575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

ありのままを写生しましょう  

2005年12月05日 | Weblog
入門書に書いてある言葉です。
最近、この言葉は、ちょっと不親切では?
と、思い始めました。

辻田克己さんの「写生管見」という文の
次の部分が目に入りました。

 ・・・その前提に人間としての感性。
 なみの人が、どんなに只事といって馬鹿にしても、
 自分だけは感動しうると言ったやわらかな心・・
 月でも雨でも木でも虫でも鳥でも、
 すべて自分と同じように生きとし生けるものという
 認識といったものがなければ
 本当の写生は成立しないのではないか。

     

写生の前提になる「見る」ということ。

自分のなかに「眼鏡」みたいなものがあって
初めて、ものが見えるのではないでしょうか。
魔法の眼鏡をかけると、それまで見えなかった
ものが見えてくる。

辻田さんは、人間としての感性といっています。
自分も虫も同じ生きとし生けるものという認識という
眼鏡を持っているから、見えると。

この眼鏡のことについて、なにも言わずに
ありのままに写生しましょうというのは
不親切だと思いませんか?

                 遅足
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開戦の日の「草田男」と「楸邨」

2005年12月05日 | Weblog
 金子兜太の「わが戦後俳句史」によれば、太平洋戦争開戦の日の思いを、草田男と楸邨はそれぞれ次のような句として残しているそうです。
  
   眼前は日照る寒気と希望のみ        草田男
   心赤し炭火ゆ灰を削ぎ落とし

   十二月八日の霜の屋根幾万         楸 邨
   炭は火に人は眉あげゐたるかな 
   わが死後も寒夜この青き天あらむ      

 生き様に関わるこの体験に対する二人の句の違いを兜太は次のように述べています。
 「草田男は、対象を肯定ぎみに内面で消化しようとしている。楸邨は、自分の意志的な姿勢に消化して前に押し出そうとしている。」
 そしてこの違いから、自分は、人間としては楸邨、俳句の目標としてはく草田男
・・そんな気持ちにならざるを得なかったと。
 
 さて、この三人の著名俳人の思いも興味深かったのですが、凡愚なる私には、
 もしそんな歴史の瞬間に自分が立たされたら、どんな俳句を詠むのだろうと考えさせられた霜の夜でした。
                      愚 足
 
            
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする