阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

市川崑監督  生誕百年記念映画祭 大阪九条のシネ・ヌーヴオで上映中

2016年02月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

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1948年市川崑はデビュー作『花ひらく』以降、新東宝を皮切りに東宝、日活、大映と各社をまたにかけ、『ビルマの竪琴』『東京オリンピック』『犬神家の一族』などジャンルにしばられることなく常にエポックメーキングとなる話題作を世に送り出しました。そのいずれの作品においても徹底した美意識が貫かれ、大胆な実験精神とスタイリッシュな演出スタイルは多くの観客を魅了し、日本映画界に独自の地位を築きました。1997年に『黒い十人の女』がリバイバル上映されると、若い世代から絶賛され大ヒットを記録するなど、そのスタイルは時代を超えて愛されています。 現在活躍するクリエイターに与えた影響もはかり知れず、山田洋次をはじめ、三谷幸喜、庵野秀明、岩井俊二などの現在第一線で活躍するクリエイターで市川崑ファンを公言する人は少なくありません。 2015年開催された第65回ベルリン国際映画祭での特集上映にはじまり、香港国際映画祭、世界での巡回上映など海外で再評価されています。また日本においても、第28回東京国際映画祭で『炎上』4Kデジタル復刻版のジャパン・プレミアをはじめ、1970年大阪万博日本館で上映された8面マルチ映像作品『日本と日本人』や海外で発見され新聞でも大きく報じられた初期のアニメーション作品『弱虫珍選組』が上映されるなど、大きな話題を呼んでいます。 今回の映画祭では監督として更なる進化を遂げた大映時代の作品を中心に、市川崑を語る上では外せないと思われる作品を中心にラインナップしました。 「映像は所詮、光と影だと思います、光と影がドラマなのです。その光と影は、尽き果てることのない永遠のものだと思います。」光と影を駆使し、漆黒の闇の世界に儚くも美しい家族の愛を照射させ、まばゆい光の中に人間の孤独を描いた市川崑―デジタル復元を施した『おとうと』『雪之丞変化』『炎上』など日本映画史に燦然と輝く傑作の数々を是非ご堪能頂ければ幸いです。

人間模様

人間模様1949年/白黒/89年/スタンダード/新東宝
原作:丹波文雄 脚本:山下与志一、和田夏十
撮影:小原譲治 美術:河野鷹思
出演:上原謙、山口淑子、月丘千秋、青山五郎、江見渉、東山千栄子、斎藤達雄、伊藤雄之助

◆戦後の混乱した社会に生きる男女のもつれた「人間模様」に、市川流の乾いたタッチで挑む。後の市川組に欠かせない怪優伊藤雄之助が、薄幸のヒロイン山口淑子の元情夫役で初登場。ここでの「和田夏十」は監督と夫人との共同ペンネームである。

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暁の追跡

暁の追跡1950年/モノクロ/93分/スタンダード/新東宝
脚本:新藤兼人 撮影:横山実 美術:中古智
音楽:飯田信夫
出演:池部良、水島道太郎、伊藤雄之助、田崎潤、杉葉子、野上千鶴子、江見渉、三原純、菅井一郎、藤原釜足

◆若い警察官(池部良)と警官隊が麻薬密輸団を追いつめていく、ドキュメンタリー・スタイルの野心作。警視庁の後援を得て、新橋にあった本物の交番に俳優達を立たせて撮影を敢行した。1950年の東京の街を映した記録としても高い価値を持つ。脚本は新藤兼人。

夜來香(いえらいしゃん)

夜來香(いえらいしゃん)1951年/モノクロ/86分/スタンダード/新東宝
脚本:松浦健朗、市川崑 撮影:横山実
美術:加藤雅俊 音楽:服部良一、小川寛典
出演:上原謙、久慈あさみ、利根はる恵、川喜多小六、河村黎吉、月丘千秋、菅井一郎

◆かつて中国戦線で知り合った元軍医(上原謙)と慰安婦(久慈あさみ)が、敗戦後の内地でめぐり合う。山口淑子のヒット曲にのせて敗戦後の暗さを巧みににじませたメロドラマで、宝塚歌劇団の男役スターから抜粋された久慈あさみの第1回主演作品である。⇒その他上演作品それぞれの内容紹介

シネ・ヌーヴォこちら

 

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川西市黒川で一庫炭(菊炭)生産始まる 神戸新聞動画報道から

2016年02月12日 | SNS・既存メディアからの引用記事
茶席用の高級炭一庫(ひとくら)炭は断面が菊の花に似ていることから菊炭とも呼ばれる。室町以来の伝統があるが現在川西市内の生産者は今西勝さん一家のみ。
この日、今シーズン初の窯出しがあり、続いて原料のクヌギを窯に入れる作業が行われた。6月まで生産が続く。

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東京都横網町公園の慰霊堂と復興記念館に行きました。              

2016年02月12日 | 東京あちこち

1月某日、JR両国駅で降りて、江戸東京博物館の特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」を観た後、森哲雄さんに教えてもらってすぐ近くの関東大震災と

米軍による東京都民焼夷弾絨毯爆撃の死者を悼む「慰霊堂」と復興記念館を拝観しました。

私はその存在を知らなかったのですが 森さん同行して頂きありがとうございました。



















両国駅ホームから国技館と江戸東京博物館を望む











出典: フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』
○ 3月10日の空襲は、市街地そのものを攻撃対象とした低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。
1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、
その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。
○ 投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。日本が中国戦線で数年に渡って繰り広げてきた
重慶爆撃の全投下量は1万8000トンであり、その10%に相当する量を一夜にして投下したのであるから、この空襲の規模の大きさを窺い知ることが出来る。
当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。
警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の0時15分)。
○「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった
(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所もある)
強風が火勢を煽り、延焼を広げた。 調布・入間・成増・所沢・厚木・柏・松戸等、東京近郊の飛行場に配備されていた陸海軍戦闘機隊の発進を妨げたため、
ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った) これら複数の要因が重なり被害が拡大。
8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。
○このとき使用された焼夷弾は日本家屋を標的にしたものであり、当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。
通常、航空爆弾は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。
そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。
○火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が大きく、炎が竜巻や滝のように流れてきて焼死する人や
、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も少なくなかった。
3月10日は日露戦争の奉天戦の日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力をそぐ為、あえてこの記念日が選ばれたと言われている。
なお、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。
3日後の3月13-14日に大阪大空襲が行われた。
(注:神戸の最初の大空襲は3月17日)

米軍指揮官の論理(別サイトから転載)

○本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、
隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」
○ カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。
昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っている
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。

○この勲章の授与に陰で貢献したのは航空自衛隊の源田実だと言われているが真偽のほどは不明だ。
⇒カーチス・ルメイへ勲章を推薦したのは、旧帝国海軍大佐で、真珠湾奇襲作戦を立案し、戦後は航空自衛隊の初代航空総隊司令や、
航空幕僚長を務めた事のある自民党の参議院議員「源田実」氏でした。
また「源田実」氏は自民党内の国防族のリーダーであり、当時の防衛庁長官「小泉純也」氏も、源田氏に同調してカーチス・ルメイへの勲章の授与に協力したと言われています。
「源田実」氏がカーチス・ルメイへ勲章の授与を推薦したのは、航空自衛隊の育成に多大な貢献をしてくれた事がその理由となっています。
しかし、実はその2年前に「源田実」氏は、アメリカから「勲功章」を授与されており、その返礼にカーチス・ルメイを推薦したとも言われています。
また、真珠湾奇襲作戦の立案者である「源田実」氏に、アメリカが勲章を授与したのは、アメリカは真珠湾攻撃について、
もはや過ぎ去った過去として終わりにするという意思表示であり、
日本がカーチス・ルメイに勲章を授与したのも東京大空襲について、終わりにするという意思表示であり、お互いにこの問題について決着をつけた
という事を示す為の授与だったとも言われています。

⇒Wikipediaから部分引用。
(昭和37年)8月17日発行の防衛庁訓令第51条「自衛官の階級章の略章に関する訓令」により
統合幕僚会議議長と陸海空各幕僚長は4つ星(又は金帯に線3本)の大将相当の階級章を付けるようになった。
源田実は同年、航空自衛隊の創設、日米安保への貢献で、ジョン・F・ケネディアメリカ大統領よりレジオン・オブ・メリット勲章(勲功章)を授与される。

叙勲は行政分野であり唯一の外部機関有識者会議にも源田は入っていない[274]。叙勲はルメイ来日を契機とした防衛庁の判断に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている[275]。

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