575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

山形一泊の旅 ~ 北前船 酒田 - 若狭 ~ 竹中敬一

2019年01月19日 | Weblog

私の故郷、若狭と酒田など東北地方との関係は、福井県小浜市田烏

( たがらす )の秦家に伝わる文書に出てきます。

鎌倉時代、すでに廻船業で日本海交易に深く関わってたことが書かれ

ています。

しかし、その実体はとなると、わかっていませんでしたが、最近、

北前船の船頭が書き残した一代記と航海日記があることを知りました。

船頭の名前を川渡甚太夫 ( かわとうじんだゆう )といいます。

この一代記は現在、子孫の方が所有していますが、この原文を訳した師岡

佑行著「 北前船頭の幕末自叙伝 」(柏書房 1981 刊 )を愛知県図書館で

借りてきました。この本をもとに、甚太夫の履歴を紹介してみます。



川渡甚太夫は三方五湖のある福井県三方上中郡若狭町の久々子 ( くぐし )の

農家の生まれ。文化4年 ( 1807 )のことです。

商才に長けていたようで、三方五湖で獲れた鰻を生きたまま若狭街道を

利用して京都の料亭に運び、これが当たって大儲けします。

その資金をもとに、今度は廻船業に手を出し 、北前船 ( 若狭では千石船

という )の船頭として、弘化3年 ( 1846 ) 敦賀、酒田間を往復。

酒田で特産のベニ花を扱う仲間に入れてもらって以後 、若狭の久々子

から能登半島、佐渡、新潟を経て酒田との間を往復。

更には、出雲、下関から瀬戸内海を経て大阪に至るコースを何回も往復

しています。


一代記では寄港先で出会った女郎の話や、廻船業で財をなし京都の祇園で

どんちゃん騒ぎをしたこと、廻船業の仲間の親孝行話などが " 浮世噺 "

風に綴られいます。

それはそれで、面白いのですが、資料的価値を薄めているように私には

思えます。

「 海上日記 」 の方も随所に浮世噺や歌を載せていますが、航海の日付け

寄港地が記されていて、参考になります。

川渡甚太夫 所有の伊勢丸 (二百石 ) 「 海上日記 」 抜粋 意訳


嘉永2年 ( 1849 ) 4月3日 久々子の港を出帆 。風が強いため戻る。

それから15日間も 出港待ち。やっと19日 再出港。

4月21日 能登半島の輪島港 、24日 輪島港を出るも風で戻され、能登の

福浦 、25日 佐渡沖 26日 新潟港に入る

27日 酒田川湊に到着。その嬉しさを次のように記しています。

「下り風にて酒田湊え入津して下り荷物売上し うれしさに、

積下る荷物を引き上ゲて 問屋問屋の店のにぎわひ 」

5月12日 酒田を出帆 。16日 佐渡の小木港に入る。19日 小木港 出帆 。

能登の福浦沖から23日には加賀の本吉港に入る。6月2日 本吉港 出帆。

6月4日 敦賀港に入る。

この後 、郷里の久々子へ帰るが日付けは記されていない。

この場合、若狭と酒田の間 往復 約二ヶ月の航海ということになります。


今回は酒田滞在中のことは記されていませんでしたが、翌年の嘉永3年

の航海では、酒田での行動記録が出てきますので、次回 お伝えします。


写真は山形県酒田市の酒田市立資料館に展示されている北前船の模型と
若狭から酒田まで北前船が寄港したルート図 ( 手製 )

            

この時代、天気予報はあてにならず、航海は命がけでした。
太平洋側も江戸と大坂の間を多くの船が行き来していましたが、
遭難した船のなかには、太平洋を漂流する悲劇が待っていました。
それだけに天気に恵まれ、商売も上手くいった時の喜びは大きかったでしょうね。
                            (遅足)









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