575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

4月句会近づく    遅足

2017年04月11日 | Weblog
今回の題詠は「四月馬鹿」です。
万愚節、エイプリルフールでもOKです。

エイプリルフールとは、4月1日には嘘をついても良いという風習のこと。
正午までに限るとされているそうです。
エイプリルフールは、騙された人のこと。「四月馬鹿」は直訳ですね。
漢語的表現では「万愚節」、中国語では「愚人節」
フランス語では「プワソン・ダヴリル」(四月の魚)だとか。

  押して開かずひいて開く扉や四月馬鹿  茂野六花

  四月馬鹿常の話も嘘多く  石川かほる

  胃カメラのするりと入り万愚節  守屋房子

ちょっと川柳っぽい句になりそうで、面白いですね。

  人間に流るる速さ万愚節   遅足


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咲きみちてあの世のいろの桜かな  遅足

2017年04月10日 | Weblog
終着駅、門前町という2つのキイワードに
魅かれて名鉄電車に乗りました。
豊橋行の特急を国府で降り、豊川稲荷行きに乗り換え。
お昼前に終着駅に降り立ちました。

小寒かったので駅に近い店で味噌煮うどんを。
地元の人がよく利用しているお店のようです。
三河の味噌味でした。
豊川稲荷へは久しぶりの参詣。見上げるような本堂。
お参りをすませて境内を散策。
「海軍工廠戦没者供養塔」との案内が。
 
戦争の時代、豊川市には海軍工廠があり、銃や弾丸を製造。
当時は東洋随一の規模とされていたそうです。
原爆投下の候補地ともされていた豊川。
昭和20年8月7日に、B-29による大空襲。、
学徒動員で働いていた学生をふくめて2500名が犠牲に。

供養塔は稲荷公園内にあり、台座には戦死者の名前が。
ちょうど一本の淡墨桜が満開でした。
斎藤史さんのうすずみ桜の歌です。

 うすずみのゆめの中なるさくら花あるいはうつつよりも匂ふを

ふたたび門前へ。観光客でにぎわっていました。
名物のいなりずし。一個100円をテイクアウト。
三河の春。平和な一日でした。
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かたまってうつむきかげん菫草  狗子

2017年04月09日 | Weblog
スミレは世界に400種類。
このうち日本には60種が自生しているそうです。
大きく分けると、茎がある有茎種。
タチツボスミレやツボスミレなど。
茎がなく根もとから葉や花柄がでる無茎種。
ヒメスミレやアリアケスミレなど。

この句、スミレ草の特徴を捉えて詠んでいます。
下五を具体的な名前にすると

  かたまってうつむいているヒメスミレ

「スミレ」の学名は、ビオラ・マンジュリカ。
(満州のすみれ、という意味だそうです)

  かたまってうつむくビオラ・マンジュリカ

一人ぽっちもいます。この写真は

  うつむきてひとりタチツボスミレかな?

                   遅足

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垣過ぎて三味線草のぞめきかな    結宇

2017年04月08日 | Weblog
三味線草は花を咲かせた後、三味線のバチのような実をつけます。
垣根を通り過ぎて、三味線草の白い花が咲いていたことに気づきました。
ぞめき、とは浮かれさわぐこと。
また、遊郭や夜店などをひやかしながら歩くこと。
三味線の賑やかな音が聞こえてきそうだ、という句と読みました。

この句はおそらく蕪村の句を下敷きにしていると思います。

  妹が垣三味線草の花咲きぬ  蕪村

蕪村65歳の作。「妹」は妻や恋人をいいます。
本歌を知っていると、また違った世界が見えてきます。

                       遅足
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「 韓国船水難救護の記録」⑤ー事情聴取はじまるー竹中敬一

2017年04月07日 | Weblog
若狭湾のほぼ中央に位置する内外海(うちとみ)半島(福井県小浜市)
その先端にある泊地区に韓国船が漂着したのは、明治33年(1900) 、
今から116年前のことです。
当時、内外海村役場は小浜の町に一番近い甲ヶ崎 (こがさき)にありました。
泊地区は内外海14ヶ村の中でも最も不便なところにあります。急を要する時は、
小浜港から船で行くほうが便利ですが、事件のあった1月頃は海がしける日が
続きます。
倉谷善右衛門村長ら村役場の係員は多分、通常3時間位かかる山道を徒歩で
峠を四つも越えて泊地区へ急ぎ赴いたことでしょう。雪の山道に難渋した
ことでしょう。

村の一番、高台にある臨済宗の海照寺に遭難救護の仮事務所が設けられました。

「官吏は内外海村長を始め役場員、警察総長、係員、敦賀税関署、福井県警部、
保安課長、遠敷(おにゅう)郡長や郡の吏員、小浜の新聞記者等、総計三十余名
海照寺へ派出してきて、毎日視察実地調査した。 (「泊区長文書」より)

内外海村役場文書「韓国人水難救護ニ関スル書類」には、乗船者名簿、救護に
関わった人の名前、韓国人に対する筆談による問答筆記集、福井県知事宛の請求書、
救護の顛末などが、詳細に記されていました。

それによりますと、救護された乗組員93名の出身地は、いずれも朝鮮半島の北部
つまり、今の北朝鮮の人たちでした。
乗船者名簿から出身地のすべてを列記しておきます。いずれも、咸鏡道(かんきょう
どう・ハムギョンドウ) 、日本海に面したところです。
明川、鏡城、會寧、安江、穩城、北清、吉川、城津、端川。

乗船者93人の年齢は20代、30代が62人と最も多く、後は40代。最年少は19歳で2人、
68歳の高齢者も一人、含まれていました。

船主は鄭在官(ていざいかん・チヨンジュクァン) 、商人、乗組員などにまじって
「行人」が35人と一番多く乗船していました。
内外海役場文書の問答集を解読すると、「行人」とは、ウラジオストックに
出稼ぎ中の人たちのことで、年末に明川へ帰るところだったようです。

積んでいた荷物は、殆ど海に投げ捨てたようですが、それでも船内には、まだ
かなりの品物が残されていました。
内外海役場文書の問答集には、遭難した韓国船が積んでいた品物として「唐木」、
「達里」という文字が多く見られます。

「問 乗載荷物ノ達里、 唐木ノ詳解ヲ要ス」
「答 不明(察スル処 唐木トハ木材ニアラズ綿布ノ意義ナラン)」
(「内外海村役場文書 」より」)

「唐木」は木材ではなく綿布らしいとしていますが、「達里」については、
何の説明もありません。
私も色々、調べてみたのですが、まだ判明していません。「達里」は品物のこと
ではなく、「達里行」、「達里産のもの」と云った地名のことではないでしょうか。
役場文書の船載品のリストには、「達里十疋」と云った表現が出てきます。
「疋」は、布地を数える単位として使われる言葉であことから、「達里」は
織物だったと思われます。

それにしても、韓国人に対して、筆談による事情聴取は、なかなか容易でなかった
ことが公文書の行間から滲み出ています。

写真は昭和26年、福井県小浜市に合併される前の内外海村 (うちとみむら) 役場
(「内外海誌」昭和44年刊より)
下は「内外海村役場文書」(「泊の歴史 資料集」活字化した一部より )
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入学式の思い出   麗

2017年04月06日 | Weblog
今日は小学校の入学式でした。近所の小学校にもスーツ姿のご両親、大きなランドセルを背負ったぴかぴかの一年生が慣れない道を歩いていく姿が見られました。
最近は入学式にもう、ランドセルを背負って行くのですね。水色や茶色などいろんな色のランドセルが目立ちました。

私の小学校の入学式の思い出。満開の桜の中、母は着物姿でした。卒園後、春休みに引っ越した私は誰一人友達がいない中での入学式。心細く校門をくぐったことを思い出します。
当時は父親が入学式に出席するのは珍しかったのですが、一人だけお父さんと一緒だった女の子がいました。

母が話しかけるとそのお父さんは「この子の母親は病気で亡くなりました。これから仲良くしてください。」と言ったとのことです。私とその女の子はすぐに仲良くなったのですが、入学後わずか2,3日で転校してしまったのです。
家庭の事情だったのか、おばあちゃんのところに行ったのか。何もわからず仕舞いですが、私の入学式の写真にはその子との2ショットの写真が残っています。

名前は確か筒井さんと言いました。どこかで、このブログを読んでくれたらなあ、なんて思っています。
私のちょっと切ない入学式の思い出です。


             満開の桜に思い出こぼれ落ち   麗
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スミレ抜き罪悪感の墓掃除   すみ

2017年04月05日 | Weblog
お彼岸のお墓掃除でしょうか。久しぶりのお墓参り。
いつの間にか可憐な花を咲かせてるスミレ。
お墓をきれいにするのなら引っこ抜いて・・・
しかし可哀相な気もします。

スミレは野の花か?雑草か?
どちらに分類するか?あくまでも人間の都合です。
咲かせておく、という選択もあり得ますが・・・
迷ったあげくに、思い切って引き抜きました。
が、どこか罪悪感が・・・・
作者のように感ずるこころは大切ですね。

          

スミレは根を地中深く張って居場所を確保。
蟻にオイシイ餌を与えて、種を運んでもらうなど
サバイバル戦略に長けた植物で、
コンクリートの都心にも花を咲かせています。

昨日は東山植物園にお花見に行ってきました。
桜の園は5分咲き。糸桜がキレイでした。
                    遅足

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一群のすみれに止まる車椅子   晴代

2017年04月04日 | Weblog
道路でしょうか?公園でしょうか?
スミレが小さくかたまって咲いています。
そこへ車いすの車輪がフレーム・イン。
あざやかな映像を見るような句です。

御主人が奥さんの車いすを押して散歩。
心温まる風景を見ての句だそうです。
句には、スミレと車いす以外は描かれていません。
あとは読者の想像にゆだねられています。

こうした近代の写生句を開拓したのが山口誓子。

  夏草に汽缶車の車輪来て止まる

教科書にも載っている代表作です。
ところが、ネットには、句の意味が分かりません、という声が。
学校では、想像力を働かして自由に読むということは苦手かな?
答えが一つでないと困るのかな?

               遅足

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デイケアー母の塗り絵のすみれ草   麗子

2017年04月03日 | Weblog
デイケアーに行っているお母さんの塗り絵。
それはスミレ草。本当は三色すみれだったそうです。
その花言葉は「もの思い」「私を思って」です。
三色すみれは、花の模様が人間の顔にそっくり。
思索にふけっているかのように首を傾けるころから
フランス語の「パンセ(思想)」にちなんだ花言葉だそうです。

「母の塗る三色すみれ」、としてデイケアーを省く。
5文字の余裕が生まれ、別の映像を描けそうです。

           

花はなぜ人間を惹きつけてやまないのか?
なぜ花に心を奪われるのか?
私たちは人間を中心として考えますが、逆転すると・・・
花が人間を利用して子孫を増やしているから。

「植物は知性をもっている」という本の中の一説ですが、
本当でしょうか?
                遅足
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推敲のチエックポイント・9 ~ダメなら捨てる~(等) 

2017年04月02日 | Weblog
私の「推敲のチエツクポイント」も最終回になりました。最後は”ダメなら捨てる”です。

これまで句作に当たって例えば写生なら”大きな風景から詠みたいものだけを取りだし、あとは捨てること”をはじめ、これを句にするには”不要な言葉を省略せよ”などと、とに角「捨てる捨てる」を強調して来ました。
しかしいろいろ捨てても”ダメなものはダメ”と、勿体ない思いを残しながら思い切って全部捨ててしまうことが必要です。

ではどんな句を捨てるのか・・・、
①類想、類句がありそうな句
②単なる報告だけの句
③発想が平凡な句
④一人よがりな句
⑤単なる季語の説明だけの句
⑥安易な擬人化、比喩だけの句
⑦観念的な表現の句
などです。思い当たる句が多いですね。

でも”ああ全部捨ててしまった”と悲観することはありません。”捨てた句の山こそ宝の山”だと思います。つまり最近の俳句は「一物仕立て」より「二句一章」の句が多く、異なる二つの要素を組み合わせることで、句に厚みや意味の深さ、新鮮なひびきをもたらすからです。ですからダメな句として捨ててしまった句でも、
季語との取り合わせを変えることにより、思いもよらぬ良い句になることがあります。
先回私が学習院俳句会で出句した句が、季語を変えて甦ったとご紹介した通りです。

俳句を”季語+それ以外の「俳句の素」”と考えれば、捨てた俳句の山には宝物の「俳句の素」ががいっぱい転がっているのです。取り合わせを新しくすることで、駄句を良句に是非変えて下さい。

今回”推敲のポイント”という拙いシリーズを書かせて頂き、皆さんに大変ご迷惑だったと思いますが、私自身にとっては大変良い勉強になり、お陰で私の俳句力もグーンと向上しました??有難うございました。

先週故郷の金沢へフト思い立って行って来ました。春休みとあって若い人達や外国人など、大勢の人達で街は
一杯でした。私は幼馴染とも65年ぶりに会いました。その折の駄句です。

 面影の友と再会六十五年
 椿咲く格子の坂は「あかり坂」  (等)

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初蝶の離れずに舞う鼎塚   遅足

2017年04月01日 | Weblog
三重県のいなべ市藤原町に鼎という集落があります。
ここの梅林が有名と聞いて、先日出かけました。
花の盛りは終わっていましたが、遠く藤原岳には
雪が残っており、素晴らしい眺めでした。

この集落には、鼎塚があると聞き、訪ねてみました。
小山ほどもある塚で、なんと関ヶ原の戦いで亡くなった
島津隊の武士たちを弔ったものでした。

西暦1600年、天下分け目の戦いに西軍として
参加していた島津隊は、敗戦が明白となるや、
なんと正にいた東軍の真ん中を突破、南へ・・・
藤原町の鼎を通って故郷の鹿児島へと帰ったのです。
島津隊には多数の犠牲者が出たそうです。
塚はその時の霊を慰めるため鼎の里人が作ったもの。

びっくりしたのは、500年近く経った平成の世に
小中学生からなる「島津関ケ原戦跡踏破隊」が毎年、
夏休みを利用してやって来るとのこと。
踏破隊は昭和35年から行われている伝統行事だとか。

          

なお、山岳俳句で有名な俳人・前田普羅は鼎を訪れ、
塚について書き残しているほかに、こんな句を残しています。

  道おしへ藤原獄も遠ざかる

  かりがねの余りに高くかへるなり

帰り道で猿の群れに出会うなど、小さな発見のある旅でした。
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