今日に伝える、歴史の証、鉄っちゃんになって横浜廃線路を辿ってみた。
◇旧横浜駅(現桜木町駅)
新橋~横浜間は明治5年(1872)日本最初の鉄道が開通したことで知られている。
起点となるJR桜木町駅のホームは京浜東北線が高架を走るため、高い位置にある。
新しく開発されたみなとみらいの接続口にあたり、賑わいを見せている。
ここが果たして歴史的な駅と疑いたくなる、何処にも有るような駅舎である。
高架橋の山側の一角、歩道橋の脇の一角に「鉄道発祥の地」記念碑が寂しく建っていた。
◇汽車道
その横浜から、海外渡航の船旅が生まれた。
その横浜から埠頭まで、専用軌道が敷設され、貨物輸送など利用されていたが大正9年(1920)東京から連絡列車が入り、鉄道で直接繋がる画期的な輸送ルートが生まれた。
海に繋がる運河を越えて、埠頭まで繋がるご覧のような水面に専用軌道の夢の架け橋が誕生する。一面遮るものもなく運河越しの素晴らしい炯眼の中、丸で水面を走るように列車が走る。
この専用軌道は「汽車道」として呼称されるが遊歩道として、整備され、軌道の上を列車に乗った気分で快適に歩くことが出来る。
◇港1、2、3号橋
埠頭側に到達するまでに途中に港1、2、3号橋のそれぞれの橋が橋渡し役を勤める。
今では何処でも、見受けられる鉄道橋であるが、明治40年(1907)製の米国製である。
未だ鉄道の駆け出し時期に、一人立ちできず、外国の手に委ねて居たのである。
それが100年後の今日、追いつけ、追いこせ」で世界で最先端の鉄道を走らせ、その実績から輸出までしているのである。
そんな成長ぶりの根幹をみるようで、隔世のある姿に、風雪を越えて生き残る、この爺さん橋も驚いているだろう。
◇ボート・トレイン
現代の海外渡航は航空機が当たり前に利用できるが、当時は唯一が船旅であった。
船旅の運行はかなり改善されたが、昭和初期に横浜、シアトル間が約12日間の長い船旅で、空旅の時間感覚が一桁違う、スピード感覚に隔世の感がある。
日本郵船および東洋汽船のサンフランシスコ航路出航日に合わせて、東京駅から列車が2往復運転され、「ボート・トレイン」と呼称されるまでその存在感は浸透し、絶大なものがあった。
「さー着いたぞ!!」東京から約70分で列車は満載の船客と見送り人を乗せた列車がこのプラットホームに到着し、大きな荷物を抱え乗客がどっと吐き出される。これより長い船旅の外国の未知の世界の旅立ちに、そろぞれの思いでセレモニーが行われる。
残されたレールやプラットホームや屋根を支える鉄柱が風雪に晒され、錆の出た姿に、年の経過を物語るが、旅達姿の時代の花をかっては飾っている。
誰も居ないプラットホームに佇むが、今にも幻の列車が入線するような感覚に、没頭できる世界である。
日米開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活したものの、戦争中の航空機の技術革新により、航空機の利用が広められ客船役割は急速に衰退していった。
こうして脚光を浴びた臨港線のボート・トレインの役割も昭和45年(1970)氷川丸出航を最後に幕引きを迎えた。
◇新橋梁
その路線は旧横浜駅(現JR桜木町)から、専用軌道がひかれ、横浜の中心街を貫通し、埠頭側の横浜港駅に接続される。横浜港駅側からは、旧横浜駅側と途中で分岐され、山下公園側の横浜税関に繋がっていた。
先程とは異なるルートでこの新橋梁で埠頭側から別れ、この橋を渡り山下公園側に向かう。
◇山下臨港線
昭和40年(1965)、山下埠頭の完成で横浜港駅からさらに延長して山下埠頭駅までの路線が開通した。景観上の問題から山下公園のもっとも山側を高架線で通過し、景観に配慮して高架橋となった。
この貨物専用の山下臨港線は線路は撤去され高架線は遊歩道化されている。5月の爽やかな風に吹かれ、港まつりのパレードが路上を賑わし、山下公園脇の高架線沿いはもの凄い人出であった。
違和感無く、山下臨港線の橋姿は山下公園に自然に、浸透しているようであった。
桜木町駅からベイサイド開城への近道として活躍するのが、開港の道、「汽車道」である。明治時代に開通した臨港線1990年頃廃線となったが、その跡地の一部を遊歩道として整備された。
昔のレールや鉄道橋、駅のプラットホームなどかっての面影を残す、500m程の遊歩道は横浜港発展の歴史を物語る貴重な場所である。
◇旧横浜駅(現桜木町駅)
新橋~横浜間は明治5年(1872)日本最初の鉄道が開通したことで知られている。
起点となるJR桜木町駅のホームは京浜東北線が高架を走るため、高い位置にある。
新しく開発されたみなとみらいの接続口にあたり、賑わいを見せている。
ここが果たして歴史的な駅と疑いたくなる、何処にも有るような駅舎である。
高架橋の山側の一角、歩道橋の脇の一角に「鉄道発祥の地」記念碑が寂しく建っていた。
◇汽車道
その横浜から、海外渡航の船旅が生まれた。
その横浜から埠頭まで、専用軌道が敷設され、貨物輸送など利用されていたが大正9年(1920)東京から連絡列車が入り、鉄道で直接繋がる画期的な輸送ルートが生まれた。
海に繋がる運河を越えて、埠頭まで繋がるご覧のような水面に専用軌道の夢の架け橋が誕生する。一面遮るものもなく運河越しの素晴らしい炯眼の中、丸で水面を走るように列車が走る。
この専用軌道は「汽車道」として呼称されるが遊歩道として、整備され、軌道の上を列車に乗った気分で快適に歩くことが出来る。
◇港1、2、3号橋
埠頭側に到達するまでに途中に港1、2、3号橋のそれぞれの橋が橋渡し役を勤める。
今では何処でも、見受けられる鉄道橋であるが、明治40年(1907)製の米国製である。
未だ鉄道の駆け出し時期に、一人立ちできず、外国の手に委ねて居たのである。
それが100年後の今日、追いつけ、追いこせ」で世界で最先端の鉄道を走らせ、その実績から輸出までしているのである。
そんな成長ぶりの根幹をみるようで、隔世のある姿に、風雪を越えて生き残る、この爺さん橋も驚いているだろう。
◇ボート・トレイン
現代の海外渡航は航空機が当たり前に利用できるが、当時は唯一が船旅であった。
船旅の運行はかなり改善されたが、昭和初期に横浜、シアトル間が約12日間の長い船旅で、空旅の時間感覚が一桁違う、スピード感覚に隔世の感がある。
日本郵船および東洋汽船のサンフランシスコ航路出航日に合わせて、東京駅から列車が2往復運転され、「ボート・トレイン」と呼称されるまでその存在感は浸透し、絶大なものがあった。
「さー着いたぞ!!」東京から約70分で列車は満載の船客と見送り人を乗せた列車がこのプラットホームに到着し、大きな荷物を抱え乗客がどっと吐き出される。これより長い船旅の外国の未知の世界の旅立ちに、そろぞれの思いでセレモニーが行われる。
残されたレールやプラットホームや屋根を支える鉄柱が風雪に晒され、錆の出た姿に、年の経過を物語るが、旅達姿の時代の花をかっては飾っている。
誰も居ないプラットホームに佇むが、今にも幻の列車が入線するような感覚に、没頭できる世界である。
日米開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活したものの、戦争中の航空機の技術革新により、航空機の利用が広められ客船役割は急速に衰退していった。
こうして脚光を浴びた臨港線のボート・トレインの役割も昭和45年(1970)氷川丸出航を最後に幕引きを迎えた。
◇新橋梁
その路線は旧横浜駅(現JR桜木町)から、専用軌道がひかれ、横浜の中心街を貫通し、埠頭側の横浜港駅に接続される。横浜港駅側からは、旧横浜駅側と途中で分岐され、山下公園側の横浜税関に繋がっていた。
先程とは異なるルートでこの新橋梁で埠頭側から別れ、この橋を渡り山下公園側に向かう。
◇山下臨港線
昭和40年(1965)、山下埠頭の完成で横浜港駅からさらに延長して山下埠頭駅までの路線が開通した。景観上の問題から山下公園のもっとも山側を高架線で通過し、景観に配慮して高架橋となった。
この貨物専用の山下臨港線は線路は撤去され高架線は遊歩道化されている。5月の爽やかな風に吹かれ、港まつりのパレードが路上を賑わし、山下公園脇の高架線沿いはもの凄い人出であった。
違和感無く、山下臨港線の橋姿は山下公園に自然に、浸透しているようであった。
桜木町駅からベイサイド開城への近道として活躍するのが、開港の道、「汽車道」である。明治時代に開通した臨港線1990年頃廃線となったが、その跡地の一部を遊歩道として整備された。
昔のレールや鉄道橋、駅のプラットホームなどかっての面影を残す、500m程の遊歩道は横浜港発展の歴史を物語る貴重な場所である。