前回に続いて、北前船の船頭 、川渡甚太夫の一代記を通じて、若狭と
酒田の関係についてお伝えします。
甚太夫は前回と同じ伊勢丸の船頭として、翌年の嘉永 3年 ( 1850 )
若狭の久々子 ( くぐし)から酒田へ航海した後、今度は酒田から出雲
など日本海沿岸を通って下関から瀬戸内海を経て大阪に至るいわゆる
西廻り航海を約3ヶ月かけて航海しています。
嘉永3年3月29日 伊勢丸は福井県三方上中郡若狭町の久々子の港を出帆 。
今回は割合、順調で、敦賀・三国・加賀・能登・佐渡を経て4月5日 酒田
港に入っています。
4月11日には出帆予定だったが海が荒れて出帆できないでいたら、庄内の
女郎衆が客引きに来た。
13日になっても天候が良くないので、酒田の氏神へ参り、お祈りをした。
酒田市立資料館の話では、「酒田の氏神 」は、港の入り口に近い
皇大神社のことだろうということでした。
14日は嵐だったが、酒田港を出帆しようとすると、「 問屋のかか ( 母 ) も
子も名残りおしげに見送りに来る 」
「 勤する身は 色里の花の嫁 なさけでつなぐ船のともづな 」
「 板子一枚 下 地獄 」の危ない世界で女性は乗せない職業ではあるけれど、
なじみの廻船問屋の母子が別れを惜しんで、こうやって見送りに来てくれると
船のともづなを引くように、つい情けにひかれることよ という程の意味でしょうか。
4月14日 「 飛嶋 に入船 」とあります。
飛島は酒田港の沖合いに浮かぶ小島。
「 ブラタモリ 」 でも島の東側は天然の港になっていると伝えていました。
江戸時代には北前船の潮待ち港になっていたようです。
甚太夫らは、3日 待っても出帆できないので、飛島の氏神様にお参りして
います。
飛島には延喜式 ( 967 施行 ) の神名帳に出てくる小物忌 ( おものみ ) 神社
があります。
願いが叶ったのか、18日 北風になり出帆。
「 神風の吹ばつづけと又祈る 我身ながらも浅間敷 者 」
この後は佐渡、能登半島から隠岐の島 、出雲 、下関を経て瀬戸内海を通り、
6月2日大阪に入っています。
川渡甚太夫はその後、若狭小浜藩の御用船の船頭を務めましたが、順風
満帆とはいかず、晩年には新造船が座礁して破船。
全財産を失い、失意のうちに明治5年 ( 1872 ) 66歳で亡くなっています。
写真は山形県酒田市にある日和山公園の池に浮かぶ北前船 ( 2分の1の復元 )
筆者 撮影 ( 昨年 10月28日 )
太平洋側は晴れでも日本海側は雪。風任せの航海は命がけですね。
現代人より神仏をたのむ気持ちは強かったでしょうね。
千石船の帆柱の下には、船神さまが安置されていたと聞いています。遅足