こんな便りを2002年頃からメールで友人知人に発信した。 ☝昭和30年頃の国鉄芦屋駅とその周辺ーネットから引用。
#21 イカナゴのくぎ煮 2003.3.16
近年、三月の始めから数週間、尼崎から宝塚、西宮、芦屋、神戸、須磨、明石
にかけてイカナゴのくぎ煮をつくる家庭が多くなってきたそうだ。
うちではイカナゴのくぎ煮そのものを知らなかったが、神戸に引越してからご近所の
方に教えてもらって毎年、相方が作っている。シーズンになると神戸新聞の家庭欄にも作
り方が掲載される。投書欄には我が家の作り方は・・のような記事が必ず出る。
瀬戸内海のイカナゴ漁が解禁になると明石など沿岸の漁船が出て、毎日生協やスー
パーでイカナゴの昼網として1キロ単位で売り出される。
この小魚の佃煮は昔は業者製造が殆んどで、各家庭で作りだしたのはそんなに
古い事ではないらしい。佃煮にするのは2cm~3cmくらいの大きさまでで、
イカナゴは日々成長して大きくなるのでイカナゴ漁の期間は2週間か3週間くらいの
ものだ。成魚になるとフルセという名前になる。
その1、広島から、くぎ煮作りに神戸へ。
両親が住んでいた時以来、もう30年以上お隣りどうしに住むご一家は、
ご主人が山口県の岩国市、奥さんが由宇町ご出身で奥さんの妹さんが広島に
おられる。今年妹さんがお隣に来られて1日かけて3キロのくぎ煮を作って広島へ
持って帰られたと聞いた。それに驚いていたら一週間もおかないうちに又来られて
再度、3キロのくぎ煮を作って持って帰られたそうだ。
広島のご近所に配ったら好評でもう一回作りに来られたとのこと。
この期間、関西一円の百貨店やスーパーではくぎ煮商品そのものも、どこの店頭にも
出ているのだが、お隣の奥さんが最初送った自家製のものが気に入って妹さんが
ご自分でも作りに来たと。妹さんの打ち込み方に嬉しさ半分、戸惑い半分で
お話して下さったそうだ。次女の部屋の横がお隣の台所で、この時期は何日間も
一日中ファンから醤油と調味料と魚の交じった調理の匂いが流れてくる。
その2、マリンバ演奏会とくぎ煮の匂い。
先週、相方と娘が神戸のハーバーランドにある松方ホール(川崎造船所ー川崎重工の
初代所長、松方幸次郎を記念して名付けられた)へ行った。
マリンバの演奏が始まる前に前の席からくぎ煮の匂いがしてきた。
そして何か揉めているので見ると、別々に住む祖母、娘、孫の女三代らしい3人組が
小声でやりとりしている。
(お母ちゃん、こんなとこへくぎ煮持ってきたら、臭いがして人に迷惑やしアカンやないの。
そんなこと言うたかてアンタらに食べさせてやろうおもて、今日は昼から一生懸命
作って持ってきたんやないの。そら有り難い事やけど、こんなに臭おたらどもならん、
アンタ座席の下にでも入れとき)という会話が聞こえてきたそうだ。
下に入れときと母親から言われた孫娘は食べ物を地べたに置くのは抵抗があるようで
膝の上に置いてもじもじ困っていたと。
うちの二人はまさか、くぎ煮の匂いに包まれてマリンバの演奏を聞くとは思わな
かったけど、いかにも神戸らしいことだと、二人ながらに思い出し笑いをしながら
話してくれた。
その3、ガスの火力が戻った。
夕食の時、お昼のガスの火力がようやく普通になったと相方が娘に言っている。
それはどういう事と聞くと、殆ど3月始めの3週間の間、午後いっぱいガスの火力が
弱くなる。それは、この地域でくぎ煮を作る家が多くなってガスの消費量が上がっている
のだと思うと。かなり長時間、強火で煮るのだそうだ。もし本当にくぎ煮が原因だとしたら面白い。
今年は豊漁予想が狂って昨年よりキロ単価が上がったらしいのに、自家製のくぎ煮の
人気の勢いは上がる一方らしい。今度のは一番味も艶もいいでしょというので聞くと、やは
り弱い火力ではうまくいかないし、お隣さんから教えてもらって醤油を薄口に変えてみ
たのも良かったとのこと。
今度のはというので、今年は何回作ったのかと聞いたら、毎週一回1キロづつ都合
三回作ったそうだ。確かにタッパーから出して来るくぎ煮のイカナゴの大きさがだんだん
大きくなってきていた。
基本的には生姜で臭みを取るのだが、年によってハヤリがあり、それに柑橘類の皮を
入れた年、山椒を入れた年があるそうで、今年は鷹の爪を入れたとのこと。
なるほど少しピリっとしていて、今年もしばらくの間ご飯のトッピングや酒のツマミに楽しめる。
食べてます。
#22 還暦記念中学同期会ーその1 2003.3.26
三重県の四日市市にひさしぶりに行ってきました。
四日市市立港中学校卒業45周年・還暦同期会が3月21日に湯ノ山温泉の希望荘で
開かれ、卒業生7組350人のうち120人が地元、関東、関西から参加した。
幹事からの案内の手紙には、何か赤いものを身につける事とあったので、
紅いセーターを着て行ったが、言う事を聞いた素直な人は少数だった。
宿泊者も80人ほどいて、幹事団の計らいで大宴会のあと小部屋に別れて
クラスごとの懇親も出来てよかった。
同期会は6回目だそうだが45年ぶりに始めて参加した人も10人ほどいた。
私の属したG組は、80歳でまだ毎日、高速伊勢道を運転するという担任の
安田先生をはじめ男性6人、女性9人の参可者だった。
クラスに分かれての懇親の時のこと、「知事の北川なんて三重県民にとって何にもいいことをしていない。
結局3期目の選挙に出ないのは、中身がないのにマスコミ向けのパーフォマンスだけ
8年やってきて、ネタ切れで自分が疲れたから辞めただけやに」と80才の先生が言われた。
北川知事は新聞や雑誌などマスコミから「住民の考え方に立って行政を進める、いままで
にないタイプの住民重視の知事」という報道をされつづけてきた人だ。
鳥取県や長野県知事と同じく、いままでにないタイプの知事の、そのリーダー扱いで
日本では初めてのタイプの知事と報道され続けてきた。
また、今回 立候補辞退の理由をはっきり言わないので、ポスト小泉を狙ってのこととか
かなり大きく特集記事が出たりしている。
大手新聞やテレビで流れる記事や番組は、何でも一応疑ってみるのだがこれだけ長期間、いろんな
メデイヤで持ち上げる報道にさらされると、私は北川さんに対してなんかこれからの日本の
希望の星みたいなイメージを持っていた。
45年前担当して下さった恩師がズバリ断定されたこの話は衝撃的で、何故今回
辞退するかをついにはっきり説明しない北川知事に、自分でもなんでやと思い始めて
いただけに、直感的にこの話はホンマやと思った。
つい先生に「やっぱりそこの人の話を聞いてみんとわからんもんですね」と言ってしまった。
45年前の学年の先生方の話からはじまり、断片的ながらもご自分が何故教師になったかなど、
太平洋戦争に人生が影響された80才の人の一代記をも初めて伺った。
少し背中は曲がっておられたがよく飲まれ、耳も目も確かで顔色も美しく、目の鋭さや恐さは変わらず
何十年もずっと自分の頭でモノを考えてきた人の凄みを感じながら、参加して良かったと思った。
聞いたとさ
#23 還暦記念中学同期会 その2 2003.3.26
承前
四日市は地縁、血縁は全くない土地だが、技術屋だった父が当地の工場に勤務していた折、会社の社宅で産まれ、自分が就職した会社の独身寮へ
入るまで続いた11軒(回)移動の社宅生活のスタートの地でもある。
5歳で四日市を出て転々とし、小学校6年生でまた戻り、小学校、高校と違い、この中学校だけは転校無しで卒業したので私にとっては
大事な学校だ。
①四日市までは神戸・六甲道からJRで大阪に出て、環状線の鶴橋で近鉄の特急に乗り換え、2時間50分の行程である。
(*)難波発名古屋行きの近鉄特急は大和高田、榛原、耳成、長谷寺、名張などを通り、昔、仕事でNECの伊賀上野工場へ行くため
何度か乗り換えた伊勢神戸(カンベ)を通過し、津、白子と走り四日市に着く。
(*)乗り変え回数と時間を気にしなければ、神戸からの最小コストは新快速で東海道線の滋賀県草津へ行き、
草津線で関西本線の柘植に出て亀山経由四日市というJR普通電車乗り継ぎルートがある。
一度利用した事があるが、寂びれきった関西本線を走るワンマンデイゼルカーが風情があって良い。
もう一つの新幹線で名古屋回り近鉄利用ルートは、時間は最短だがコストが2倍になる。
この路線に乗るたびに目に入る地名や駅名から摂津、和泉、大和、伊勢の国々という古代から人が住みつづけている土地をいま移動しているんだなあと思う。
②15時半のバス集合時間より早めに着いたので、駅近くの諏訪神社にお参りした。12世紀に信州の諏訪大社から勧請された歴史の割には俗っぽく荘厳さはない。
後ほど氏子と判った同級の女性から聞くと、この神社は繁華街になった元神社領の所有地を沢山の飲食店ビルに貸与してその上がりで食べていけるので、
氏子のための何の努力もしていないとボロクソだった。現在日本各地で都会にある神社が持つ一面なのだろう。
③近鉄四日市駅繁華街の中心店の一つだった岡田屋は取り壊されて広場になっていた。かなり前に郊外にショッピングセンターをオープンしたそうだ。
昭和30年代はじめまで岡田屋呉服店だった岡田屋は、四日市では江戸時代から続く老舗の呉服や雑貨の小百貨店だった。その岡田屋が昭和30年代の
終わり頃、二木など何社かと合併を繰り返し、「ジャスコ」となり今、ダイエーを越えて「イオングループ」として全国展開してきたのを
(岡田一族の方が大学の先輩に居られることもあり)関心を持って見てきたが、ここまであの岡田屋がメジャーな全国ブランドになるとは思わなかった。
行ったとさ
#24 高校還暦同期会 2003.4.14
4月6日、日曜日に六甲道から8分で着くJRの芦屋駅で降りた。大阪へ行く時、快速から新快速に乗り換えるためホームにはよく降りるのだが、
降りて駅の外に出るのは久しぶりだった。
駅前の「ホテル竹園」で高校の還暦同期会があるので、7,8年ぶりにホテルの中へ入った。ここも上の階にあったプールが震災で壊れ、確か修復し
営業を再開するのに時間がかかったと思う。高校に通学していた頃は(竹園旅館)といい、「読売巨人軍」の定宿だったが、40数年後の今も、引続き
ジャイアンツが関西に来た時はここに宿泊する場所だ。
(1)昭和36年の3月に卒業してから同期会の開催は、もう10回目だと芦屋市役所勤務の司会役からはじめに説明があった。
10年ほど前に一度出たが、その時の事はあまり印象に残っていない。
中学の同期会と同じく会場には還暦同期会と大きくプレートが上がっており、もらった資料を見ると500人中、108名の参加だった。
この会の創立以来会長をしている同級だった高津君とは、いつの頃からか年賀状をやりとりしており、今年の年賀状に会場で久しぶりに会おうと
書いてあったこともあり、今回の同窓会に出ることにしたのだった。
クラス別にテーブルが決まっており、その席で会った高津君は顔を合わすなり、「おお来たか、オマエまだ会社行っとんか」と言った。
彼はサンヨー電機を昨年12月に定年退職し、再就職はせず95歳の父親の看護に専念することにしたと言った。
この芦屋高校は一年の2学期からの転校で、しかも当時社宅があった神戸市の住吉から芦屋市への越境入学だったこともあり、
ついになじめないままに卒業してしまった高校だ。
本来の住所の学区のK高校の転入試験も先に受けたのだが理科の転入試験科目が「生物」で、四日市高校の一学期の理科履修が物理だったため
初めて見る文字の「ミトコンドリア」がどうたらというような問題を1問も解けず、白紙で出さざるを得なかった。
今考えると何が転入試験科目かも調べずによく転入試験を受けたとはと思うが、なんせ親も子も初めての経験で理科の履修科目が
県によって学校によって違うなどとは思ってもいなかった。(日本中の高校で、一年の一学期の理科科目は化学でも生物でもなく物理だと思っていた自分のおめでたさにも驚くが)
結果は当然不合格で、そのあと今度は生物のにわか勉強をして越境ながら芦屋高校の転入試験に受かり、何とか四日市で一人で高校生の下宿生活をしないで済んだのだった。
30数年後に長女が中学一年で取手市から神戸市に転校し、数年後、K高校の入試に通った時は親の仇をとってくれたと嬉しかった。
転校した学校の連中は自分がそれまで一緒に過ごした人たちとはなんか違っていた。
兵庫県立の高校ながら制服はなく、何を着ても自由で、男子生徒に丸刈りは誰もいないし私服の女生徒はみな華やかに見えた。
クラスの卒業写真でたった一人坊主刈りで写っている自分を見るといつも笑ってしまう。
中学校や一学期だけ通った四日市高校当時の刷り込みで、学生は丸刈りでないといけないと自分にしばりをかけていたのか、
どうせ同化出来ないとそのまま通したのかはもうわからない。
(2)今回3年当時の同じクラスのテーブルの二人と話したが、それぞれ別々にアンタはクラスで一人違っていたと言われた。
当時は仲間外れにするとか、転校生イジメとかはなかったから、意図的に外されたわけではなく、一人浮いていたのだろう。
結局、親しくなって卒業後も日常的に付き合ってきた人は誰もいない。
同じテーブルで話したうちの一人の横田君になじめなかった話をしたら、そらそうやろうとその理由を解説してくれた。
「この高校は兵庫県立とは言ってもアシヤ村立の学校みたいなもんやったんや。市内には小学校2つ、中学校2つ、高校一つしかないんやから
山の手グループと浜手グループとは分かれるけど、みんな小学校からの仲間やねん。今日出てきている連中は殆ど小さい時からの顔見知りばっかりや。」
私は山手、浜手のグループの違いも知らなかった。当然芦屋が、船場の大店のお金持ちが大正以前からお屋敷街を作ってきた所とも知らなかった。
クラスメートにお屋敷のお嬢さんたちが居るのも知らなかった。
そして、ここ芦屋が谷崎潤一郎の「細雪」の四姉妹が育った設定の街とも知らなかった。
敗戦から13年たっていたから、着ているものや家並みが外の土地と際立って違っているとは思わなかったが、
みんなの雰囲気や彼らの喋る阪神間の言葉はなじめなかった。
横田君は小学校の時に越境で芦屋市に転校し、なんとなく違和感をもって高校まで芦屋に通ったと言い、
これまでの私の違和感の正当性を説明してくれたようになって、二人で周囲のみんなとの違いを言い合って笑ってしまった。
そして彼と話をしているうちに、私が前の勤務先で仕事を引き継いだ岡本部長と組んで横田君がソーター(自動仕分機)を売ってくれたことや、
横田君が岡本君の同志社大学工学部の先輩と言うことがわかって、これには二人ともに心底驚いた。月並みながら世間は狭いなあと。
横田君は岡本君が仕事をまっとうにやってくれたと評価し、今回彼が早期退職したことを本当に惜しがってくれた。
自分が一緒に仕事をした人間をこういう風に言ってくれて嬉しかった。
この横田君との会話と、もう一人、目があったとたんに名前を呼んでくれた水谷さんという女性がいて気になり、どうして覚えてくれていたのか
<なんでだろう>と思い、同じテーブルの人に彼女の名前を聞いてから、席に行って暫く話が出来た事の二つで、
しぶしぶながら出席したけれど参加して良かったと思った。
二人共に5年後の同期会でも必ず会おうと言ってくれた。
帰りは、芦屋川沿いにちょうど満開の沢山の桜を見ながら、阪急芦屋川まで歩いて
今度は阪急に乗って御影まで帰った。いい花見が出来た。
行ったとさ。
#25 床屋のドイさんにサヨナラを・・・ 2003.5.08
4月も終りのある日 昼休みが終って席についたらすぐ、Mさん床屋さんからお電話ですと言われた。
床屋から電話をもらうとは誰からで、何だろうと首をひねりながら受話器を取った。
「ビルの床屋のドイです。えらい急な話やけどワタシ4月一杯でココ止めますねん。
今日来はった樋口さんからMさんの会社の電話番号教えてもらえたんで今電話させて
もろとるんですわ。長い事お世話になったお客さんも仰山いてはるから、黙って
止めるんもなんやし、社長に言うて5月21日まで勤めさせてもらうことにはしたんです。
そやからそれまでに来られるんやったら前日に電話して、時間を言うてください。」
と言って電話は切れた。
いつもは当日電話で予約して行くのだが、今回は連休前に電話を入れておいた。
堺筋本町から淀屋橋までは、20分ほどで歩くのにちょうどいい距離だ。
ドイさん担当の椅子に座ると「来てもろて有難うございます。電話で言いましたけど、急やけど
やめる事になったんですわ」と言った。「始めあれば終りあり、ですか」と返すと「そうなんですわ」
と言って、こうなった経緯や今後の事を、しかし散髪の手は休めず話し出した。
ドイさんにはもう16年の間、髪を切ってもらっている。何も言わずに椅子に座れば、
後は寝込んでもちゃんとやってくれる。夏季、汗かきの私が入室するとさりげなく
クーラーの温度も操作してくれ、濡れタオルを出してくれる。整髪料は私が家で使っている
のと同じものをキープしてくれている。広島時代も月に一回の大阪での会議の日にやって
もらって結局ほとんど16年間毎月続けてやってもらった事になる。
この理髪店は先代が店の社長の時にこのビルに入り込んで、昭和43年に私が新居浜から
転勤で来た頃は広い面積をとって営業していた。今回ドイさんに聞いたら当時は理髪椅子が
12台あり理容師が15人居たという。それでも一日中フル回転だったそうだ。ドイさんは昭和
44年に入店したとのことで、それから34年ビルの地下の職場で働いた事になりますと言った。
昭和62年に転勤で東京から大阪に戻り、再度、ビルの理髪店に行き出した頃は理容師は
5、6人になっていたが、行き出してすぐドイさんを指名するようになった。理由ははっきりは
覚えてないがこちらの状態を見て、床屋政談をしたり、眠りたい時はずっと眠らせてくれたり
と色々あったが、やはりウデが良かったのだ。口八丁手八丁で客あしらいもうまかったけど。
本人の自慢は「カットした後の最初の一週間は、職人の誰がやってもおんなじやけど、
それからが違いまんねん。そっからのモチ(持ち)が違うんですわ。ワタシは一人一人の頭の恰好を
見て全部カット変えてますから」という事で、私はそれはその通りだと実感していた。
退職するにいたった大きな理由は「この仕事はやっぱり刃物を使いまっしゃろ、まだまだ自信は
ありまっけど、もしこっちが手えでも滑って怪我でもさしてから止めるのはいややし。」
という事だったが、それは自分が納得するため自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
ドイさんの話しから推測すると、理髪室はここのところ3人の理容師でやってきたが、ビルの就業
人口の減少から、来店客数が減り続け、いまや理容師は二人で充分という事になり、店の社長から
ドイさんに退職勧奨があったようだった。 ドイさんの話しに、何で私がやめないかんねん
という思いが時々覗いているような気がした。彼は負けん気の強い、ずうっと自分の仕事に誇りを
持っていた男だった。
頭を黒く染めているのは知っていたが、肌の色はピンク色で艶々しており、顔にはしわ一つ無い。
自分よりちょっとくらいは年上かと想像しながら散髪が終って椅子をたつ直前に、
「若こうに見えるドイさん、時においくつになったん?」と聞いたら、67歳ですわとの答えだった。
とてもその年には見えない。頭のサエもなんら変わらず、腕もまだまだやれると思った。
後は家ででも床屋やるんと聞くと、ハサミはもう握らないと言った。
昭和44年頃(*)は名前は知らなかったが、なんとなくその頃から彼に見覚えがあり、
昭和62年からは毎月一回はバカ話や床屋政談や居眠りをさせてもらった。また彼は
元の勤務先のOBや知人の動向の情報センターでもあった。
にしても長い付き合いになっていたものだ。
(*この頃はビルの理髪店の利用は就業時間中は管理職はよいが組合員は使えないという
不文律があった?ような記憶がある。もしかしたら私が所属した部門だけかも知れないが。
そうなるとユーテリテイコストをテナント各社が補助をしているので
街なかの床屋の7割に近い理髪料金を活用出来るのが、自分より給料の高い方々だけとなる。
営業時間も18時までだったから結局組合員は行けないということになる。これは納得出来なかった。
身嗜みを常に整えてお客さんに不愉快な思いをさせてはならないのは、営業の部課長も担当者も
おんなじはず、と自ら勝手な判断をし、それでもさすがに部課長が外出の時を見はからって
この店に散髪に行っていたものだ。)
そんなことでMさん 長いことお世話になりました。
いや、こちらこそお世話になりました。私もちょうどこの6月で会社終りです。
そうでっか、このビルに来たんはお宅が一年違いの先輩で、退くのんは
一緒の年やなんてまあご互いご縁があったちゅうことですわな。
そういうことや。ドイさんほなお元気で。
お元気で。ご縁があったらまたどっかで会えまっしゃろ。
こんな会話を交わしたあと、用意していった気持ちだけの餞別を渡して店の外に出た。
一部引用・・・ -この1年半で見えてきた課題とは何か。 「医療施設間の連携だ。『最後のとりで』でも、孤立していては戦えない。特に3波、4波において、患者の『出口』開拓が大きな課題になった。人工呼吸器がついた患者の転院は想定外で、どこにも出せない患者を抱え、ぎりぎりの状況だった。また、有事に医療者が臨時の医療施設などに集い、一定期間働く仕組みも検討すべきだ。そこで重篤化した人を中央市民に送ってもらえれば、感染症に対する体制はかなり強化されるのではないか」 画像クリックで全文に飛びます。
兵庫のコロナ1年半 有事の医療、仕組み構築を 神戸市立医療センター中央市民病院・木原康樹院長(神戸新聞NEXT)#Yahooニュースhttps://t.co/yG1qR4oJrb
— achikochitei (@achikochitei1) September 12, 2021
画像クリックで全文に飛びます。自宅療養死も相次ぐ 往診医師「適切な経過観察が重要」「体育館にベッド100台など避難的施設を」<新型コロナ>:東京新聞 TOKYO Web https://t.co/a832kaa9NH
— achikochitei (@achikochitei1) September 12, 2021
「コロナ診療における最大の敵は行政や周辺医療機関の無知と無関心」コロナ小説「臨床の砦」夏川草介著 #BLOGOS https://t.co/stqH61jlN8
— achikochitei (@achikochitei1) September 12, 2021