「戦争の腕の傷なのでしょうか。もう少し踏み込んでほしい気もしました。」
という亜子さんからの選句コメントもあり
この句について、何か物語があるのでしょうかと伺ってみました。
千香子さんおっしゃるには
最初、図書館で紙芝居行事 の知らせがあり
八月や子らの聞きゐる紙芝居
の句ができたとのこと。
しかしこれは八月でなくてもいいと思っていた時、
テレビで「戦争体験を聞く」という番組を見て、お母さまのつくられた歌を思い出したのだそうです。
「よほど辛いことがあったのだろう 」と甥御さんを思いながら詠んだ歌。
◇ シベリアの 土となるべきをながらへて言うことなしとぞ今はの甥は
千香子さんにとって従兄弟さんにあたるその方は、
60代で亡くなるまで ご自身の体験であるシベリアのことを一言もおっしゃらなかったそうで、千香子さんも聞いていません。
辛すぎて話せなかったのか、これ以上の悔恨や怨念を後世に残すべきでないと思ったのか、今となってはわかりません。
【原爆についても「今伝えなけば」という思いで語りだした人もいます。
疎開の経験者の私もなんらかの形で、伝えていければと思っていました。
そんな時、祖母から戦争体験を聞いている孫のテレビを見たのでつくりました。
「八月や孫の聞きゐる胸の傷」 にした方が良かった、と思っています。】:千香子さん
内面の痛みより、腕の傷とあったほうが、お孫さんとの語らいのきっかけとなった無邪気な問いが生きるようにも思いました。
昨日掲載のブログにもあったように
高齢化で語り部さんが減少する中、次世代への「語り継ぎ手」の重要性が指摘されています。
太平洋戦争開戦から八〇年という節目にありながら、コロナ禍報道と東京オリパラで駆け抜けた感のある八月。
今は政局の行方でてんやわんやといったところでしょうか。
この国に生まれたものなら誰しもが「八月」に抱く鎮魂と祈りの情が だんだん薄れつつある昨今
戦後に生まれ、あたりまえのように平和を享受してきた身としては、
語り継ぐことで、文明人としての証を未来に示していきたいと思うこの頃です。 郁子