阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

3か月ぶりに旧中川の平井橋まで歩いた。

2021年09月04日 | 身辺あれこれ

先日、右奥歯下の義歯が浮いたのを知らずものを食べて義歯を少し噛んでバネを折ってしまい、使えなくなった。

新しく義歯を作ってもらっていたが出来上がったので歯科医院に装着しに行った。

新しい義歯の制作の前に、上の歯列の歯型と下の歯茎の型を丁寧に取って作られたせいか、

以前に比べるとごくわずかな調整作業ですぐにうまく納まり使えるようになって嬉しい驚きだった。

 終わって涼しかったので駅を越えて旧中川まで歩き出した。歩行数 4858歩  歩行距離 3.0km

 

 

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阿智胡地亭便り㊿  <戦時下の乳飲み子たち>   過去の「ブログ阿智胡地亭の非日乗」から

2021年09月04日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2006年09月14日(木)掲載

今から60数年前のお母さんたちは、こんな記事を読んでいたらしいです。

☆ 戦前・戦中の2大メジャー婦人誌『主婦之友』『婦人倶楽部』は、戦時中もほぼ毎号育児にかんする記事を組んでいた。


空襲下での子育ては当時最も切実な問題で、「空襲下の妊産婦心得」(主婦之友昭和20年1月号)「出産と空襲は待ったなし」(同誌昭和20年4月号)


「赤ちゃんも防空服装」(婦人倶楽部昭和19年10月号)など、湿気が多く底冷えがする防空壕内の生活で子どもをどう守るか、実践的な記事も多い。


乳児の栄養面についても、「代用乳(無乳栄養)の作り方と与へ方」(主婦之友昭和19年10月号)「人工栄養児の大豆粉栄養法」(婦人倶楽部昭和20年3月号)。

「空襲の衝撃のため、出てゐたお乳がぴつたり止まつてしまふといふことも事実あり得ますが、しかしこれも母親の肚のすゑ方一つでよほど違ひます。

必至の空襲を控へて、日頃からちよつとのことで物に動じない心の鍛錬を、戦時の母親は忘れたくないと思ひます」(主婦之友昭和19年10月号)。






「子供を被害から逃れさすことばかりが防空ではありません。戦場に育った子供でなければ経験し得ない、生々しい戦ひの体験を、将来国の強兵として


戦場に立つときの基礎に、立派に活かしてゆかうではありませんか。戦争を恐がらしてはならない、盲目的な平和思想を抱いてはさらにならない。


空襲をも戦時下の精神鍛錬の鉄床(かなとこ)として活用する、この母の心構へこそ、『子供の防空』の根底をなすものであると信じます」(主婦之友昭和19年8月号)

コメント (1)
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追悼 内橋克人さん    |   経済評論家 内橋克人さん死去 日本社会の経済格差を批判 | NHKニュース

2021年09月04日 | SNS・既存メディアからの引用記事

全文引用・・・

日本社会の経済格差を批判し誰もが安心して暮らせる社会の実現を訴え続けた経済評論家の内橋克人さんが1日、急性心筋梗塞のため神奈川県内の病院で亡くなりました。89歳でした。

内橋さんは1932年、神戸市で生まれ、大学を卒業後に地元の神戸新聞社に入社し記者として勤務したあと経済評論家として活動を始めました。

日本の高度経済成長を支えた技術者らを描いた「匠の時代」などの著作を発表するとともに、現場取材に基づいた視点から日本社会や経済の在り方について批評を続けてきました。

そして経済格差を批判し企業などの利益追求を優先するのではなく、誰もが安心して暮らすことができる社会の実現を訴え続けてきました。

NHKの番組にも数多く出演し、2008年度には第60回の放送文化賞に選ばれています。

また、ことし3月に放送された東日本大震災から10年にあたってのNHKの番組にもパネリストとして出演していました。

内橋さんは最近までラジオの仕事などを続けていましたが、家族によりますと先月、体調を崩して神奈川県内の病院に入院し、1日、急性心筋梗塞のため亡くなったということです。

89歳でした。

内橋克人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

内橋 克人(うちはし かつと、1932年7月2日 - 2021年9月1日)は、日本経済評論家

 

兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立星陵高等学校神戸商科大学(現兵庫県立大学商経学部卒業。神戸新聞記者を経て、1967年よりフリーとなる。

日本の高度経済成長を支えた現場の技術者たちを活写した『匠の時代』で脚光を浴び、一方で『「技術一流国」ニッポンの神話』において技術立国で向かうところ敵なしと言われていた日本経済が大量生産・大量消費を前提とした量産効果に依存しているという弱点を抱えていることを指摘、主流の技術評論家や経済評論家の楽観論を批判した。また、バブル崩壊後もよく唱えられている「改革」が剥き出しの市場原理主義に則っていて社会的費用を弱者に転嫁しかねないと指摘、アメリカ流の聖域なき構造改革に厳しく警鐘を鳴らし、その対抗思潮をいち早く展開した。

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内橋さんの自伝を読んだところだった。この人も戦争で自分の人生が全く変わってしまった人だった。阿智胡地亭の父方の一番上の従兄と同じ生まれ年だが 

神戸で米軍の空襲を受けた内橋克人さんの人生は、信州の山の中で育ち 長じて東京の大学の建築を出て、ゼネコンの役員になった従兄の人生とは全く違っている。

尊敬する同時代人がまた一人彼岸へ去った。寂しい。内橋さん!貴方から多くの事を学びました。志を決して曲げなかった真のジャーナリスト内橋克人さん ありがとうございました。

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