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幕末薩摩藩士・伊地知正治の西洋事情誌ともいうべき意見書についてのメモ

2015年08月21日 | 歴史 民俗

八月十八日の政変(文久3年8月18日(1863年9月30日)、七卿落ちで長州藩の勢力をは京都から追放され、幕末維新史は大きく転換した。

しかしそれで京都の政情が落ち着いたわけでない。

孝明天皇や、尊攘派と対立する中川宮や近衛忠煕(ただひろ妻は島津斉興の養女)・忠房(妻は斉彬の養女)父子から再三の上京要請を受けた久光は三度目の上京を果たす。(文久3年(1863年)であった。(9月12日(13)汽船で鹿児島発、10月3日京都着)

このとき久光はまず伊地知正春に命じ、欧米の事情についての意見書を書かせ、それを近衛忠煕にまで提出した。それが孝明天皇の目にとどき、天皇が対外感情を改められるのを期待してのことだった。

西洋史の沿革や各国の兵力についての叙述は今日からみると誤りもあるが、肝心なことはよく語られている。それは薩英戦争の体験に裏打ちされたもので攘夷の無謀を説くものだが
現実を直視する精神の強靭さを欠いた天皇や一般公家の無知識からくる観念論を打ち破ることはできなかった。

この伊地知正治の西洋事情誌というべき意見書は、ネットではなかなか検索できない。

海音寺潮五郎『西郷隆盛」第六巻P121からP127に、詳しく訳載されている。

薩藩士らによる西郷召還運動は、このあと起こり、やがて西郷は沖永良部島から帰還、風雲の真っ只中の人となる。

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このとき薩英講和の談判にあたり、目を見張るべき外交手腕を発揮した重野 安繹(しげの やすつぐ)は
西郷と同じ時期、奄美大島(南部阿木名村)に遠島になっていて龍郷の西郷を訪ねたりしている。

重野 安繹(しげの やすつぐ、1827年11月24日(文政10年10月6日) - 1910年(明治43年)12月6日)は江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士。


<ここに久光の中央乗り出しと一度目と二度目の上京について書く>

一度目 文久2年(1862年)亡兄・斉彬の遺志を継ぎ公武合体運動推進のための中央乗り出しはものとされた。

奄美大島から召還されたばかりの西郷は、「下関で待て」の久光の命に背き志士らを煽動したとして、村田新八森山新蔵とももに捕縛、鹿児島へ向けて船で護送され、その後西郷は徳之島、沖永良部へ遠島になる。

久光による薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件(寺田屋事件)があり、生麦事件がおこる。


2度目 朝幕の要請で、文久3年(1863年)2回目の上京をするが、尊攘急進派の専横を抑えられず、生麦事件のことも気がかりで5日間の滞京で帰藩する。


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