韓国船漂着事件に対して、福井県や外務省など行政当局は終始、冷ややかでしたが、
韓国人が漂着してから村を離れるまでの七日間、倉谷村長指揮のもと、
泊村の人たちは総出で昼夜の別なく韓国人を手厚く保護しました。
「漂着の十二日から十五日迄は泊区の適当な処置により白米を一日に一升五合宛
食べさせたので韓人も満腹していたが、十五日からは福井県の役人の命令によって、
一日に七合五勺宛にしたところ、食料が足りず満腹しなかった。
村民は見るに見兼ねて気の毒に思い、飯餅や薩摩芋・大豆煮や朝鮮人の好物の
生大根・生カブラなどを与えたところ、大層嬉しそうで実にかわいそうに思った。
(「泊 区長文書」より意訳)」
内外海村役場が一時、立替えていた救護費、船舶の保管、運搬費問題は、
いっこうに、進展しませんでした。
例えば、事件から一年近く経った明治33年11月26日、倉谷村長が福井県知事
岩尾三郎宛に送った「水難韓船保管及び運搬費下附願」の中で
「 ……該費は国庫か地方費か判明しがたく、未だ下附の約束も数ヶ月経ったが、
何のご指導もありません。至急、御詮議の上、ご下附お願い申し上げます。」
とあります。 (「役場文書」より意訳)
また、明治33年12月12日、福井県庁から奉事官が遠敷 (おにゅう) 郡役所を訪れた
のを機会に、倉谷村長は次のような陳情書を提出しています。
「まだ、今だに何のご指導もありませんが、当役場では多額の費用を一時繰り替え
しております。しかし、目下、年度替えの時期で支払清算上、困っております。
何卒、至急、御下附願い申し上げます。 福井県奉事官 殿 」
(「役場文書」より意訳)
再三にわたる倉谷村長の上申に対して、県庁からは相変わらず、「外務省に
照会中につき、追って回答する」という返事が来るばかりでした。
最終通告があったのは、事件から一年以上も経った明治34年4月22日のことでした。
その内容は
「漂着船の保管、運搬費については、支払に該当する種目がないので、承知すべし」
という非情なものでした。
結局、「船主より徴収する他に支出の道はないだろう」という県警部長の見解が
最終的に示されました。
つまり、船主に売却した百八十円に僅か五円上乗せされた額が福井県庁から内外海
村役場に支払れました。
しかし、韓国船漂着の1月12日から19日までの7日間だけでも、内外海村役場が支出
した救護に関する経費は、凡そ三百二十円にものぼっていたのです。
国や県庁の処置は、"腹が痛まない" という如何にも役人らしい仕方でした。
そこには、当時の日本と韓国との関係が緊迫していた状況も垣間見えます。(続く)
写真は倉谷内外海村村長 (「倉谷善右衛門回顧録」より )
韓国人が漂着してから村を離れるまでの七日間、倉谷村長指揮のもと、
泊村の人たちは総出で昼夜の別なく韓国人を手厚く保護しました。
「漂着の十二日から十五日迄は泊区の適当な処置により白米を一日に一升五合宛
食べさせたので韓人も満腹していたが、十五日からは福井県の役人の命令によって、
一日に七合五勺宛にしたところ、食料が足りず満腹しなかった。
村民は見るに見兼ねて気の毒に思い、飯餅や薩摩芋・大豆煮や朝鮮人の好物の
生大根・生カブラなどを与えたところ、大層嬉しそうで実にかわいそうに思った。
(「泊 区長文書」より意訳)」
内外海村役場が一時、立替えていた救護費、船舶の保管、運搬費問題は、
いっこうに、進展しませんでした。
例えば、事件から一年近く経った明治33年11月26日、倉谷村長が福井県知事
岩尾三郎宛に送った「水難韓船保管及び運搬費下附願」の中で
「 ……該費は国庫か地方費か判明しがたく、未だ下附の約束も数ヶ月経ったが、
何のご指導もありません。至急、御詮議の上、ご下附お願い申し上げます。」
とあります。 (「役場文書」より意訳)
また、明治33年12月12日、福井県庁から奉事官が遠敷 (おにゅう) 郡役所を訪れた
のを機会に、倉谷村長は次のような陳情書を提出しています。
「まだ、今だに何のご指導もありませんが、当役場では多額の費用を一時繰り替え
しております。しかし、目下、年度替えの時期で支払清算上、困っております。
何卒、至急、御下附願い申し上げます。 福井県奉事官 殿 」
(「役場文書」より意訳)
再三にわたる倉谷村長の上申に対して、県庁からは相変わらず、「外務省に
照会中につき、追って回答する」という返事が来るばかりでした。
最終通告があったのは、事件から一年以上も経った明治34年4月22日のことでした。
その内容は
「漂着船の保管、運搬費については、支払に該当する種目がないので、承知すべし」
という非情なものでした。
結局、「船主より徴収する他に支出の道はないだろう」という県警部長の見解が
最終的に示されました。
つまり、船主に売却した百八十円に僅か五円上乗せされた額が福井県庁から内外海
村役場に支払れました。
しかし、韓国船漂着の1月12日から19日までの7日間だけでも、内外海村役場が支出
した救護に関する経費は、凡そ三百二十円にものぼっていたのです。
国や県庁の処置は、"腹が痛まない" という如何にも役人らしい仕方でした。
そこには、当時の日本と韓国との関係が緊迫していた状況も垣間見えます。(続く)
写真は倉谷内外海村村長 (「倉谷善右衛門回顧録」より )