「おっかあは、気のよかお前のことを考えると、頭が痛か。男ちいうもんは、人に嫌わるるぐらいのきつか性格でなかと成功はせんもんだよ。今のようにあんまり心がきれいすぎると、いざちいうとき、ずるずるとひきずりこまれてしもうでな、なんとのう心もとなか」
光夫の父は、出漁中の海で遭難し、2年前に死んでいた。
父に代わって一家を支える気概でよく働く光夫は、シマの人たちから愛されていた。
これは表題作ではありません。本書に収録の21編のうちの一つです。
そんなある日、飢饉がつづいた島に南の島から豚泥棒が侵入してくる。
母も島を留守にしており、光夫は島を守るため、侵入者である屈強な男たちと一人で戦うことになる。
舞台は一転して、夜の島の浜辺。
侵入者たちとの凄惨な戦いが繰り広げられるが、ドジな光夫はしたむったにやられる。
運もを悪かったりする。物語は、はらはらする展開がつづく。
片手をつぶされながらも、光夫の反撃は成功しそうになるがやはり最後は侵入者たちに捕らえられ、手足を縛られ、鮫の棲む真夜中の海に放り込まれることに。
絶体絶命。縛られた光夫を乗せた刳船は、暗闇の海へ向かう。そこは光夫の死に場だ。
光夫は心のなかで叫ぶ。おれはやるぞ、奴らに叩きこまれない前にやるぞ。
この声は不思議だ。途中からは、だれかがどこからかささやいているように聞こえる。
お人よしで真面目ですぎ、ドジなところがある光夫を励ますようだ。
しかし、かなしいかな、成功しても、もう相手と共に死ぬしかない、最後の賭けの場面だ。光夫は刳り舟に密かに持ち込んだガソリンに火をつけ、相手もろとも死ぬつもりだ。それしかないのだ。真っ暗な海の上での自爆。この場面の描写は独特なリズムをもって聞こえてくる。テンポよく読みすすめるところだが、なんども繰り返し読んでしまう。
さあ、やるべきことを反復してみろ、冷静に何一つぬかさないように反復してみるんだ。まず甕口をかたむける。それから、待て待て、お前はなにを使って甕口をかたむけようというのか。お前は手を使うつもりか。馬鹿な。お前は片手の片輪だってことを忘れたんじやなかろうな。その片手を使ったら、いったいマッチはどの手で擦るんだい?この間抜けけ野郎、お前はガソリンだけ流して、それでおしまいにしようってのかい? おいおい、しっかりするんだよ、光夫……。
略
分かったな、光夫。
さあ、つぎはマッチのおさらいだ。ガソリンを流したら、つぎはマッチの操作だが、片手がつぶれているんだから、大変だよなあ。お前はどんな方法でマッチを擦るつもりだ?言ってみろ。
大変だよなあ、と、ひとごとのように、突き放します。ここは気に入ったところです。実にいい。ここに奄美の400年?のきょう現在の現実を読むことも自由です。でも、それでは矮小化が過ぎるというものでしょうか。
略
(そうそう、その調子でゆっくりつづけろ)
緻密な描写がスロービデオのように続きます。ここまでくると、光夫のこころの中の叫びなのか分からなくなります。ユーモラスにすら聞こえるからすごい。
「ぐずぐずするんじゃない」光夫はこわい顔で自分自身を叱りつける。「マッチだ、マッチだ、マッチだ」
真っ暗の沖の海原での命賭けの戦いに光夫ははたして勝利するのか?しかし光夫は、さらにとてつもなく大きな相手との戦いに、「息絶える最後の瞬間まで闘うぞ」とさけぶ。
そのあと光夫の運命はどうなったのでしょうか。それは、この短編の最初の部分に説明的に書かれています。
藩政時代、反逆の指導者があらわれることを恐れた搾取者から、文字を持つことを禁じられた島のひとびとが、光夫の運命?を民謡の旋律にのせて今に伝えている。そこには、勇躍した力づよいリズムで原始本能を揺り動かすような魂と魂のエコーのような韻律があった。引用した光夫の叫び(作者の肉声にも聞こえる)は、できれば方言に直してその韻律を感じ取りたい。
この島が南島のどの島かは書かれていない。それを詮索するのは無意味だろう。
よその島から豚泥棒がくるほどの飢饉が起こるのは薩摩藩の圧政、悪政のせいなのは明らかなのだが、そんなことが書いてあるわけではもちろんない。薩摩や奄美という言葉はこの小説のどこにも出てこない。
光夫にとって「外部」からの圧倒的な暴力は、むしろとなりの南の島からやって来ている。より貧しい隣人である。(暴力の連環)
むずかしいことは書けない。この小説はずごいとしか言えない。今までこの小説を読んでこなかった自分の読書体験はいったい何だったのか。あまり読まれていなかったのはナゼか?それ自体を論じることも無意味ではないだろう。
北海道生まれのこの本の編者は解説で次のように述べている。
日本の「内部」にして「外部」。南島の位置づけをそうした矛盾や撞着のままに任せることによって、「日本」や「日本文学」といったものを内部から解体してゆく契機がつかめると思われるのだ。それは時間的、空間的な「外部」としての「過去」や「辺境」という概念ではありえない。過去を現在に、辺境を中心に無理やりに侵入させてしまうことが、すなわち論理的な観念や概念を、混乱させ、混沌化させることが、「南島」「南島文学」の意味なのであってそれは、しばしば安達征一郎の作品のなかでは(略)
新鮮な視点である。収録の他の20篇も、やはりすごい。
解説には、このほか盛りだくさんの論点があって、言語芸術と映像芸術との対比、比較についての考察も興味深かった。
安達征一郎の初期作品が、1968年の今村昌平監督による映画『神々の深き欲望』(日活)の原案になったという件については検索してみてください。google神々の深き欲望 安達征一郎
光夫が登場するこの作品は、1974年(昭和49年)作者安達征一郎48歳のとき発表された。
安達征一郎 1926年(大正15年)東京生まれ
6歳のとき両親の出身地奄美大島に帰郷し、少年時代を喜界島で過ごした。
「怨の儀式」で弟70回直木賞候補
「日出づる海 日沈む海」で弟80回直木賞候補
安達征一郎氏は現在83歳、今年2009年10月24日には、県立奄美図書館で南島文学をテーマに講演を行なった。(聴きに行けませんでした)
この本には、10月10日に同氏から県立奄美図書館へ寄贈されたと書かれています。
本のしおりひも(スピン)も、はみ出していない、真新しい本。県立奄美図書館の郷土コーナーにつづく廊下の一角にあった安達征一郎コーナーで見つけて借りました。
第69回(1973年上半期) - 長部日出雄『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』、藤沢周平『暗殺の年輪』
第70回(1973年下半期) - 該当作品なし
第71回(1974年上半期) - 藤本義一『鬼の詩』
===弟70回
昭和48年/1973年下半期
(昭和49年/1974年1月16日決定発表
受賞作なし
候補
戸部新十郎 『安見隠岐の罪状』 昭和48年/1973年6月・毎日新聞社刊
皆川博子 「トマト・ゲーム」 『小説現代』昭和48年/1973年7月号
康 伸吉 「闇の重さ」 『オール讀物』昭和48年/1973年11月号
滝口康彦 「日向延岡のぼり猿」 『小説宝石』昭和48年/1973年7月号
植草圭之助 『冬の花 悠子』 昭和48年/1973年11月・文藝春秋刊
安達征一郎 「怨の儀式」 『文学者』昭和48年/1973年8月号
有明夏夫 「サムライの末裔」 『別冊文藝春秋』124号[昭和48年/1973年6月]
古川 薫 「女体蔵志」 『午後』20号[昭和48年/1973年7月]
【選考委員】
石坂 洋次郎
川口 松太郎(欠席/書面回答)
源氏 鶏太
今 日出海
司馬 遼太郎
柴田 錬三郎
松本 清張
水上 勉
村上 元三
===第80回
昭和53年/1978年下半期
(昭和54年/1979年1月19日決定発表
受賞 宮尾登美子 『一絃の琴』 昭和53年/1978年10月・講談社刊
受賞 有明夏夫 『大浪花諸人往来』 昭和53年/1978年10月・角川書店刊
候補
阿刀田 高 『冷蔵庫より愛をこめて』 昭和53年/1978年6月・講談社刊
古川 薫 「野山獄相聞抄」 『別冊文藝春秋』144号[昭和53年/1978年6月]
安達征一郎 『日出づる海 日沈む海』 昭和53年/1978年9月・光風社書店刊
小林信彦 「みずすましの街」 『オール讀物』昭和53年/1978年11月号
虫明亜呂無 「シャガールの馬」その他 昭和53年/1978年10月・講談社刊『シャガールの馬』より
小関智弘 「地の息」 『別冊文藝春秋』144号[昭和53年/1978年6月]
【選考委員】
五木 寛之
川口 松太郎(欠席/書面回答)
源氏 鶏太
今 日出海
司馬 遼太郎(欠席)
城山 三郎
新田 次郎
松本 清張
水上 勉
村上 元三