阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

亀戸中央公園の夏の終わり

2021年09月12日 | 東京あちこち

 

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ソバの花 青空に映える 茅野市の八ケ岳山麓       長野日報 

2021年09月12日 | 諏訪便り

2021年9月11日 6時00分 

茅野市の八ケ岳山麓一帯でソバの花が満開を迎えている。玉川、泉野、豊平、湖東、北山など、八ケ岳を臨むソバ畑は市内の広範囲に広がる。

久しぶりに青空が広がった10日には、各地で白い小粒の花がひときわまぶしくきらめいていた。

泉野下槻木の集落北側に広がる田園地帯にあるソバ畑は、水田の数に比べると少ないものの一枚ずつは広大。

トンボが飛び交い、黄金色に色付き始めた田んぼに囲まれた所々に、かれんな白い花のじゅうたんを広げている。

場所はエコーラインを挟んだ西側。普段は訪れる人の少ない静かな高原だが、秋景色を求めてアマチュアカメラマンも訪れている。

◎子供の頃夏休みに訪ねた母の里「玉川」では、桑畑はすぐ近くにもまたそこら中にあったが、当時ソバの栽培は気が付かなかった。伯父の家でもソバを食べた記憶はない。

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阿智胡地亭便り⓸   セリのおひたし その二   日本各地にあったごもっとも 新幹線で移動した白梅  九州若松二島三題     

2021年09月12日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

   こんなエッセイを2002年頃からメールで友人知人に発信しました。

#16 セリのおひたし その二 ’03/02/03

承前、

 その時、女性客が一人で入って来て、先客の横に座り、最初から熱燗を頼んだ。
この人、この店の数少ない女の常連客で、売れない女優なんですよと前からの
知り合いらしく先客が紹介してくれ、彼女もニコッと軽く目礼してきた。こちらは
一見の客なのに、この店の客は人懐っこい。

そのあと、ぼちぼち客が入ってきた。どの客もどの客も、今晩「里」に来ることが
出来て「うれしゅてたまらん」と田辺聖子さんなら表現するだろういい笑顔で入ってくる。

 ジャンパー姿の客が入って来て、おかみの真正面に座ろうとしたが、彼が
座るか座らないうちに、彼女が言った。

ねえ、中島さん亡くなったんだって、いまこのお客さんから聞いたとこなんだけど。

隅の席に座った自分の席から、入ってきたこの角刈りの客の横顔を見たとき、
自分と同年輩か少し上と見た。こちらに向きなおった彼は、精悍な顔の眼の
ひかりが強かった。

 よく海外出張もしていた人ですよね。ここんとこ大田区の工場に勤めていた中島さんだよね。

この店でよく一緒に飲んだ自分が知っている中島と、今亡くなったと聞いた中島が本当に
同一人物か無意識だろうが、確認する言葉が続いた。

 そうですか、いつ頃ですか、おいくつだったんですかねえ。まだ若いやね。
どこの土地の出の人だったんです? いつもここに入ってくるなり、今度こんなとこ行ってきて、
こんな事があったよなんて周囲おかまいなく喋りだしたりしてねえ。
まあ、だけど豪傑のように見えるけど神経のこまやかな人だとあたしは思ってたよ。

ひょっとして定年で会社を退いて、たしか家は市川かあっちの方よね?こっちへ来る事が
なくなったのかな~なんてお噂してたんですよ、とおかみが彼の言葉に続いた。

 中島の家に貰われた犬の兄弟犬が彼の家にも貰われていて、その犬はもう死んだらしかった。

こちらも、中島とは同期入社だったこと、彼の新婚家庭に寮の仲間で押しかけて、皆腰を据えて
しまい、すぐ飲んでしまうので新婦の奥さんがアパートの前の酒屋からビール瓶を数本ずつ、
何度にもわけて、皆にわからないように割烹着の下に隠して買って来た事、同じくらいしか給料を
貰ってなかったはずだから、その月の家計は大変だっただろうなとそのことが今も忘れられないこと。

お互い出張の時は若い時から大阪や東京で良く飲んだ事、千葉の家にも何回か泊めてもらったこと、
自分が神田勤務をしていた厄年の頃、会社に出ることが出来ない日々が長く続いた時、
当時東予に居た彼の家に電話して、東京の心療内科の医者を紹介してもらったこと。

お互い自分の知っている中島の話をしあって、お互いにうなずきながら飲んだ。

 こないだのあれはうまかったね、次はいつ入る・・。
かならず今度は、お出でよねというような話が客とおかみの間に流れていく。

この店では始めてのネクタイ姿の人が入って来て隣に座り、~ちゃん、明日はこないだ
言ったように休みが取れて、松本へ行って来るよとおかみに言ってるので、
信州の方ですかと声をかけると、いや、自分は東京の人間だけど、学校が向こうでね。
明日が去年死んだ友人の祥月命日なんで、仲間が集まって奥さんと子供と仏壇の前で
一緒に飲むんですよ。   おいくつだったんですか?56歳でした。

そのうち、先程長く話した人が軽く会釈して、今日は供養になりましたと言って帰っていった。

この店はねえ、うまいもんが食べたくなると時々小岩から来るんですよと
明日無事有休が取れて友人の法要にいけるのでホッとしたのだろう、
隣の席に座ったサラリーマン風の彼が、こちらに向けて話をつづけた。

追加で頼んだイカの一夜干しもいい柔らかさで、あぶり加減もよく、うまみが一味違った。
おおぶりのコップの焼酎のお湯割を飲み終る頃、もう店もいっぱいになってきた。代金を聞いて
千円札3枚を出し100円玉一個のお釣りをもらい、中島が長年つきあっていたこの店のお仲間の
皆さんに心中さよならを告げ、おかみにごちそうさんと言って店を出た。

 ちょっと歩き、もう一度振り返ると前の店の入口にはあった「赤旗」の常設掲示板が
今度の店にはなかった。そういえば店の中にもそれらしい掲示は何もなかった。

時が移り、客も変わりおかみも変わったのか、それとも現実的になったサヨクの今のありよう
なのか、それはわからないが、中島はそれとは無関係にあの空間で店の常連に好かれ、
飲み仲間を作って長らく楽しんでいたのは間違い無いと思った。

長年気になっていた遅配物をようやく届けた郵便配達人のようにほっとしたが、
本当は、任務をおえても配達人はお届け先では飲んではいけなかったのかも知れない。
それとも、もしかしたら届けてはいけない郵便物だったかも知れない。

だが、彼が20数年間、気のおけない人達と過ごした会社を離れた異空間に、もう一度だけ
身を置かしてもらった。つい数日前、人間は死んだらどこへいく、知っている人たちの胸の中に
飛び込んで行くという文章を何かで読んだばかりだった。

あの中島がここにもまだ居るなあと店で感じ続け、二度とは入らないだろうあの店が、
あのおかみと常連客の皆さんと一緒に出来るだけ長く続いて欲しいと思いながら、
もう後ろは見ないでホテルに向かった。

#17 日本各地にあったごもっとも ’03/02/09

今年も節分の日は、例年のように「鬼は外、福は内、ごもっともごもっとも」と声を上げながら
家中の窓を一つずつ開けて豆を撒きました。
 
 節分の直前にふと思い立って、ヤフーで「ごもっともごもっとも、節分」を入力してサーチしてみました。
驚いた事には沢山の「ごもっとも」に触れたサイトが検索先に出てきました。

京都の吉田神社の氏子地区、宮城県、埼玉県秩父の三峰神社の行事(Tさんに教えて頂いた)
長野県の鬼無里などなどです。興味のある方は添付ファイルにその一部をコピーしましたのでご覧ください。

それらによると、どうもこの習慣は、元々は中国から入った貴族階級の行事が、日本古来の晦日
(節を分ける日)の五穀豊穣の祈りなどと結びついて京の都から各地に広がり、一般民衆の年中
行事の一つとして長く伝えられてきたもののようです。

諏訪湖の御神渡の記録を天和3年(1683)以降、続けている八剣神社を氏神さんとする
小和田地区に住んできたご先祖さんたちが何百年も続けてきたこの節分の行事を、もう父親の代にそこを離れて
しまったけれど、ルーツを忘れないためにも、うちの子供達も是非続けて欲しいと思って
います。

1)福豆頂き福引も 1年の厄払い開運願う節分  読売新聞サイトから


鬼の面をつけたスタッフから福引を引いて「節分」を楽しむ参加者
 一年の厄を払い、開運を願う節分。参加者は吉田神社(左京区)の福豆を一袋ずつ頂き、福引を引いた。

賞品は、タンスに入れると「きれいになって衣装が増える」とされる須賀神社(同区)の懸想文や、吉田神社の鬼面など。

 小島さん方は節分の日、出入り口で豆まきをしてから自分の年齢の数だけ豆を食べて、さらに同じ数の豆とさい銭を和紙にくるみ、
同神社などに納める。当主が豆まきする間、別の家族が後ろについて「ごもっとも、ごもっとも」と言いながらうちわで
あおぐ風習もあるとか。

2)http://allabout.co.jp/travel/travelshinshu/closeup/CU20020101B/index_00f.htm

立春の前の日を節分と云います。古くは、季節の変わり目、立春・立夏・立秋・立冬の前に行事が行われていたようですが、
立春の前だけ残ったのは、冬から春への変わり目が、大事な折り目だからでは無いでしょうか、

節分には、豆をまいて鬼を払う行事が行われます。神社やお寺では、有名人を招いたりして華やかに行われますが、
民間でも根強く残っています。「福は内・鬼は外」と三回ずつ唱えながら豆をまき、その後からすりこぎを持って
「ごもっとも・ごもっとも」と云って歩いた習慣が、つい最近まで残っていましたが


3) http://hb6.seikyou.ne.jp/home/mari-neko/2001.2.htm

節分・・・各地いろいろの風習があると思います。豆まきの掛け声にしても、「鬼は外福はうち」と、いうのは、一般的ですよね。
「鬼は内、福も内」と、言う掛け声も聞くといいます。宮城の一部の地域では、「鬼は外福は内」といいながら豆をまく人の後ろから、
「ごもっとも、ごもっとも」と、いいながら、うちわで扇ぎながら歩くところがあります。うちわで、鬼を、追い払うのでしょう。
まだまだ寒い(今日は、吹雪だっ!!)とはいえ、もうすぐ春がやってくる・・・そんな季節の分岐点です

4)http://www.city.chichibu.saitama.jp/saiji2.htm

豆まきの行事そのものは里の節分祭と同じだが、年男が三方にのせた福枡の豆を
「福は内、鬼は外」と唱えると、
後に控えた所役が大声で「ごもっともさま」と唱和しながら、大きな棒を突き出す。

この棒は、長さ3尺位の野球のバットのようなもので先に〆縄を巻き、
根元にミカン2個を麻縄でくくりつけた男根を象徴化したものである。

突き出すときに「ごもっともさま」と唱えることから、
このような呼び名がついたとおもわれる(午前11時・正午・午後2時・午後4時)。

5)http://www.vill.kinasa.nagano.jp/nenchu/

節分
 2月3日は節分、4日は立春で、暦の上では春がきたことになりますが、鬼無里はまだ深い雪の中です。冬ごもりしながら、
農家は麻糸作りに精を出す時期でもありました。
【年取り】節目の日であるが、仕事は休まず、早めに切り上げました。お神酒、頭つきの魚と白いご飯神棚(恵比寿棚)に供えます。
家内安全と健康を祈願しました。豆まきの前に夕飯を食べ年取りをします。
【豆まき】大豆をホウロクで炒って、豆まきをします。年男、若い男または家の主が、
一升マスに入れて家の中の各部屋を「鬼は外、福は内」と大きな声で繰り返しながら、まいて歩きます。
その後ろを、男の子などがスリコギを肩に担いでついて歩き、「ごもっとも、ごもっとも」と唱和することもあった。
この豆を自分の年の数だけ食べると災難を逃れるといって皆で食べます。

6)http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3137/sakana2.html

中国から伝来の話があります。

撒いたとさ  

#18 再び山菜の季節  ’03/02/16

昨日の夕飯に天婦羅の準備をしているなと思っていたら、最初に「タラの芽とふきのとう」が
揚がってきた。あれっ、そうかもう山菜のシーズンかと思って聞いたら、コープコーベの毎週の
配達品リストのシーズン商品の中に、今回初めて「山菜セット」があったので頼んでみたという。

もう一回来週分のリストにも出ていたので頼んであるというので嬉しくなった。
次に「こごみ」が揚がってきて、別に買ったという「山ウド」「新ゴボウ」が続いた。

自分が好きな「タラの芽」はこれもスーパーで別に買い増ししたからたっぷりあるよと
言われてますます嬉しくなった。

ここのところ、全国あちこちで山菜が栽培されるようになってから、昔の山から取られたものほど、
匂いはきつくないが、高価でなくなったので生協やスーパーで普通に手に入るようになった。

ついこの間まで、飲み屋で「山菜の天ぷら」を頼む時は覚悟してオーダーした記憶がある。

別の材料の時の天婦羅と違ってコロモが薄いような気がしたので聞くと、匂いや味をそのまま
出すためにメリケン粉と片栗粉を半々にしてお酒だけ使い、卵は使わないという。
 お酒のせいで水分が飛ぶからパリッと揚がっているでしょと自慢顔をされてしまった。

うまければこっちは文句はない。茨城県の藤代町にいたとき家族で7年間、
蕗の薹を毎年取りに行った話を、去年と同じようにしながら随分沢山食べてしまった。

最後は微塵切りにした蕗の薹を入れて焼いた「焼き味噌」をごはんの上にのせて、
香りを楽しみながら腹を仕上げました。

去年も全く同じ時期に同じものを食べていました。
そして内容もほぼ同じになってしまいました。

#19 九州若松二島 三題    ’03/2/26

昭和23年の秋頃から27年3月まで、今の北九州市若松区二島というところにいた。
1、二島の駅で汽車に乗ると二駅ほどで終点の若松に着く。汽車が駅に近づくにつれ、いつも気が重くなっていくのだった。

月に一度か2度母が若松の町に習字を習いに行くのに、字の下手な自分も一緒に習いに連れていかれていた。

気が重くなるのはそのことではなかった。
行くたびに毎回、若松駅の改札口の内側にきれいな着物姿のおばさんが立っていて、到着した汽車から降りてくる人に向かって

「ノブちゃん、ノブちゃん、帰ってきたか」と高い声で叫ぶのだった。
きれいに見えた着物も近づくと薄汚れていて髪の毛も殆ど梳かした様子がなかった。その人の手前でつい足が遅くなった僕に「早くおいで」と母から声が飛び、

慌ててその人の横を通り抜ける。その人を見るのがつらいのだった。
その人の子供がこの駅から出征して、まだ帰ってこないという事だった。戦争が終って5年経っていた。子供の遊び仲間が帰還してしばらくしてから、

こうして毎日始発から終列車まで駅にいるという。
そして、列車が到着するたびに大声で子供の名前を呼んでいるという。
その人は子供心にも端正な顔立ちの美しい人だった。駅を出てもしばらく子供を呼ぶ声が聞こえていた。気がふれてもう何年もこうしているが、

駅の方も改札口の中へ入れてあげているのは、空襲で焼けたけれど元は大店の奥さんだったからだと母が後で聞いてきた。


2、若松の商店街の真ん中を白い蒸気を吐きながら黒い機関車が静かに走る。 機関車の前に人間が乗って前を注視して、

大きな白い旗をゆっくり振って移動していく。機関車の後ろには石炭を満載した貨車が長くつながっている。

買物客は慣れたもので誰も気にする人はいない。お店の人も普通にお客とやっている。
こんなに身近に柵も無く、動いている機関車を見る事が出来る小学生の私。小走りに白い旗と一緒に走りたいが、

母の買物が済むともう帰る時間だった。
出来るだけ長く買物に時間がかかりますようにと念じながら息を詰めていつも見ていた。


若松港の石炭積出の場所まで商店街の中を貨物線のレールが走っていたのだろう。行きたくない若松も、

あの機関車に会えるかも知れないと思ってついていったものだ。

3、朝5時頃、家の外でゴウゴウと大きな地鳴りがしていると思っていたら、戦車たい、戦車たいという人の声がした。

大人の声もして県道の方へ走っていく沢山の下駄の音がやかましくなった。
あわてて半ずぼんを穿いてランニングのままで家を飛び出した。そして人が走っていく方向へ自分も一緒に走った。

朝もやの中に大きな大きな迷彩色に塗られた戦車が何輌も何輌も県道を一列になって、ゆっくり走っているのが見えてきた。

先頭も見えず最後尾も見えず帯のように見えた。
 「少年」や「少年倶楽部」の挿し絵でしか見たことがない戦車の、しかも米軍戦車の実物が数えきれない台数がゆっくり移動していたのだった。

もう道の両側は大人も子供も男も女も人で一杯だった。
赤ら顔の恐ろしげな米兵たちが重装備で戦車の上に乗っていた。眠そうな顔をしてぼんやりあちこち見廻していた。
その日、学校はこれを見ることが出来た町地区から通う人間は英雄だった。
それから10年くらいして兵庫県の芦屋にある高校に通っている時、アメリカ映画で「アシヤからの飛行」という映画の広告を新聞で見た。

芦屋に飛行場なんかないのになんやこれはと思ってその広告を読んだら福岡県の芦屋に朝鮮戦争当時、軍需物資の補給航空基地があって、

そこを舞台にした米兵と日本娘の悲恋物語と書いてあった。 そうか、あの戦車群はアメリカから輸送艦で海上輸送され、

若松港で陸揚げされて芦屋空港まで移動中だったんだと突然頭の中で一つにつながった。
当時、毎晩毎晩家の上を朝鮮(韓国)に向かってごうごうと大型輸送機が飛ばない日はなかった。

この芦屋空港や板付空港から飛んでいたのだ。
町は占領軍の基地とは離れていたので、日常的には米兵を見かけることはなく大人と違って朝鮮戦争は子供にとって身近ではなかった。

それでもジープで移動する連中が子供に面白半分に投げるチューインガムやチョコレートは皆のあこがれの品物だった。

 残念ながら口に入った記憶はない。



#20 新幹線で移動した白梅 ’03/03/02

早朝、外に出ると雨の中を梅の花のいい香りがただよってきました。
庭の隅をみると、梅ノ木が白い花を沢山つけているのが見えました。
匂いにつられて木の側まで行ってみると幹が結構太くなっているのに驚きました。

この梅は長女の通った小学校が卒業記念に卒業生全員に送った梅ノ木が大きくなったものです。
彼女が卒業した茨城県北相馬郡藤代町立六郷小学校は六つの郷(村落)から生徒が
通学している小学校で、うちの子は田んぼの中に新しく造成された八百戸ほどの戸建てで出来ている新興住宅地から通いました。
どの家にも庭がある農家中心の地域に茨城都民(新住民の99%の戸主は都内に通勤していた)が混入したことになります。
利根川の支流である小貝川の流域に広がる豊かな農村地区で、JR取手駅からバスで15分から20分くらいのところにありました。

ところが、この記念の梅ノ木は、彼女が中学へ行き出してすぐに私が大阪へ転勤になったため、
ボーナスのたびに少しづつ買い増した植栽類と共に残さざるを得なくなりました。

雑草だけしかなかった空地も七年住んで、なんとか庭らしくなってきたところで、家を売る事に
なったので家族全員なんとなく寂しい思いになり、梅ノ木だけは引越先の神戸の家に植え替え
しようという事になりました。先行して赴任することになった私が植木屋さんの助言で植え替えは
梅雨どきがいいと聞き、6月のある日曜日庭から掘り出し、根の養生をして手で下げ、常磐線と
新幹線で神戸に移動しました。

この移植した梅が無事活着し、80cmほどの大きさながら翌年から花をつけるようになり、それから
16年たった今は2m近くに成長し、震災も凌いで毎年花と香りで楽しませてくれます。


わずかに取れる梅の実は梅ジュースになります。

この梅の花が咲くと藤代町で過ごした7年間の生活を相方や子供たちは毎年懐かしく振返るようです。

咲いたとさ

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