入門書に書いてある言葉です。
最近、この言葉は、ちょっと不親切では?
と、思い始めました。
辻田克己さんの「写生管見」という文の
次の部分が目に入りました。
・・・その前提に人間としての感性。
なみの人が、どんなに只事といって馬鹿にしても、
自分だけは感動しうると言ったやわらかな心・・
月でも雨でも木でも虫でも鳥でも、
すべて自分と同じように生きとし生けるものという
認識といったものがなければ
本当の写生は成立しないのではないか。
写生の前提になる「見る」ということ。
自分のなかに「眼鏡」みたいなものがあって
初めて、ものが見えるのではないでしょうか。
魔法の眼鏡をかけると、それまで見えなかった
ものが見えてくる。
辻田さんは、人間としての感性といっています。
自分も虫も同じ生きとし生けるものという認識という
眼鏡を持っているから、見えると。
この眼鏡のことについて、なにも言わずに
ありのままに写生しましょうというのは
不親切だと思いませんか?
遅足
最近、この言葉は、ちょっと不親切では?
と、思い始めました。
辻田克己さんの「写生管見」という文の
次の部分が目に入りました。
・・・その前提に人間としての感性。
なみの人が、どんなに只事といって馬鹿にしても、
自分だけは感動しうると言ったやわらかな心・・
月でも雨でも木でも虫でも鳥でも、
すべて自分と同じように生きとし生けるものという
認識といったものがなければ
本当の写生は成立しないのではないか。
写生の前提になる「見る」ということ。
自分のなかに「眼鏡」みたいなものがあって
初めて、ものが見えるのではないでしょうか。
魔法の眼鏡をかけると、それまで見えなかった
ものが見えてくる。
辻田さんは、人間としての感性といっています。
自分も虫も同じ生きとし生けるものという認識という
眼鏡を持っているから、見えると。
この眼鏡のことについて、なにも言わずに
ありのままに写生しましょうというのは
不親切だと思いませんか?
遅足