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沖縄県の北端、硫黄鳥島(いおうとりしま)は、鹿児島県・沖永良部島より北にある。『沖縄県の歴史』 3

2009年10月04日 | 本と雑誌

この記事は前の記事からのつづきです。

沖縄県の東端は、北大東島(きただいとうじま)
西端は与那国島(よなぐにじま)東西約1000キロ

南端は、波照間島(はてるまじま)
北端は、硫黄鳥島(いおうとりしま)
南北400キロ

このひろがりは、本州の3分の2をつつむほどだ。沖縄 地図

0910041

さて、沖縄県の北端は、硫黄鳥島(いおうとりしま) どこにあるのだろうか。

沖縄県の北端、硫黄鳥島(いおうとりしま)は、

091004okinawamap3 徳之島から西に65km
沖永良部島から北東60km

行政区画は沖縄県島尻郡久米島町。無人島である。

沖縄県内で唯一、奄美諸島に属している島という少数見解もある。wiki

歴史 wikipedxia 硫黄鳥島
琉球王国の時代には硫黄の採掘が行われ、中国への進貢貿易に用いていた(琉球王国では唯一の硫黄産地だった)。奄美群島が薩摩藩に併合された際、朝貢に支障をきたす恐れがあるため、そのまま琉球王国領として存続した。硫黄採掘は戦後になっても行われており、現在でもその採掘跡を認めることができる。1959年に噴火のおそれがあるとして、全島民が久米島へ移住。1967年にも噴火し、硫黄採掘の従事者も撤退。以降、完全な無人島となっている。

硫黄鳥島(いおうとりしま)は琉球国の版図のなかでも特異な島であった。

琉球国から中国(明 清 王朝)への朝貢品のひとつの硫黄を産出する唯一の島であった。
琉球の歴史にとって大きな意味をもつことになる明との朝貢関係は、琉球王国成立(1429年)前の洪武五年(1372年)中山王、武寧の父・察度(さっと)が初めて朝貢したのが始まりとされる。それから間もない1376年、察度(さっと)が硫黄4000斤を朝貢したのを皮切りに以後、琉球王国消滅の19世紀半ばごろまで約500年間硫黄の朝貢はつづいた。(参考 沖縄県の歴史 P160)コラム

薩摩藩は、1609年に琉球王国を服属させ、1611年には奄美諸島を直轄領とした。

ーーーーーーーー 混乱するな ↓

091004okinawamap2 同じ久米島町内には、「鳥島射爆撃場」が設置されている鳥島(久米鳥島)が存在しているが、別の島である。

写真でみる→ Tori Shima Range, Kume-jima, Okinawa (久米島沖の軍艦島・久米鳥島・鳥島射爆場)

鳥島(沖縄県) wiki

久米島町にある「鳥島」の集落は硫黄鳥島から移住した人々でつくった集落である。

091004okinawamap4 ← 混同してはならない、鹿児島県の硫黄島。wikipedia

硫黄島(いおうじま)は、薩南諸島北部に位置する島。薩摩硫黄島(さつまいおうじま)とも呼ばれる。日本史において鬼界ヶ島を名乗っていたと考えられている島の一つ。

ついでに、東京都の硫黄島について調べる wikipedia


沖縄県は広い 『沖縄県の歴史』 その2

2009年10月04日 | 本と雑誌

091004bookokinawa

参考サイト 沖縄県の歴史 google

この記事は、

2009年10月 3日 (土曜日)
『沖縄県の歴史』 (県史) (単行本)
  のつづきです。

琉球王国の時間的把握

琉球玉国は、宣徳四(1429)年から、
明治十二(1879)年の琉球処分=沖縄県設置によって
日本の一部に編入されるまでの450年間つづいた。

その間、沖縄は「琉球玉国」体制下にあり、あきらかに日本の一部ではなかった。

とするのが通説。

琉球と沖縄の名称

「琉球」の表記は、『隋書』(7世紀)の「流求」が初出で、その後さまざまな表記を経て「琉球」に落ち着いたのは明時代以降である。

明との交易が始まる14世紀以降、琉球側が自国の国号として「琉球」を用いた。

「沖縄県」という呼称は、琉球処分(明治12)の際に明治政府から与えられたものであり、「琉球県」とすることは用心深くさけられた。

「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は、こちらをごらんください。

沖縄県の地理的把握 沖縄地図

沖縄県の東端は、北大東島(きただいとうじま)
西端は与那国島(よなぐにじま)東西約1000キロ

南端は、波照間島(はてるまじま)
北端は、硫黄鳥島(いおうとりしま)
南北400キロ

このひろがりは、本州の3分の2をつつむほどだ。

さて、北端は、硫黄鳥島(いおうとりしま)どこにあるのか。

鹿児島県の最南端与論島より北にある。それはなぜか?

つづく。


『沖縄県の歴史』 (県史) (単行本)

2009年10月03日 | 本と雑誌

091003bookokinawa1 『沖縄県の歴史』 (県史) (単行本)
安里 進 (著), 田名 真之 (著), 豊見山 和行 (著), 真栄平 房昭 (著), 西里 喜行 (著), 高良 倉吉 (著)  amazon

===

教科書や受験参考書、歴史全集など、「歴史の山川」ともいわれる山川出版社の、新版 県史シリーズ47

奄美の歴史について、『鹿児島県の歴史』を読んだなら、『沖縄県の歴史』も読まねば。

このブログ 2009年9月18日 (金曜日)
『鹿児島県の歴史』 (県史) (単行本)  新・旧版を読んだ

2009年9月20日 (日曜日)
琉球王国の成立 薩摩藩の成立 を学ぶ

先史時代から戦後現代まで教科書風な記述なので、気楽には読めないが、「静かに」読めるのがよい。

091003bookokinawa2 ←表紙写真拡大 朱漆巴紋牡丹七宝繋沈金御籠飯 (しゅ うるし ともえ もん ぼたん しっぽう つなぎ ちんきん う く ふあん)

台盆付きの朱塗りの円形食籠(じきろう)= 食べ物を盛る容器。
八角形もある。

琉球王国時代の代表的な漆工芸品のひとつ。台にのせた高さは55センチ

七宝繋文(しっぽうつなぎもん)の地文に牡丹と尚王家(しょうおうけ)の紋章の巴紋が沈金で彫られている。

091003bookokinawa3 2004年発行の新版は、旧版(1972年5/15 復帰の日刊行)と比べ、研究がめざましく進展していて、興味深く、読みやすくて目からうろこ。

奄美のことは、鹿児島県なので当然、、『鹿児島県の歴史』のほうが詳しく書いてあるのだが、しかしこの本を読むと、奄美に関する記述が少ないというその点において、奄美を考える上で今まで見落とし勝ちだった視点が浮き彫りに。

琉球、沖縄、はまりそうです。沖縄にはまったひとは奄美にも・・・。

この、お二人も”沖縄”では、仲良くしている

===

「日清開戦と沖縄社会の緊張」p 256 まできました、もう少しで読了です。

また、書きます。


サルスベリ 葉 色づく

2009年10月02日 | 写真

091002sarusuberi2

サルスベリの名は、

猿がよじ登ろうとしてもすべってしまうほど幹がつるつるしている特徴を言っているのですが、

百日紅=ヒャクジツコウともよばれ、夏のあいだに咲く、濃淡さまざまな紅色や白い花がひじょうに美しいのも特徴です。

そして、この赤碕公園に上る坂道沿いのサルスベリは、夏も終わりに近づく今ごろ、

091002sarusuberi1

じつに、この、いい感じに色づきます。

091002sarusuberi3

毎年おおくりしていますが、さまざまな色合いが・・。

091002sarusuberi4

 

091002sarusuberi5

091002spider

↑ きょう午前中の空模様

写真まんなかにクモspider


『苦い砂糖』―丸田南里と奄美自由解放運動 (単行本) 原井 一郎 (著)

2009年10月01日 | 本と雑誌

091001book

『苦い砂糖』―丸田南里と奄美自由解放運動 (単行本)
原井 一郎 (著)  google

この本は、数年前に読んだのですが。
今日は、まえがきとあとがきを読みました。

嘉永4年(1851)名瀬生まれの、丸田南里(まるた なんり)は、
14歳の時(慶応初年1865年)に、
白糖製造機械設置のため名瀬に来ていた英国の商人グラバーに誘われて英国に渡った。

トーマス・ブレーク・グラバー google

明治8年(1875)10年ぶりの帰郷。

商人の自由の国イギリスや植民地上海の様子などを肌で体験してきた南里が久しぶりに見た故郷奄美の現状は・・・。

南里とって我慢がならなかったのは、県庁の保護になる「大島商社」による砂糖独占販売であった。

明治になっても、封建鎖国の藩政時代と変わらない、いや、それよりも悲惨な島民の窮状に南里は奮い立った。

大島商社独占の不法を唱える南里の呼びかけに、井の中の蛙だった当時の有識者たちは目を見開き、その日暮らしの島民たちもついに黒糖自由販売運動に起ち上がる(全島沸騰)

決死の覚悟で県庁に訴えるべく海を渡った陳情団は、捕らえられ、おりからの西南戦争に従軍させられ、またしても日本の歴史に翻弄されるのだが・・・。

この本は、その奄美自由解放運動の様子がわかりやすい表現で書かれている。

091001book4 この本が書かれた2004年(平成16年)、
鹿児島県の知事は、須賀 龍郎から現在の伊藤 祐一郎に代わった。
そのとき、県は豪華な県庁舎に莫大な借金と多すぎる職員をかかえている。

わが鹿児島が、貧乏なのは今に始まったことではない。
今も昔も貧乏だ。日本有数の貧乏県。

それなのに、昔、殿様は見栄をはらざるをえなかったのか、贅沢をし、
また幕府にいじめられたりして借金が膨らみ、庶民は苦しめられた。

藩の借金地獄を救ったのは奄美の砂糖だった。
奄美の砂糖収奪は、薩摩藩財政の「御改革第一の根本」(1830)調所 広郷(ずしょ ひろさと)と位置づけられたのである。

薩摩藩では、農民は、一揆もできないほど、押さえつけられ、お上には頭があがらない。

母間騒動 1816年(徳之島)

加世田一揆 1856年(鹿児島)未遂?

犬田布騒動1864年(農民一揆)徳之島

奄美の農民は、そのために大変な苦労をした。
(島民の中には、薩摩の貧乏武士が足元にも及ばぬほどの蓄財をした人たちがいたのだが)

「苦い砂糖」という文学的なタイトルで著者が言いたかったのは、
島の先人たちの体験が現代のわたしたちとは無縁の遠い昔の話ではない、ということだろう。

著者は、「あとがき」で、

明日を模索すればするほど、現実の歪みに気づけば気づくほど、私たちは過去に目を向けざるを得ないだろう。

という、ベルグソンのことばを引用している。

アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859年10月18日 - 1941年1月4日)フランスの哲学者。
現実の直観的把握を目指す 「生の哲学」「反主知主義」
『時間と自由』 岩波文庫
『物質と記憶』 ちくま学芸文庫
『笑い』林達夫訳 岩波文庫、

最近の新聞記事にもあった、公共工事にからむ、本土の建設会社による奄美地元会社いじめ。それを長年の間、発注者の県が見て見ぬふり、の実態や、その他身近なうわさで聞く、奄美経済の実情など、まさに、この時代となんら変わっていないのではないか、と思われるほどである。

あとがきはつづく

奄美の歴史書に目を通して、まず心に突き刺さるのは「徳之島で餓死者三千人」といった
記事があまりに簡略に提示されていることだ。悲劇はそれだけにとどまらない。繰り返し繰
り返し、執拗に島々を襲ったおぞましい災厄が淡々と感情なく綴られている。
 おびただしい死者の群れをなぜもっと告発する、怒りや悲しみが表現されないのか。

だが事件や人物伝を描いてもその時代時代や主人公の生涯に限定され、たとえば丸田南里
が躍り出た明治初期とその遠因になった幕末の島の状況、あるいは南里以降の島民のレジス
タンスやサトウキビ作との関わりを一体的に把握するのは困難極まりない。 
加えて専門書の表現はどうしてこうも、と思うほど難解で回りくどく読むのに骨が折れる。

本書は読みやすくわかりやすい表現で、「南里のその後」や現代とのかかわりなども描いている。

奄美の歴史書に登場する人物たちは、結局は島を離れ、島に帰らない場合が多い。(現在でも、成功したひとの多くはそうだが)
「奄美の歴史」って何?と改めて考えさせられた。

著者は奄美在住のジャーナリストである。


『お役所バッシングはやめられない』 (PHP新書)

2009年10月01日 | 本と雑誌

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『苦い砂糖』は次の記事に書きます。(写真拡大)

『 お役所バッシングはやめられない』 (PHP新書) (新書)
山本 直治 (著)  google

もう、しばらく新書は読むまい、と思っていたのに、また買ってしまった。

内容 amazon (「BOOK」データベースより)

お役所バッシングとは、一種の依存性薬物である。政治家や公務員を激しく叩いているうちに「正義の自分」に高揚感・陶酔感を持ってしまうのだ。しかし(以下略)

発売日: 2009/8/18

091001book3 一日で読める内容である。

著者は国家公務員を退職後、現在公務員問題などを中心に多方面で執筆活動を展開中。
日本初の公務員向け転職支援情報サイト「公務員からの転職支援 役人廃業.com」主宰。

地方に行けばいくほどひろがる官民格差。
名瀬は、単純な田舎ではないが、歴史的背景や
現在の奄美市の危機的な財政状況などを考えると、
本書で述べられていることは、格別の意義を感じる。

また、外海離島ということで特別の公共投資も長年にわたって行われている。身につまされる人もいるのではないだろうか。

公務員の実際の仕事内容などがかいま見え、興味深いが、
著者にしても、友達や人から聞いた話で展開しなければならないところが、
この問題の難しいところだろう。おおむね公務員擁護に聞こえるが、ま、正しい、お役所のたたき方、というところだろうか。この問題はもっと深いテーマがあるように思った。
是非、奄美にも取材にお越し願いたい。

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苦い砂糖―丸田南里と奄美自由解放運動 (単行本)
原井 一郎 (著)

====に つづく