575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「 韓国船水難救護の記録」⑤ー事情聴取はじまるー竹中敬一

2017年04月07日 | Weblog
若狭湾のほぼ中央に位置する内外海(うちとみ)半島(福井県小浜市)
その先端にある泊地区に韓国船が漂着したのは、明治33年(1900) 、
今から116年前のことです。
当時、内外海村役場は小浜の町に一番近い甲ヶ崎 (こがさき)にありました。
泊地区は内外海14ヶ村の中でも最も不便なところにあります。急を要する時は、
小浜港から船で行くほうが便利ですが、事件のあった1月頃は海がしける日が
続きます。
倉谷善右衛門村長ら村役場の係員は多分、通常3時間位かかる山道を徒歩で
峠を四つも越えて泊地区へ急ぎ赴いたことでしょう。雪の山道に難渋した
ことでしょう。

村の一番、高台にある臨済宗の海照寺に遭難救護の仮事務所が設けられました。

「官吏は内外海村長を始め役場員、警察総長、係員、敦賀税関署、福井県警部、
保安課長、遠敷(おにゅう)郡長や郡の吏員、小浜の新聞記者等、総計三十余名
海照寺へ派出してきて、毎日視察実地調査した。 (「泊区長文書」より)

内外海村役場文書「韓国人水難救護ニ関スル書類」には、乗船者名簿、救護に
関わった人の名前、韓国人に対する筆談による問答筆記集、福井県知事宛の請求書、
救護の顛末などが、詳細に記されていました。

それによりますと、救護された乗組員93名の出身地は、いずれも朝鮮半島の北部
つまり、今の北朝鮮の人たちでした。
乗船者名簿から出身地のすべてを列記しておきます。いずれも、咸鏡道(かんきょう
どう・ハムギョンドウ) 、日本海に面したところです。
明川、鏡城、會寧、安江、穩城、北清、吉川、城津、端川。

乗船者93人の年齢は20代、30代が62人と最も多く、後は40代。最年少は19歳で2人、
68歳の高齢者も一人、含まれていました。

船主は鄭在官(ていざいかん・チヨンジュクァン) 、商人、乗組員などにまじって
「行人」が35人と一番多く乗船していました。
内外海役場文書の問答集を解読すると、「行人」とは、ウラジオストックに
出稼ぎ中の人たちのことで、年末に明川へ帰るところだったようです。

積んでいた荷物は、殆ど海に投げ捨てたようですが、それでも船内には、まだ
かなりの品物が残されていました。
内外海役場文書の問答集には、遭難した韓国船が積んでいた品物として「唐木」、
「達里」という文字が多く見られます。

「問 乗載荷物ノ達里、 唐木ノ詳解ヲ要ス」
「答 不明(察スル処 唐木トハ木材ニアラズ綿布ノ意義ナラン)」
(「内外海村役場文書 」より」)

「唐木」は木材ではなく綿布らしいとしていますが、「達里」については、
何の説明もありません。
私も色々、調べてみたのですが、まだ判明していません。「達里」は品物のこと
ではなく、「達里行」、「達里産のもの」と云った地名のことではないでしょうか。
役場文書の船載品のリストには、「達里十疋」と云った表現が出てきます。
「疋」は、布地を数える単位として使われる言葉であことから、「達里」は
織物だったと思われます。

それにしても、韓国人に対して、筆談による事情聴取は、なかなか容易でなかった
ことが公文書の行間から滲み出ています。

写真は昭和26年、福井県小浜市に合併される前の内外海村 (うちとみむら) 役場
(「内外海誌」昭和44年刊より)
下は「内外海村役場文書」(「泊の歴史 資料集」活字化した一部より )
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