575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

季語について

2005年12月25日 | Weblog
俳人の鍵和田秞子さんが、
師の中村草田男について語る中で、
季語について触れた部分がありました。
印象に残ったので引用します。

「ホトトギス」は、季語を読むことが俳句です
と、指摘した後、次のように続きます。

    

中村草田男は、だんだん人間に興味を持つ。
結婚して奥さんを詠んだり、子供が生れて子供を詠んだりする。
人間は季語ではない。
人間を読むことで季語をどう使うか
ということになります。

 蟾蜍長子家去る由もなし 草田男

蟾蜍を詠んだ句ではなく、
「長子だから家を去る由もない」ということを
詠むのにヒキガエルに象徴させている。
ヒキガエルは足を踏ん張ったら動かない。
出会う人間のほうが逃げる。
ふてぶてしいヒキガエルの本性を分かっている人は、
ヒキガエルの中に昔の長男の姿を見る。
長男たるものは家をしっかり引き継がなくていけない。
そういう感慨をヒキガエルに象徴させている。
そういう季語の使い方は草田男以前には
なかったと思います。

 鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨

なども、同じです。
鰯雲といえば、鰯雲を生かして詠むのが俳句であって、
人間の気持ちをそれに象徴させる使い方になれていなかった。
それで難解派と呼ばれたのです。

鍵和田秞子 (第一句集を語る)より

       遅足




                  
   
コメント (1)
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