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銃後、という言葉は、砲火の背後に活動する将士という
意味だったそうです。
その意味が大きく変ったのが、1937年(昭和12)でした。
日中戦争が始まったこの年の12月26日、
天皇が帝国議会の開院式で
「朕カ(が)銃後ノ臣民ヨク協力一致シテ時難ニ当タレリ」
と述べたことから、銃後の臣民、つまり内地にいて、
直接戦闘に参加しない一般国民のことを指すように変ったそうです。
戦争が一気に内地の国民にも及んできたわけです。
白泉の句は、新しく、銃後、とされた町を、
丘の上から見て詠った、時事的な句でもあったのですね。
ひとつの方向に引っ張られるように流れていく国民の心。
銃後という言葉も、そうした力を秘めていたのかも知れません。
今でいうと、規制緩和などでしょうか?
遅足
「死」を支え見守る不思議な空間。
それがどんどん密度を濃くしていく。
かつての町とは異質に変貌した町。
その空間を作者は「丘」から見つめている。
彼にはこの句を作るのが精一杯だったのだろう。
憲兵の前で滑ってころんぢゃった
というのも有ります。
案外、諧謔的な精神の持ち主だったかも。
でも他の人よりも時代の空気を
敏感に感ずるアンテナの持ち主ですね。
不気味に見えたんじゃないでしょうか?
私なら、まあそんなものか、という位でしょうね。