若狭湾のほぼ中央に位置する内外海(うちとみ)半島の先端、泊地区に韓国船が
漂着したのは、明治33年(1900) のことです。
この一年前に日本の水難救護関連法が制定されています。
内外海村の倉谷善右衛門村長はこの法令に基づき、漂着事件に対して、適切な
処置をとりました。
この事件に対して、福井県や外務省など行政当局は終始、冷ややかでした。
内外海役場文書には倉谷村長の苦悩の跡がうかがえます。
救護にかかった費用、事後に難破船の管理や運搬にかかった費用は、国や県に
替わって、内外海村役場が一時、立替えていました。
役場文書によりますと、倉谷村長が再三にわたって、請求書や上申書を福井県庁、
小浜警察署、遠敷 (おにゅう) 郡役所宛に提出していることがわかります。
これに対して、福井県庁などからは、「今、外務省に照会中」といった返事が
返ってくるのみでした。
「泊区長文書」によりますと、泊地区では韓国人93名を7日間、保護した後、
1月19日、泊地区の漁船に分乗させ、小浜町(当時) へ移送。
小浜警察署で一泊した一行は、20日には蒸気船・丹州丸で敦賀港へ。
更に、列車で大坂まで行き、汽船・恐鴻丸で釜山へ送られました。
漂着船は泊地区で二ヶ月間、保管。その後は阿納尻 (あのじり)地区の入江で、
倉谷村長が管理した、とあります。
その後、漂着船は解体され、韓国人からの要望で売却されることになりました。
早速、小浜町の船大工・永岡伊兵衛と呉服商・吉岡件蔵の二人を呼んで、鑑定
させた結果、船体、船具、積んでいた綿布など、合わせて、三百十一円と評価
されました。
しかし、警察官吏によって、落札された金額は百八十円でした。
結局、評価額より大幅な安値で、船体一式は、小浜の廻船業者・長井宗兵衛が
買い受けることになったのですが、この件について、倉谷村長は福井県知事に
次のように訴えています。
「泊地区では極寒の中、昼夜の別なく人夫その他、食糧を徴用するなどしたが、
その困苦の労も水泡に期すの感があります。また、船舶を鑑定見積より、ずっと
安く売却したのは、どういう理由があってのことでしようか。さぞ、韓人は不満
に感じているのではないでしようか。 (「内外海村役場文書」より意訳) 」
これからどんな展開が待っているのでしょうか?(遅足)
写真は、韓国船が繋留されていた阿納尻 (あのじり) 地区の入江。
そして内外海村村長・倉谷善右衛門(「倉谷善右衛門回顧録」より)
漂着したのは、明治33年(1900) のことです。
この一年前に日本の水難救護関連法が制定されています。
内外海村の倉谷善右衛門村長はこの法令に基づき、漂着事件に対して、適切な
処置をとりました。
この事件に対して、福井県や外務省など行政当局は終始、冷ややかでした。
内外海役場文書には倉谷村長の苦悩の跡がうかがえます。
救護にかかった費用、事後に難破船の管理や運搬にかかった費用は、国や県に
替わって、内外海村役場が一時、立替えていました。
役場文書によりますと、倉谷村長が再三にわたって、請求書や上申書を福井県庁、
小浜警察署、遠敷 (おにゅう) 郡役所宛に提出していることがわかります。
これに対して、福井県庁などからは、「今、外務省に照会中」といった返事が
返ってくるのみでした。
「泊区長文書」によりますと、泊地区では韓国人93名を7日間、保護した後、
1月19日、泊地区の漁船に分乗させ、小浜町(当時) へ移送。
小浜警察署で一泊した一行は、20日には蒸気船・丹州丸で敦賀港へ。
更に、列車で大坂まで行き、汽船・恐鴻丸で釜山へ送られました。
漂着船は泊地区で二ヶ月間、保管。その後は阿納尻 (あのじり)地区の入江で、
倉谷村長が管理した、とあります。
その後、漂着船は解体され、韓国人からの要望で売却されることになりました。
早速、小浜町の船大工・永岡伊兵衛と呉服商・吉岡件蔵の二人を呼んで、鑑定
させた結果、船体、船具、積んでいた綿布など、合わせて、三百十一円と評価
されました。
しかし、警察官吏によって、落札された金額は百八十円でした。
結局、評価額より大幅な安値で、船体一式は、小浜の廻船業者・長井宗兵衛が
買い受けることになったのですが、この件について、倉谷村長は福井県知事に
次のように訴えています。
「泊地区では極寒の中、昼夜の別なく人夫その他、食糧を徴用するなどしたが、
その困苦の労も水泡に期すの感があります。また、船舶を鑑定見積より、ずっと
安く売却したのは、どういう理由があってのことでしようか。さぞ、韓人は不満
に感じているのではないでしようか。 (「内外海村役場文書」より意訳) 」
これからどんな展開が待っているのでしょうか?(遅足)
写真は、韓国船が繋留されていた阿納尻 (あのじり) 地区の入江。
そして内外海村村長・倉谷善右衛門(「倉谷善右衛門回顧録」より)