関越しに声をかけると、「ハーイ」と中から反応があったが、中々玄関口に出て来ない。
しびれを切らし、玄関の引き戸を開けると、柱に掴まり、ようやっと立っているTさんが突然の訪問に精一杯の笑顔で出迎えてくれた。
部屋の真ん中に仮設の柱がドンと立っているが、最早衰えた筋力に、これに掴まりながら、漸く家の中を移動している。
「これを見てよ」と言われるまま2階に通じる階段には大きな手すりが、階段に沿って据えられている。
「全く情けねえ~、もう体が言うことを効かず、2階に上がることは出来ても、降りるのは怖いんだよ」
我が家から数百メートルの距離、何時でも行けると思いつつも、リハビリーで外出機会も多いようで、中々会う事も出来ず、とうとう半年を過ぎてしまった。
しかし、不治の病に是れ程、悪化の方向に進んで居るとは思えなかった。

◇リハビリの戦い
週に2回は7:30に家を出て、車で1時間、吉野街道から青梅の山奥の多摩リハビリセンターに通っている。冬場ではこちらが雨でもセンターではみぞれに成っているぐらいの山間部である。
更に、週に2回は市内のリハビリに通っており、1週間はリハビリの過密スケジュールの上に載せられている。
歩き、手の動作、喋り、歌を唄うなど単純で根気のいる動作をとにかく繰り返しすることで病魔の進行を抑え、遅らせることしかないようである。
本人の気力と其処まで往復する足廻りと介添え役の奥さんの負担に寄るところが絶大である。
目に見えて、歩く事がめっきり衰えたが、輪をかけ歯がゆいばかりに言葉も重く、ついつい途切れてしまうようで、こちらからゆっくり話さないと、最早対話が出来ない位に言葉の障害が目立ち始めた。
そんな置かれる状況に、こちらからかける言葉も、どう声をかけて良いやら、戸惑ってしまう。
励ましにもならず、置かれる病魔の中に「顔の色つやは、良い」などと軽はずみに言ったら、「この病気の特徴で、第三者が見たら一見正常者と変わらぬ風体であっても、体の機能は蝕まれ、動けなくなってしまうんですよ」と奥さんから言われてしまった。
お身内にも看護要の方が他に居られ、重なる看護疲れに過日、奥様も救急車で運ばれてしまったようで、奥様の気力が改めて大きな支えになっている。
近代医学を持っても、根治出来ないことが未だ未だあることを見せつけられた。今出来る事は顔を見せ、声をかけ、外部から刺激を与える位しか見いだせない。

◇悪化する一方の病状
「耳鳴りがする。目眩がする、ちょっと検査してくる」
と言って、隣人Tさんは病院へ向かって1週間経ち、全然沙汰なしになってしまった。
同じ会社に居たものの、在職時代は余り、仕事では関わり無かったが退職後、ご近所の誼で、飲みに、山歩きなどお付き合いしているTさんである。
何度か留守宅へ伺ったが、何時も留守である。恐らく家族も付き添いであろうと想像していたが、その様子から余り、良からぬ方向の病状とはと推測はしていた。
それから暫くして、お家族から衝撃的な連絡を受ける。
原因が掴めぬまま、耳鼻科で診察を受けていたが、要領を得ず、検査施設の整った病院でMRIなどの検査をした結果、何と「脊髄小脳変性症」と判定された。
調べてみると神経細胞が破壊、消失していく病気で、運動神経がが徐々に衰退していくが薬では進行を遅らせるだけで根治は不可能である。
10年、20年の単位で徐々に進行していく、病気である。
「只今~、1カ月の長い入院になってしまいました」
と、大きな声で本人から電話でのご挨拶があった。
元気さとは裏腹に口の回転は歯がゆいばかりに、口ごもる様子が電話口からはっきり伺え、喋る言葉さえ徐々に奪っていくようであった。
出来るだけ間延びせず、相手の伝えたい意志を引き出す形で、こちらかの話は控えめにと気遣いながらの重い電話であった。
電話口を通して、目の前のTさんに果たしてどう言葉を掛けてよいやら、言葉にならず電話口から伝わる言葉だけで、狼狽してしまった。
歩く事も不便になった。だからと言って歩く事を避けると、どんどん退化していくようであり、粘り強いリハビリへの挑戦が唯一残された道のようである。
本人曰く、日常付いて廻るように目眩は大分前からあったようで、その原因が判らぬままゆっくりした期間で、じわ~と蝕まれていたようであった。
つい先頃まで老人介護で患者さんの輸送を行っていたのに、まさか是れ程急に、立場が逆転し介護される立場になるとは思ってもみなかった。
近代医学を持っても不治の病に改めて、無力であること、しかし時間と共に蝕まれていくTさんにただただうろたえるばかりであった。

写真は一昨年の青梅の寒梅に訪れた時の彼の姿である。


山道を軽快に歩く後ろ姿はどうみても健康人そのもの、誰が今日を予想したか、もうそんな山歩きはかなえなくなってしまった。


ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/