日本男道記

ある日本男子の生き様

松尾芭蕉像(東京都江東区)

2005年04月24日 | 散歩の楽しみ
・所在地 東京都江東常盤1-1-3
・建立年 不明
・建立年 不明
・説明板 『芭蕉翁之像
      この像は。芭蕉の古参門人で経済的な庇護者でもあり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山山風(1,637~1732)が描き、京都の画家吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像晝により製作したものです。(原画 岐阜高山市 加藤 功氏蔵) 平成七年四月』
・撮影月日 2005/04/15
・メモ 江東区芭蕉記念館(常盤1-6-3)の分館史跡展望庭園の中にあり、隅田川に面してある。庭内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフを配し、往時を偲ぶことができる。芭蕉翁像は、午後5時になると写真の向きから隅田川に向かって像が回転し、像はライトアップされるとのこと。
位置図




水準点(倉敷市二日市)

2005年04月23日 | 散歩の楽しみ
・所在地  岡山県倉敷市二日市432
・標識番号 第367号
・種別   一等水準点
・標高   3.6263m
・標識の種類 標石  ・埋設法 地上(保護石1個)
・選点   明治20年
・埋標   明治20年
・観測   昭和30年11月8日
・現況   正常2004/11/05
・撮影日  2005/04/17
・メモ  道標を探索中迷子になり偶然発見。中央の背の低い石標に水準点と書かれた文字が読み取れるが、左右のものは何が書いてあるかはノッペラ坊で読み取れない。
位置図


将門首塚(東京都千代田区)

2005年04月22日 | 散歩の楽しみ
・所在地   東京都千代田区大手町1-1-1
・建立年   徳治二年(1307)
・建立者   真教上人
・説明板   『東京都文化財 将門首塚の由来
今を去ること壱千五拾有余年の昔 桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は下総国に兵を起こし忽ちにして坂東八ヶ国を平定し自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった 世にこれを天慶の乱という 
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが三日後白光を放って東方に飛び去り武蔵国豊島郡芝崎に落ちた 大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという 村人は恐怖して塚を築いて埋葬した これ即ちこの場所であり将門の首塚と語り伝えられる。
その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため徳治二年時宗二祖真教上人は将門に蓮華阿弥陀佛という法号を追贈し塚内に板石塔婆を建てて日輪寺に供養しさらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ下僚は収奪に民の膏血をしぼり加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった その為これら力の弱い多くの人々が将門によせた期待と同情は極めて大きなものがあったので 今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである
また天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱気を助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にきわめて大きい 茲にその由来を塚前に記す。史蹟 将門塚保存会』
・撮影日   2005/04/15
位置図
・メモ    日本のビジネスの中心千代田区大手町にある、周囲とは対照的な雰囲気を醸し出している。日本三大怨霊といわれ崇徳上皇、菅原道真に並び称され、心霊スポットの一つとして逸話も多い。写真中央の石塔婆には「平 将門 蓮華阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 徳治二年」と書かれてあり、この石塔婆の後ろに首塚がある。また脇に蛙は地方に転勤された方が無事本社に帰れたことに感謝して勝手に奉納されたものだという。誰が手向けられるのか、綺麗な生花が手向けられていたのが印象的であった。


0哩標識(東京駅・京浜東北線、東海道線)

2005年04月18日 | 散歩の楽しみ
JR各線の起点の位置を示すものが「0哩標識」(Mile Marker Zero)です。それぞれのホームの中ほどや線路脇に設置されています。ゼロキロポストともいいます。
・所在地   東京都千代田区丸の内1丁目9-1
・建立年   平成8年(1996)
・撮影日   2005/04/09
・メモ    京浜東北線6番線と東海道線7番線との真ん中(5号車あたり)にあります。写真の0の下に『JUNE.23.1996』の刻印あり。
位置図

永見寺迷子しらせ石標(東京都台東区)

2005年04月17日 | 散歩の楽しみ
江戸時代に至る所にあった迷子しらせ石標も現存するものは少なくなってしまいました。残存する復元も含め4つの一つ。
・所在地   東京都台東区寿2-7-6
・建立年   不明
・建立者   不明
・導(しるべ) 右  しらす方
        正面 まよひ子のしるべ
        左  たずぬる方
・撮影日   2005/04/08
・メモ    永見寺の境内にある。周辺は寺院、仏具屋さんの密集地。
位置図

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浅草寺迷子しらせ石標(東京都台頭区)

2005年04月16日 | 散歩の楽しみ
江戸時代に至る所にあった迷子しらせ石標も現存するものは少なくなってしまいました。
・所在地   東京都台東区浅草2-3-1
・建立年   昭和32年(1957)
・建立者   再刻献納者 稲田町 益子 一
・導(しるべ) 右  しらす方
        正面 南無大慈悲観世音菩薩 まよい子のしるべ
        左  たずぬる方
・撮影日   2005/04/08
・メモ    江戸時代仁王門前に安政七年(1860)に建てられたものの復元。浅草寺正面の左手前にある。裏に『安政七年庚申歳三月建、施主吉原 松田屋嘉兵衛』とあるように、安政の大地震による郭の犠牲者の慰霊碑でもある。下の写真は参拝客で賑わう浅草寺正面。
浅草寺については
位置図

0哩標識(東京駅中央線)

2005年04月16日 | 散歩の楽しみ
JR各線の起点の位置を示すものが「0哩標識」(Mile Marker Zero)です。それぞれのホームの中ほどや線路脇に設置されています。ゼロキロポストともいいます。
・所在地   東京都千代田区丸の内1丁目9-1
・建立年   不明
・撮影日   2005/04/09
・メモ    中央線快速1番線ホームの真ん中(4号車と5号車の間)にある。電車の往来の合間を縫って写真を撮っていたら年配のご婦人に「何を撮影されているのですか?」と聞かれ、知ったかぶりをして説明したが「何~だ」という感じだった。
位置図


湯島天神迷子知らせ石標(東京都文京区)

2005年04月14日 | 散歩の楽しみ
江戸時代に至る所にあった迷子しらせ石標も現存するものは少なくなってしまいました。都内に現存する四つの一つ。
・所在地   東京都台東区湯島3-30-1
・建立年   不明
・建立者   不明
・導(しるべ) 右  たつぬる可た
        正面 奇縁氷人石
        左  をしふる方
・撮影日   2005/04/08
・メモ    受験の神様湯島天神の境内にある。名前がなぜか奇縁氷人石となっている。「迷子しらせ石標」の名残り。このことからも、境内が人で賑わい、江戸有数の 盛り場であったことがわかる。下の写真は桜満開で花見客で賑わう近くにある上野公園。
湯島天神については                
位置図

0哩標識(東海道新幹線)

2005年04月14日 | 散歩の楽しみ
JR各線の起点の位置を示すものが「0哩標識」(Mile Marker Zero)です。それぞれのホームの中ほどや線路脇に設置されています。ゼロキロポストともいいます。
・所在地   東京都千代田区丸の内1丁目9-1
・建立年   不明
・撮影月日  2005/04/09
・メモ    東海道新幹線17番線ホームの真ん中(8号車あたり)にある。
駅員の方もあんまり存在を知らないようだ。場所の即答はできなかった。17番だの19番だのとのたまう。お詫びの意味かどうかしらないが、新幹線の定規をくれた。最後は自分でうろうろしてみつけた。実物はかなり大きい。
位置図

0哩標識(新橋)

2005年04月12日 | 散歩の楽しみ
JR各線の起点の位置を示すものが「0哩標識」(Mile Marker Zero)です。それぞれのホームの中ほどや線路脇に設置されています。ゼロキロポストともいいます。
・所在地   東京都港区東新橋1-5-3
・建立年   昭和11年(1936)
・案内板   『1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日に、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、「旧新橋東京間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。』
・撮影月日  2005/04/08
・メモ    日本最初の鉄道を新橋横浜間に建設するために、両端から測量が始まった時、新橋側の起点となったのがこの地点です。東京駅が開業するまで東海道本線の起点となりました。シオサイトの一角にある、復元建築物「旧新橋停車場」の中にあります。
位置図


元標の広場(東京都中央区) 

2005年04月12日 | 散歩の楽しみ
・所在地   東京都中央区日本橋
・建立年   昭和47年(1972)
・建立者   不明
・導(しるべ)日本国道路元標(複製)&東京市道路元標 
・案内板   『日本国道路元標(Zero Milestone in Japan)
日本橋は1603年(慶長8年)に創架され江戸幕府より街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年(明治44年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋及び「にほんばし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年(昭和47年)、日本橋中央のがこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路原標」が埋標されました。この複製も同時に製作・設置されたものです。東京市道路原標は1999年(平成11年)に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。』
・撮影日 2005/04/08
・メモ    写真左が複製の「日本国道路元標」(本物は橋の真ん中にある。)右が「東京市道路元標」。左右には各地への里程標が並んでいる。横浜市29km甲府市131km名古屋市370km京都市503km大阪市550km下関市1076km鹿児島市1469km 千葉市37km宇都宮市107km水戸市118km新潟市344km仙台市350km青森市736km札幌市1156km.
位置図

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道路元標(東京都中央区日本橋)

2005年04月11日 | 散歩の楽しみ
道路元標は大正9年(1920)に国道の始まる地点を示すため当時の道路法に基づいて市町村単位に設置された標石です。
当時、全国で約1万2千あまり設置された道路元標ですが、時代と共に現存するものは少なくなってます。現存するものを歴史の証しとして記録に残していきたいと思います。なお、明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれています。
・所在地   東京都中央区日本橋(日本橋の真ん中)
・建立年   昭和47年(1972)
・建立者   不明
・導(しるべ)日本国道路元標 
・撮影日   2005/04/09
・メモ    日本橋のど真ん中、道路の中央に在るため、見学には注意。私も信号の合間にこの写真を撮影。現在この「日本国道路元標」を起点にしている国道は1号、4号、6号など7本。道路標識の「東京○○km」の標示はここを起点にされている。下の写真は歩道からみたもの。

位置図


0哩標識(東京駅山手線) 

2005年04月10日 | 散歩の楽しみ
JR各線の起点の位置を示すものが「0哩標識」(Mile Marker Zero)です。それぞれのホームの中ほどや線路脇に設置されています。ゼロキロポストともいいます。
・所在地   東京都千代田区丸の内1丁目9-1
・建立年   昭和44年(1969)
・撮影日   2005/04/08
・メモ    山手線4番線と5番線との真ん中(5号車あたり)にあります。「国鉄100周年」を記念して作られたと東京駅のパンフに書いてあります。写真の0の下に『起点(国鉄キロ程基準原標)昭和44年12月20日作成(東京駅開業55周年記念)』と書いた標識あり。
位置図

一石橋迷子しらせ石標(東京都中央区)

2005年04月09日 | 散歩の楽しみ
江戸時代に至る所にあった迷子しらせ石標も現存するものは少なくなってしまいました。現存する四つの一つ。
・所在地   東京都中央区八重洲1-11
・建立年   安政四年(1857)
・建立者   不明
・導(しるべ) 右  志らする方
        正面 満よい子の志るべ
        左  たずぬる方
・案内板   『江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。迷子が出た場合、町内が責任を持って保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。柱の正面には「満よい子の志るべ」、右側に「志らする方」、左側には「たずぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草のものは戦災で破壊された。平成八年三月八日 建設 東京都教育委員会』
・撮影日   2005/04/09
・メモ    東京都指定有形文化財(歴史資料)裏面に『安政四年二月 御願済建之 西河岸町』の記載あり。東京駅八重洲北口を出て東にひっそりとある。周囲は新日鉄本社、日銀などがある。

位置図

道路元標(広島市中区)

2005年04月07日 | 散歩の楽しみ
道路元標は大正9年(1920)に国道の始まる地点を示すため当時の道路法に基づいて市町村単位に設置された標石です。
当時、全国で約1万2千あまり設置された道路元標ですが、時代と共に現存するものは少なくなってます。現存するものを歴史の証しとして記録に残していきたいと思います。なお、明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれています。
・所在地   広島市中区大手町(元安橋東詰)
・建立年   明治22年(1889)
・建立者   広島市
・導(しるべ)広島市道路元標 
・メモ    元標の右手前にある案内板に「このあたりは陸上交通の主要街道とし、また太田川の水運の利もあって、広島城下の中心となっていた。当時この地に高札場(※)があり、付近には馬継場や藩の公式の宿舎、御客屋などがあった。したがって、広島からの里程(みちのり)はすべてこの地から起こされていた。明治以降、県制施行にともないここに木柱で広島県里程元標が建てられたが、明治22年(1889)市制施行後は現在の石柱で広島市道路元標と改められた」と書かれています。植栽の中に埋もれるように建っていましたが、しっかり自己主張はしていました。正面に彫られた文字はかなり風化していますが読むことはできます。ちなみに英語表記はZero Mile Stoneとなっていました。
位置図

※高札場(こうさつば)は今日でいう「官報掲示板」であり、幕府が庶民に対し、禁制や法度(はっと)等を示したものです。