掲載元は「神戸っ子9月号」。西さんを本音で語らせたインタビューアーは我がM会の会長です。
西 和彦 Wikipediaから一部引用。
兵庫県神戸市生まれ。須磨学園創立者 西田のぶの孫。
経歴:電気少年として
1961年(昭和36年)兵庫県神戸市の私立育英幼稚園に入園。 1962年(昭和37年)兵庫県神戸市の市立板宿小学校に入学。 1965年(昭和40年)電話級アマチュア無線士の試験に最年少で合格。 1966年(昭和41年)ボーイスカウト日本連盟神戸23団カブスカウト隊に入隊。(昭和46年まで) 1967年(昭和42年)アマチュア無線局(JH3FTA)開局。50Mhz帯で運用。トリオTR5000と6エレメント八木アンテナでブラジルと交信成功。
1968年(昭和43年)兵庫県神戸市の市立飛松中学校に入学。 1968年(昭和43年)音楽の授業で「チゴイネルワイゼン」を聴く。帰りにレコード屋によって、そのレコードを買う。家にはプレーヤーがなかったので、作ることにし、プレーヤーを自作した。 1968年(昭和43年)放送部に所属し、行事のPAや放送プログラムを制作した。 1969年(昭和44年)HFトランシーバー(真空管式)を自作した。 1969年(昭和44年)生徒会会長選挙に立候補し、落選した。生徒会文化部長となり、コンサート、文集発行などの文化活動を企画する。 1970年(昭和45年)ボーイスカウト日本連盟より菊スカウト章を取得する。 1970年(昭和45年)技術家庭の教諭の指導によりオシロスコープ(真空管式)を自作した。
1971年(昭和46年)兵庫県西宮市の私立甲陽学院高等学校に入学。 1972年(昭和47年)夏休みの講習会でコンピューターに出会いプログラミングを始める。 1973年(昭和48年)東京・銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」を展観し、衝撃を受ける。 1973年(昭和48年)CQ出版社発行の「CQ Ham Radio」の企事「Specialized Communication:ラジオテレタイプ、テレビ、地球月地球通信」を読み、衝撃を受ける。 1974年(昭和49年)現役では東京大学理科I類を受験したが失敗。駿台予備校(お茶の水)で浪人。 1974年(昭和49年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」に参加し、運営を手伝った。
1975年(昭和50年)早稲田大学理工学部機械工学科へ入学、8年間在学後に退学。 1975年(昭和50年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」にコンピュータ制御のシンセサイザーを出品参加した。 1975年(昭和50年)早稲田理工では、教養課程にもかかわらず機械工学科・ロボット工学の加藤一郎研究室、電気工学科・電力工学の成田誠之助研究室に出入りした。 1976年(昭和51年)にロボット研究室では、ロボット制御のためのコンピュータに取り組むようにと言う指導によって、ミニコンピュータ(Panafacom)とハードディスクの接続に取り組んだ。 1977年(昭和52年)に電力研究室では、電力系統表示板を開発し、ミニコンHITAC10-IIに接続した。
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エンジニア・経営者として
雑誌「月刊アスキー」の創刊号で西は「コンピューターはメディアになる」と述べている。西のコンピュータメディア論はコンピューターアート展を主宰していた音楽家端山貢明の影響をうけたものであるという。電気工作雑誌や、ホビー雑誌と違うモノにしたかったのである。しかし、雑誌の記事で電気会社各社の商品記事を書きながら、それぞれの商品に不満を感じ、自分の考えるパソコンを作りたいと考えた。
早稲田理工の図書館で見たElectronics誌の記事を読み、マイクロソフトにコンタクトし、ビル・ゲイツに面会する。
マイクロソフトからBASICインタープリターのカスタム化に応ずるという返事をもらい、TK-80マイコンキットにBASICインタープリターを搭載するプロジェクトを開始する。これが後になってPC8001をNECとマイクロソフトで企画・開発することになるベースとなった。 1978年(昭和53年)にアスキーマイクロソフトを設立し、社長に就任。 1979年(昭和54年)にマイクロソフト米国本社・極東担当の副社長。
西 和彦 Wikipediaから一部引用。
兵庫県神戸市生まれ。須磨学園創立者 西田のぶの孫。
経歴:電気少年として
1961年(昭和36年)兵庫県神戸市の私立育英幼稚園に入園。 1962年(昭和37年)兵庫県神戸市の市立板宿小学校に入学。 1965年(昭和40年)電話級アマチュア無線士の試験に最年少で合格。 1966年(昭和41年)ボーイスカウト日本連盟神戸23団カブスカウト隊に入隊。(昭和46年まで) 1967年(昭和42年)アマチュア無線局(JH3FTA)開局。50Mhz帯で運用。トリオTR5000と6エレメント八木アンテナでブラジルと交信成功。
1968年(昭和43年)兵庫県神戸市の市立飛松中学校に入学。 1968年(昭和43年)音楽の授業で「チゴイネルワイゼン」を聴く。帰りにレコード屋によって、そのレコードを買う。家にはプレーヤーがなかったので、作ることにし、プレーヤーを自作した。 1968年(昭和43年)放送部に所属し、行事のPAや放送プログラムを制作した。 1969年(昭和44年)HFトランシーバー(真空管式)を自作した。 1969年(昭和44年)生徒会会長選挙に立候補し、落選した。生徒会文化部長となり、コンサート、文集発行などの文化活動を企画する。 1970年(昭和45年)ボーイスカウト日本連盟より菊スカウト章を取得する。 1970年(昭和45年)技術家庭の教諭の指導によりオシロスコープ(真空管式)を自作した。
1971年(昭和46年)兵庫県西宮市の私立甲陽学院高等学校に入学。 1972年(昭和47年)夏休みの講習会でコンピューターに出会いプログラミングを始める。 1973年(昭和48年)東京・銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」を展観し、衝撃を受ける。 1973年(昭和48年)CQ出版社発行の「CQ Ham Radio」の企事「Specialized Communication:ラジオテレタイプ、テレビ、地球月地球通信」を読み、衝撃を受ける。 1974年(昭和49年)現役では東京大学理科I類を受験したが失敗。駿台予備校(お茶の水)で浪人。 1974年(昭和49年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」に参加し、運営を手伝った。
1975年(昭和50年)早稲田大学理工学部機械工学科へ入学、8年間在学後に退学。 1975年(昭和50年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」にコンピュータ制御のシンセサイザーを出品参加した。 1975年(昭和50年)早稲田理工では、教養課程にもかかわらず機械工学科・ロボット工学の加藤一郎研究室、電気工学科・電力工学の成田誠之助研究室に出入りした。 1976年(昭和51年)にロボット研究室では、ロボット制御のためのコンピュータに取り組むようにと言う指導によって、ミニコンピュータ(Panafacom)とハードディスクの接続に取り組んだ。 1977年(昭和52年)に電力研究室では、電力系統表示板を開発し、ミニコンHITAC10-IIに接続した。
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エンジニア・経営者として
雑誌「月刊アスキー」の創刊号で西は「コンピューターはメディアになる」と述べている。西のコンピュータメディア論はコンピューターアート展を主宰していた音楽家端山貢明の影響をうけたものであるという。電気工作雑誌や、ホビー雑誌と違うモノにしたかったのである。しかし、雑誌の記事で電気会社各社の商品記事を書きながら、それぞれの商品に不満を感じ、自分の考えるパソコンを作りたいと考えた。
早稲田理工の図書館で見たElectronics誌の記事を読み、マイクロソフトにコンタクトし、ビル・ゲイツに面会する。
マイクロソフトからBASICインタープリターのカスタム化に応ずるという返事をもらい、TK-80マイコンキットにBASICインタープリターを搭載するプロジェクトを開始する。これが後になってPC8001をNECとマイクロソフトで企画・開発することになるベースとなった。 1978年(昭和53年)にアスキーマイクロソフトを設立し、社長に就任。 1979年(昭和54年)にマイクロソフト米国本社・極東担当の副社長。