春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

涼気満点のお召し列車

2010-07-19 20:17:00 | こんな鉄道もあるぞ~

梅雨の開け宣言で猛烈な暑さ、朝から30℃を越える中、都心へ出かける。
容赦なく照りつけ陽炎も立ち、コンクリートからの容赦ない照り返しに、滲む様な汗が額からしたたり落ちる。
暑さに身体が未だ順応していないのか、日射しを避ける影もなく、ひたすら駅へ向かうが、冷房がガンガン効く所に早く入りたいと、めっきり暑さに弱い弱音を吐きたくなる。
上りが入る間、向かい側のホームに普段見受けられない紫色の薄いピンク帯びの車両が入線する。
長いテーブルを挟んで、向かい合わせにゆっくり車座に座り、その高さから恐らくお座敷列車である。
ゆったりとその空間に楽しむ姿が手に取るように見える。
その、変わった姿に、ワンショットを収めようと、手提げの中のカメラを間探っている間にその車両はアレヨアレヨと言う間にゆっくりと目の前を通り過ぎ過ぎて行く。
カメラに収めた 時は既にホームから外れた遥か彼方であった。ガンガンと迫る熱気の中、専用列車は止まることなく、貸し切りで西に下って行った。恐らく沿線のアルプス辺りに冷気を求めての観光列車であろう。
3連休に中央高速も大渋滞と聞いている。
そんな下界の苦痛をよそに、足を投げ出し、優雅な旅の姿が実に羨ましく、見えていた。
それにしても、この暑さに早くも、ギブアップ気味である。

巨大な爪が逞しく見える

2010-07-11 10:38:00 | こんな鉄道もあるぞ~

横川では極めて険しい山岳路を克服した鉄道遺構をわくわくしながら確かめる事が出来る。
我が国のアブト式鉄道として明治26年信越本線の標高386mの横川と939mの軽井沢との間を勾配66.7パーミルで上り下りする11.2kmが開通した。当初はアプト式蒸気機関車を使用したが、明治45年電化されアブト式電機機関車に置き変わった。
ED421アブト式電機機関車は昭和9年日立製作所で製作され、昭和38年アブト式線路が撤去するまで、第一線で活躍した。(写真はED429)
列車は3両を横川寄りに、1両を軽井沢寄りにつけ列車を挟み合計4両で牽引していた。
最大運転速度は粘着区間が25㎞/H、ラック区間が18㎞/Hとマラソンランナーより遅く、自転車並の速度、で走っていた。


レールの中央にはラックレール(歯軌条)が敷かれ、車両のピニオン(歯車動輪)をかみ合わせて急勾配を走行する。2~3枚のラックレールを少しずつずらして配置し、常に歯のどれかが車両の歯車とかみ合ってけんいん力やブレーキ力を高めている。
ラックレールの特殊な構造は破損などによる事故も多く、1晩に1人、2回)4人で8回)の「夜間特別巡検」が行なわれた。発雷信号、合図灯、大時計など持ちながらの夜の巡回は人里離れた山の中だけに胆力が必要で会ったという。
アプトの導入区間はエントランスと言われ、機関車がこの区間さしかかると最新の注意を払って進入した。当初は確認のため専用のエントランス要員も用意されていた。

車両の下部にはご覧の通り、鋭い爪のピニオン(歯車動輪)がある。機関車には電動機が3個あって、2個は動輪を回転させ、中央の1個がラックモータと呼ばれこれを使って歯車を回転させ、急勾配の推進力となっている。
巨大な爪が逞しく、迫ってくる様子は山岳車両の逞しい姿を見る様であった。
そんな路線も確かめる間もなく、新幹線があっと言う間に越えてしまっている。
66.7パーミルの挑戦

世界遺産「めがね橋」に感動する

2010-06-30 21:52:00 | こんな鉄道もあるぞ~

信越本線が無くなった今、昔を懐かしむように廃線跡にアプト道が出来、トロッコ列車か、並走する遊歩道で新たな旅達を楽しむことが出来る。
昭和38年(1963)、アプト式廃止とともに廃線となり、約70年間で、役割を閉じ、新線側にバトンタッチした。現在アプトの道として横川から第6号のトンネルまでの碓氷線の専用軌道を遊歩道として蘇り、4.8㎞を歩くこと出来る。
行きはこのトロッコ列車に乗り、当時の国鉄の最大傾斜66.7パーミルを体感する。添乗の車掌さんの案内で傾斜区間の通過を知らされ、その標識に目を凝らし、今こそ難所の勾配を越えたのだと牛歩の如くゆっくりと、走る車上からじっくり確かめる。
横川駅から僅か二つ目の駅が終着駅「峠の湯」駅で降車する。専用軌道は此処までで、此処から路線跡に出来た遊歩道で碓氷峠に向かって行く。ゆっくりした勾配であるが、登りにつけ、廻りの風景が徐々に山深くなる。幾つかのトンネルを越え碓氷線の18ある橋梁で最大の橋梁である「めがね橋」に到着する。
こんな深い山間に目の前の美しいレンガ橋に感動する。
長さ91m、高さ31mのレンガアーチ橋で国内最大である。明治25年(1892)に約7カ月で造ってしまった。使用されたレンガは200万個で川口、深谷で運ばれてきた。2年後、地震で一部崩れ、補修し支柱は太く、橋梁も厚みを加え現在に至っている。
その美しい姿に橋上から、或いは急な崖を降りて、国道から見上げる様に、様々な角度からアングルを変えて写真を撮りまくるがそれぞれその姿が絵になる。
遊歩道は将来、この先の熊の平まで延長される予定である。「めがね橋」は国指定重要文化財・日本近代化遺産第1号と登録されているが、更に世界遺産登録を目指している。
日清、日露など戦争を背景に東京と日本海に抜ける輸送路が国策として必要であり、どうしてもこの険しい碓氷峠越えが必要であった。そんな背景から、今日の機械動力のない時代に大量な犠牲者を生みながら人海戦術で作ってしまった。そんな先人達の残してくれた遺産をじっくり確かめながら深い山間のアプトの道を楽しんだ。
碓氷線、アプト道を行く

アブト道を支える、変電所、トンネル

2010-06-19 12:02:00 | こんな鉄道もあるぞ~
◇丸山変電所・・・重要文化財近代化遺産第1号

アブト式電機機関車の走行を担うエネルギーは此処から供給される。

初めて電化された明治45年に建てられ、碓氷峠を走るアブト式電機機関車に電気を供給した。建物はレンガ作りで、右側が蓄電池室、左側が機械室である。同型のもの軽井沢にもあったが、現在は取り壊されている。当時、国鉄が直轄する横河火力発電所より送電された6600Vの交流電圧で回転変流機を駆動し660Vの直流に変換し、電車に送電した。
蓄電池は電機機関車が登坂時に電力を補う役割を持ち、登坂牽引のエネルギ源として、電機機関車が登坂牽引を影で支えた。
蓄電池室だけで、これだけの大きな建屋を保有するのは312個の大量な蓄電池を収容するスペースが必要になってくる。
国の重要文化財近代化遺産第1号に指定され、近年外観工事を終了し、往年の姿に修復している。
近くには信号所もあり、横川変電区の区長官舎や職員の官舎もあり、40人以上が働いていた。アブト式廃止後、廃墟同然になったが2002年に創建当時の姿に復元されている。
何れにしてもこの特異な建物は碓氷線の登坂牽引の電化の推進役として無くてはならない存在なのである。

◇碓井峠の山間部を走り抜けたトンネル
碓井線は旧信越本線の横川ー軽井沢間、11.2kmを言う。26のトンネルと18の橋梁があり、明治中期に1年6カ月であっと言う間に作ってしまった。


電化前はトンネル内は機関車からは吐き続ける黒煙と大量の煤煙で一杯になってしまい、峠の坂を登る列車の場合、煙突の中を列車が突き進んでいくようなものであった。
煤煙は機関手に思い切り降りかかるが、乗客にまで危険が及ぶ可能性があるため、英国人の考案による排煙幕を設置した。
これはトンネル入口に隧道番を配置し、列車がトンネルに入り切ると、すぐに大きな布でトンネルを遮断し、列車の最後尾の空間が真空に近い状態となり、煤煙はそこに滞留させ煤煙害を減らした。
列車の運行に合わせてこのような「隧道番」昼夜を問わずが身体を張って大きな布を操作し煤煙対策していたのである。
緩い勾配であるが確かな勾配を登り詰め、いよいよ遊歩道は碓井峠の山間部に達し、その一つのトンネルに到達した。隧道にはその過酷な煤煙を物語る黒い煤がしみ込んでいた。

遊歩道はトンネル内の照明をたよりに更に奥深く入ってゆく。
トンネルの出入り付近の温度差から圧力差がうまれる、風がトンネル内を吹きまくる。時折、天井から冷たいものが滴り落ちる。長い年月に漏水も有る様で、暗闇に突然の冷水の洗礼は魔女の追ってか、不気味である。
碓氷線、アプト道を行く

鉄道遺産アプトの道を行く

2010-06-13 05:07:00 | こんな鉄道もあるぞ~

江戸へ繋がる要路として立ち憚るのは箱根の山は天下の剣があれば碓氷峠もまけずに並ぶ山岳路である。
横川から軽井沢へ行く手を急峻な碓氷峠が立ち憚る所に鉄道を造ってしまった。この厳しい山岳路をどう克服したので
あろうか?明治26年(1893)スイス人の発明により歯車を使ったアブト式鉄道で急さかを克服した。
折しも日清戦争・日露戦争で兵器と兵員を運ぶ、首都圏と日本海を結ぶ鉄道は軍備輸送面から急務で難工事に関わらず戦時下の背景もあって1年半で鉄道は完成した。軍備輸送から始まった鉄路はJR信越線の輸送路として、輸送量の増大、高速化に進化する長野新幹線に置き換わり、100年余りの使命を終え、遂に廃止となった。
しかし、1世紀の余りのこの遺産を闇に葬るのは忍びなく横川から軽井沢寄りの4.8㎞は軌道を外し整備し、トンネル・鉄橋をそのまま残し「アブトの道」として蘇った。鉄道施設の整備工場、変電所、多数のトンネルの現風景をそのまま留め、「碓井峠鉄道文化村」として鉄道施設を直に触れられる謂わば鉄チャン、鉄子さんの鉄道のメッカが此処に生れた。乗って、歩いて、触って、見て鉄道の原点を確かめ、感動を呼んだ。


「文化村駅」から「まるやま駅」を通り「とうげの湯駅」まで2.6㎞の道を、途中の「まるやま駅」での休みを除き、約20分でトロッコ列車はのんびり走る。運航期間は3月~11月まで、土・日・祝日運転している。先頭車両はオープンデッキ型展望スペースで訪れた4月は碓井峠の山間の風が吹き抜け、大変爽やかな乗り心地であった。
廃線となり今年(2010年)で早12年を経過した 。廃線後の線路を使い2005年よりドラフト列車が運行始めた。昨年だけでも全国から10万人が乗車し、2.6㎞の区間でありながら景色を楽しんでいる。
そんな素敵な場所である。以下でご案内
碓氷線、アプト道を行く

ようこそ松崎家の世界へ

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