阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

漫画家「ちばてつや」さんの18年ぶりの新作単行本「ひねもすのたり日記」が面白い。

2018年09月01日 | ゲストルーム
水木しげるさんの制作意欲に刺激され、ふたたび筆を執った「あしたのジョー」の漫画家が18年ぶりに本をだした。自分の生きてきた道を満州時代の幼き日を含めてビッグコミックに連載。
ちばてつやインタビューはこちら

デビュー前
1939年(昭和14年)東京都中央区築地生まれ[1][6]。生後すぐに日本を離れ、2歳の時に、満州国奉天に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた[7]。1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期をすごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年、家族共々、日本に引き揚げ、千葉、飯岡(旭市)を経て、東京、墨田区小梅町に移り住んだ。
道ばたに落ちていた豆本で見た漫画[注 1]の表現力に衝撃を受け、漫画にのめり込む。しかしちばの家は漫画に対して厳しく一切禁止されていたため購入や家で読むことはできず、友人の家でこっそりと読むなどしていた[8]。
小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた木内堯央[9]と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年(昭和25年)より参加するようになる[8]。
貸本時代
16歳の高校生時に、新聞の三行広告で[7]漫画家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募。社長の石橋国松[注 2]はちばにプロの生原稿を見せ、道具の使い方を教え、試しに描いてくる様に指示し、ちばは本格的な執筆を始める。20-30ページを執筆して持って行くと続きを執筆するように言われ、ちばはテストだと思い言われるままに続きを描き、何度か繰り返した後に最後には28ページで話を終わらせる指示を受ける。最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として手渡された[7]。このとき執筆された「復讐のせむし男」は1956年(昭和31年)に貸本として出版され、ちばは17歳で漫画家としてデビュー[8]。以降、高校に通いながら貸本の執筆を続けた。(Wikipediaから一部引用)
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突然キレる年寄り『なぜ?』(三宅薬品・生涯現役新聞N0.283)から引用

2018年09月01日 | ゲストルーム
 週間プレイボーイ2018.7.30号に、長谷川嘉哉先生(神経内科、認知症の専門医)が解説された次の記事が掲載されていました。
 日本社会に急増する「75歳以上」と寛大な気持ちで付き合う方法
 ポイントとなるのは「人は年齢を重ねていくと前頭葉の働きが衰え、感情を抑制しにくくなっていく」というもので、これを契機にMCI(軽度認知障害)になり、放っておくと本当の認知症へ進む危険があるというものです。
 雑誌の購読年齢層から「年寄りとどう付き合うか」が主題となっていますが、当店の新聞購読者は中高年が多いですから、「だれもがそうなるから、どう対策を打ったらいいか」をかいつまんで説明したところです。引用元


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「無実の市民を犯人に仕立てるデッチ上げは許されない」と無罪判決が出た市民が警察に(国に)賠償を求め提訴。

2018年09月01日 | SNS・既存メディアからの引用記事


 

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