奄美 海風blog

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冬の海 奄美・安木屋場 オオシマノジギク

2009年11月20日 | 海の風景

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潮風に耐え、可憐。

たぶん、オオシマノジギク

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↑ 海を向いて咲いている。

きょら海ビーチに磯の香りはなく、菊のかほり。

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↑ 撮影用に花の向きを手で調整。

緑のジュータンはグンバイヒルガオ

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龍郷町 安木屋場(たつごうちょう あんきゃば)

の海岸。クリーミーな泡立ち。

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おまけ画像 フヨウ ハイビスカスの仲間


『海から来た植物』―黒潮が運んだ花たち (単行本) 中西 弘樹 (著)

2009年11月19日 | 本と雑誌

091119bookumi 『海から来た植物』―黒潮が運んだ花たち (単行本)
中西 弘樹 (著)
 google

2008年6月25日初版弟一刷発行

===

奄美へ旅するもの、

人のほかに、渡り鳥やチョウ、回遊魚など。

そして忘れてはならないのは、植物。

海岸には漂着物に混じって、さまざまな植物たちが名も知らない遠くの場所からやってくる。

海岸は、高等植物の生存には厳しい環境である。塩分、強い日差し、風によって吹き付ける砂。

こうした環境で分布域をひろげる海流散布植物には、内陸の植物にはない特徴的な構造をもち、植生や生態にも環境に適応した興味深い特徴が見られる。

黒潮の流れにのって北上する海流散布植物ハマユウ(ハマオモト)を追って、
植物生態学者にして漂着物学の第一人者である著者は各地を旅し、そして万葉集、源氏物語、枕草子などの文献にあたって時間の旅をする。

ハマユウは平安時代から鎌倉時代まで、多くの文献に登場し、あれほどよく知られたにも関わらず、江戸時代になると園芸家によって呼び名がいつの間にかハマオモトに変えられてしまったと共に、その存在が忘れられていった。p 171

それはナゼか?

日本人として、いやヒトとして、自然との関わりが薄れつつある現代人の生活観にも一石を投ずる。

ほかに、ハマボウ 日本のハイビスカスふよう、グンバイヒルガオなど。

===

内容(「BOOK」データベースより)
海辺に咲く花の名前を知っていますか?万葉集に詠われて以来、源氏物語、枕草子にも登場する、日本人に最も親しみ深い海流散布植物ハマユウ(ハマオモト)を主な題材に、黒潮が運んだ海岸植物に秘められたふしぎの数々を、植物生態学者にして漂着物学の第一人者である著者が丹念に読み解く。


九州場所五日目

2009年11月19日 | 大相撲

大相撲九州場所五日目 goo大相撲

東十7 旭南海2勝3敗●押し出し○土佐ノ海4勝1敗  東十11
東幕9 里山 0勝3敗  ●  寄り切り ○  1勝2敗  北園 西幕12

里山 過去3年の 九州(11月)場所の成績

2006●①②●③ ④⑤⑥⑦● ●⑧●■休 8勝6敗西十5枚目
2007●①●●● ●②③④⑤ ●●●⑥● 6勝9敗東十9枚目
2008○-■-や  ややや-● ○ --●- 2勝3敗2休 西幕下9

里山 今年の成績

2009
1月 -●-○○ --●-○  ●-○-- 4勝3敗 東幕25
3月 ○--●○ -○-○- -○●-- 5勝2敗 西幕下18
5月-●-○● --○-● -○○-- 4勝3敗 東幕下11
7月●-●-● -○-●- ●---○ 2勝5敗 東幕下9
9月○-●-○ -○--○ -○○-- 6勝1敗 東幕下22

今場所●-●-● 東幕9

場所前、不況のせいか、チケットの売れ行きが不振、のニュースも流れた九州場所ですが、
なんとか九州場所で勝ち越したい里山。

In Sumo,

幕下の厚い壁を抜けるとその上に十両があり、力士はここで、いわば一人前になり関取とよばれるようになる。待遇面で格段の差がある、大きな壁だ。
さらにその上に最上位の幕の内があるわけですが、
ここのところ、土俵上の里山の紹介には、「幕の内経験者の」ということが枕詞のように付くようになっています、幕下の放送席です。早い関取復帰が望まれている里山です。

さて、

長いトンネルから抜け出したい幕の内の経験のある、里山と

一方の北園(きたぞの)は、長崎市出身。里山よりひとつ年下の昭和58年生。
最高位 幕下 9 東洋大卒、初土俵は、日大卒の里山に後れること2年、平成18年3月。
平成20年7月、西幕下16の0勝7敗以外は、ほぼ順調に勝ち進んで、そろそろ新十両が見えるところ。

今場所の両者、ここまで2連敗。
たがいに、ご当所の九州場所、流れを変えるためどうしても勝ち星が欲しい三番相撲。

時間です。

立ち合い、「里山、もぐりこんで右差し」
「左はすでに、まわしを取っています」
「もぐりこむ里山、半身のようなかっこうです」
上体をねじ込むように、極端に腰を低くして、頭をつけ、両前まわしを引いた里山ですが、
と、そのとき、長い胴体を生かした北園(きたぞの)は、がばっと、里山の肩越しの上手を取ります。
腰を低くしすぎた里山にとって、これは、計算外の急襲(きゅうしゅう)でしょう。九州だけに。
北園(きたぞの)そのまま、里山を持ち上げるように、ふりまわして寄りきりの勝ち。


『ロシア文学者昇曙夢&芥川竜之介論考』和田芳英/著と『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

2009年11月18日 | 本と雑誌

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『ロシア文学者昇曙夢&芥川竜之介論考』和田芳英/著 2001年11月 google

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原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代 (単行本)  2009年11月
田代 俊一郎 (著)   google

===

昇 曙夢(のぼり しょむ)は1878年明治11年に奄美の加計呂間島(瀬戸内町芝)の生まれ。
1894年明治27年大島高等小学校西校卒業
1895年3月、昇16歳の時、就学のため鹿児島へ。同年9月東京のニコライ正教神学校入学、ロシア語を学ぶ。
1903年卒業と同時に同校講師をつとめる。
1905年、大阪朝日新聞嘱託、ロシア事情を担当する。
1915年早大講師1919まで。
1916年陸軍士官学校教授、
1922年 日大講師、

二葉亭四迷(1864~1909明治42年)の後をうけ、ロシア文学を初めて学問的研究の水準に引き上げ、
明治末から大正、昭和の戦中戦後にわたって、ロシア文学の翻訳、紹介ならびにロシア事情の紹介などに取り組み。この分野における第一人者であった。
昇 曙夢(のぼり しょむ)の業績は、当時の日本の知識人や芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年(明治25年 - 1927年(昭和2年)などの文学者に多大な影響を与えた。
武者小路 実篤(むしゃこうじ さねあつ、1885年 - 1976年)は、「ロシヤ文学が日本に最も影響を与えた時代の初期に於いて、昇 曙夢の時代があった」と書いている。

1928年昭和3年モスクワで行なわれたトルストイ生誕百年祭には、日本から唯一人国賓として招かれ参加した。
1949年 『大奄美史』 刊行
1951年 奄美大島日本復帰対策全国委員長再任
1955年、『ロシア・ソヴェト文学史』で読売文学賞受賞。
1958年昭和33年永眠

=== ↑ 略年譜は書きかけです。

091118book2 本書の著者 和田芳英(わだ・よしひで)は、奄美大島名瀬の生まれ。

本書が出版される2001年まで、昇 曙夢に関する伝記や研究書は一冊もなかった。

本書は、昇 曙夢(のぼり しょむ)の功績を顕彰することだけが目的ではないが、

だが、巷間(こうかん)に流布している多種多様な辞典類や近代日本文学の概説、近代日本文学年表の記述、或いは
文壇的側面史の叙述において彼の名前は軽く扱われるか、そうでなければ、ほとんど無視されているに等しい状態である。
彼の業績は他の外国文学者に比較して卓抜なものであり、近代日本文学の生成発展に寄与した影響が絶犬であったにもかかわらず、軽視されてきたが故に近代文学研究の最も重要な部分か曖昧なままに等閑(なおざり)にされてきたと断言できよう。

としているように、これほどまでの業績がありながら、
なぜ、現在の奄美でも、当時の東京においても
昇 曙夢(のぼり しょむ)は知られていないのか?
という素朴でいちばん知りたいと思う疑問にも答えてくれている。(もっと知られてしかるべきだという意見は昇曙夢が亡くなった当時の新聞記事などからもうかがえる)

その理由として、

①学閥の問題、②出版とマス・メディアの問題、③学問の継承の問題
④研究者の問題 ⑤戦後の思想界の問題、などが挙げ詳しく分析されていて興味深い。

いずれも不運といえる側面もあるが、しかし昇の人となりや性格などくわしく読んでいくと、
昇自身の性格として、そういったものへのこだわりが、あまりなかったのではないか、という印象を持った。
トルストイの思想に通じるものがあるのではないか。再読したい。

本書の後半は、昇 曙夢のすぐれた翻訳文学が大正文壇の旗手、芥川龍之介の「羅生門」「鼻」などの初期作品に甚大な影響をおよぼしていることを学問的に考察している。

===

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原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代 (単行本(ソフトカバー))
田代 俊一郎 (著)

(この本は現在、名瀬の書店で平積みになっているところもある。)

西日本新聞の連載になったこの本は、写真も多く、昇 曙夢の足跡や人となり、思想など分かりやすく説明して、
また著者の大胆な推理など興味深く、読み手を飽きさせることがない。

日本のロシア文学翻訳史の第一世代の二葉亭四迷らのあとを受け第二世代を担った昇曙夢だったが、第三世代の人たちが育つにしたがってアカデミズムの場が形成され、在野の神学校出身の昇曙夢は肩身のせまい思いをしたのではないか。「文学を捨て『民衆の中へ』」P75

がおもしろい。

昇曙夢はロシア文学者だった。と同時に新聞記者だった。これが昇を読み解くカギのひとつだ。

このあたりは、スリリングです。新聞記者らしい。

二重写しのロシアと奄美

戦争協力への抑止力として
「多くの文学者戦争賛美へとなだれこんでいくなかで昇はそれなりの抑止力をもっていたと見ることもできる。P110

本書には今後の研究のヒントとなりそうな視点が随所に見られる。

後半は、昇の妻 藤子の「思い出の記」にあてられている。

あと、田中一村は好きなのですが、この本の表紙に、一村の絵があるは、「どうして?」との思いが残った。深く考えないようにしよう。

こちらも再読したい。


九州場所三日目 and 上を向いて歩こう金作原原生林 秋

2009年11月17日 | 大相撲

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(写真と記事は、関連がありません)

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奄美大島 奄美市 金作原(きんさくばる)原生林

シマサルスベリの黄葉(autumn leaves) とヒカゲヘゴ

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上を向いて歩こう。足元気をつけて。

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大相撲九州場所三日目 goo大相撲

東幕9 里山 0勝2敗  ●押し出し ○1勝1敗  翔傑 西幕10

翔傑 喜昭(しょうけつ よしあき、1976年9月 静岡県伊豆市(旧:天城湯ヶ島町)出身
で放駒部屋所属。
身長184cm、体重161kg。最高位は西幕下4枚目(2009年3月場所)。

33歳の翔傑は、ことし3月に自己最高位を更新、初土俵の1995年の初土俵以来、休場することなく土俵に上がり真摯な態度で悲願の関取をめざしている。

一方の里山は、幕の内の経験もあが、怪我などで、番付を下げ、長い苦労の土俵がつづいている。
時の流れは待ってはくれない。
先場所好調でつかんだ復調への流れを、止めるわけにはいかない。

両者ともに十両への思いは強い。幕下上位の熾烈な戦いを続けている。

時間です。

3秒ほどで勝負は決まった。

翔傑は、思い切り当たって、それと同時に左からのいなし。これが大きく効いた。
里山は、前褌に手がとどく前に、はじかれるようにバランスをくずし、
翔傑は、すかさず下からののど輪で攻め立て押し出し。

大きな体の翔傑がうまい攻めで、里山のしぶとさを許さなかった。


写真がたまるのでアップします。ダチュラ 柿 トックリキワタ みかん クロトン ソテツ トラノオなど 

2009年11月16日 | 写真

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↑ 島ミカンの季節です。変わりやすいお天気がつづいています。

==

大相撲九州場所 二日目 (写真と記事は関連しません)

東十7 旭南海1勝1敗● 寄り切り○十文字1勝1敗  東十8

==あす3日目の取り組み(幕下以下は、2週間で7番です)

東十7 旭南海1勝1敗 × 若天狼1勝1敗  東十9
東幕9 里山 0勝1敗   ×   0勝1敗  翔傑 西幕10

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↑ 山の柿

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今さかり、フヨウと青空。また撮ります。

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↑ ダチュラとクワズイモ

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遠くから見ると桜の花に見える、トックリキワタと島バナナ

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↑ クロトンとトックリキワタ

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↑ つわぶきにアサギマダラ

羽に何か書いてありましたが、撮り逃がしました。

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↑ 民家の裏の畑の柿

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↑↓ 覚えたはずのこの花の名が思いだせない。

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↑ ソテツとクロトン

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↑ トラノオとクロトン

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九州場所 初日

2009年11月15日 | 大相撲

大相撲九州場所 初日 goo大相撲

東十7 旭南海1勝0敗  ○ 押し倒し ● 境澤0勝1敗  西十7
東幕9 里山 0勝1敗●押し出し○1勝0敗 佐田の富士 西幕9

立ち合い

十両へ向けて、気合の表情です、佐田の富士。
仕切りの仕草からも、場所前の稽古十分の充実感がうかがえます。

幕の内経験者の里山は、二場所つづけて体調万全でむかえた初日、表情を変えませんが、落ち着いた仕草からは、ゆとりも感じられます。

時間です。

先場所同様、先に腰をおろしたのは里山です。

しかし、佐田の富士、先場所空振りした諸手突きを反省したのか、張り差しの格好です。

里山が一歩先に踏み込みますが、佐田の富士は突っ張りの回転を速め応戦、里山の潜り込みを防ぎます。
ここでも先場所の反省が生きています、佐田の富士です。

佐田の富士の突っ張りの回転が速いため、里山は、腕をたぐってバランスを崩す、得意の攻めのタイミングが見出だせません。

それでも、前に出る里山、今場所も体調は万全とみた。が、佐田の富士の突っ張りは、左右にも揺れて、里山に攻撃の糸口を与えません。

押しつ、押されつ、動きのある激しい攻防に館内から歓声が起こります。

初日の土俵をひきしめる、両者気迫のこもった見ごたえのある相撲です。

両者動きが止まって、ここからですね、里山が佐田の富士の腕をひねって、前に押して出るんですが、いまひとつ、押し切れませんでしたねえ、おじやまさん、ここを、どうごらんになりましたか。

そおですね、その前の攻防での佐田の富士の突っ張りですね、

ええ、

これがこのお、じつにですね、サトウさん。

はい、

先場所は、里山に完全に動きを読まれましたからね、佐田の富士。

そうでしたね、はい。

今日は、佐田の富士、落ち着いて里山の動きを見てましたね、

ほう、そうですか、動きは激しかったように思うんですが、

そうですがね、里山の腕ひねりや、前褌を取る動きを警戒してですね、逆に相手の手首をつかんで封じていますね。はい。

なるほど、あ、ここですね

ええ、佐田の富士は、里山をよく研究していますね。

はい、十両への執念を感じさせる、両者ひじょうに見ごたえのある、いい一番でした。佐田の富士、初日、白星スタートです。

東幕7 上林 1勝0敗 ○叩き込み● 0勝1敗  薩摩響 東幕8

薩摩響(奄美大島宇検村)、立ち合い直後、相手の引きにあっけなく、土俵に両手を付いた。

東三7 若三藤 0勝1敗  ● 下手投げ○ 1勝0敗  薩喜海 西三6

091114satsukiumi 1時からのBS大相撲中継、オープニング後の最初の取り組み。

四場所ぶりの十両復帰を目指す薩喜海(さつきうみ)喜界町、

ふわっとした立ち合い

うまく左にまわって、すぐに左下手をとり、

そのまま195キロの若三藤を、土俵にたたきつけるような下手投げが鮮やかに決まって館内から、ウオーッという歓声がおこった。

180.5センチ 99.8キロの薩喜海とは、倍近い体重差。


あす大相撲九州場所初日

2009年11月14日 | 大相撲

あす初日の取り組み goo 大相撲

東幕9 里山   ×  佐田の富士  西幕9

先場所9月の、この両者の取り組みを文字VTR?でもう一度振り返る。カイセツはオジヤマ、実況サトウで。↓

2009年9月24日 (木曜日)
大相撲秋場所 里山、ご、5勝目 薩摩響(宇検)勝ち越し

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↑ 里山 浩作 去年の奄美巡業

先場所9月 の里山
東幕下22  里山(奄美市笠利町) ○-●-○-○--○-○○-- 6勝1敗

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↑ 佐田の富士

佐田の富士 哲博 (さだのふじ あきひろ)

平成21年9月 東下14  5勝2敗

最高位 幕下 3 
昭和59年12月生
長崎県南島原市
境川部屋
改名歴 山本  → 佐田の富士
初土俵 平成15年1月

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↑ 注目の薩摩響 剛 (さつまひびき たけし) 奄美宇検村

今場所は自己最高位 幕下 8

あす初日の対戦
東幕7 上林   ×    薩摩響 東幕8

薩摩響 剛 (さつまひびき たけし)
最高位 幕下 8

昭和61年5月27日
鹿児島県大島郡宇検村
境川 部屋
改名歴 福永 剛 → 薩摩響 剛
初土俵 平成17年3月
 
生涯戦歴 111勝78敗/189出(29場所)
 幕下戦歴 74勝66敗/140出(21場所)
 三段目戦歴 25勝10敗/35出(5場所)
 序二段戦歴 6勝1敗/7出(1場所)
 序ノ口戦歴 6勝1敗/7出(1場所)
 前相撲戦歴 1場所

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↑ 去年奄美場所で相撲甚句を歌う薩喜海 うしろは豊桜

あす初日の対戦
東三7 若三藤   ×    薩喜海 西三6

薩喜海 澄太郎(さつきう みすみたろう)

最高位 幕下 17
昭和55年5月24日
鹿児島県大島郡喜界町
所属部屋 中立 → 境川
改名歴 橋本 隆雄 → 薩喜海 隆盛 → 薩喜海 澄太郎
初土俵 平成11年1月
 
生涯戦歴 232勝208敗8休/439出(66場所)
 幕下戦歴 51勝61敗7休/112出(17場所)
 三段目戦歴 128勝116敗1休/243出(36場所)
 序二段戦歴 48勝29敗/77出(11場所)
 序ノ口戦歴 5勝2敗/7出(1場所)
 前相撲戦歴 1場所


金作原(きんさくばる)原生林 葉っぱの写真 奄美大島

2009年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

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先日、ごいっしょした金作原原生林(きんさくばる げんせいりん)の写真です。

おもに、上を向いて撮りました。

この日の天気は、「ビミョー」 山は肌寒さを感じるほどでした。

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森の中は、暗く、湿気が多いので撮影は容易ではない。

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↑ シマサルスベリの黄葉

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見る角度によって、ビミョーな色の違いが浮き彫りになります。

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↑ ヒカゲヘゴの新芽

亜熱帯の森の中では、よく観察すると、さまざまな植物たちの圧倒的な生命力のせめぎあいが、あなたに新鮮な驚きをもたらします。じょうずにおどろいてね。

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↑ 落ち葉拾い、日に透かして接写。

これをやらせたら、左に出るものはいない、と言われたい。あ、右か。

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↑ 葉(枝)が落ちたあと↓ が大判小判の形に見えることから、さわるとお金持ちになれるとか、お金に困らない程度に金運がつけばよい、とか言って触った、あのヒカゲヘゴの木が、最近急に大きくなったような。10年前ごろからあったかな。葉が手で触れるほどの高さだったと思うのですが、しばらく見ないうちに10メートルほどに成長。あ、モデルさんが写っていないので実感がないですが。

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一村に学ぼう。

葉っぱの写真、はまります。

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『 白洲次郎 占領を背負った男 』 上・下 (講談社文庫) 北 康利 (著)

2009年11月12日 | 本と雑誌

091112bookshirasujiro1 白洲次郎 占領を背負った男 上・下 (講談社文庫) 北 康利 (著)  amazon

本書は2005年講談社より刊行された単行本を文庫化に際して上下巻に分冊したものです。
2008年12月弟一刷発行

NHK『ドラマスペシャル・白洲次郎』
2009年9/23日最終回(全3回)の原案のひとつ。

本書の解説は、元TVキャスターの、あの櫻井よしこさんで、帯には同氏の写真もある。

話は、いきなり横道にそれますが

この本を買った時は、そのことを知らず、積読しておいたのですが、偶然に

櫻井さんは、この11月7日、奄美市名瀬の中央公民館で、奄美大島商工会議所などが主催した講演会で講師をつとめ、中国による東シナ海のガス田開発や、国境に近い沖縄近海の警備体制にふれ、国際政治に「友愛」など通じないと、鳩山政権が掲げる「東アジア共同体」構想を批判した、というjニュースを知った。

櫻井よしこ 佐野幸夫 google ニュース

091112bookkikujiro さらに、話はそれますが、この日のもう一人の講師は、拓殖大常務理事の佐野幸夫氏で、西郷隆盛と奄美龍郷の愛かなの長男で奄美大島出身の外交官、「明治の国際人 西郷菊次郎」をテーマに講演し、日本統治下の台湾で、北東部・宜蘭の首長として治水事業などで地域の発展に貢献した「菊次郎は今も地元住民に『神様』と信頼される日本人であり、奄美大島の誇りだ」と述べた。(西郷菊次郎はのちに京都市長をつとめる)。

このブログ
2009年2月18日 (水曜日)
読書 西郷菊次郎、母・愛加那、妹・菊草

この日の講師のひとり佐野幸夫さんは、『西郷菊次郎と台湾』の著者である。

奄美の歴史は、薩摩との関係だけではない。琉球や台湾、中国、アメリカ、その他と国際的な視点からも見直しが進んでいる。

091112bookshirasujiro2 さて、白洲次郎は、戦後は吉田茂の側近とて、日本国憲法制定の現場に立ち会い、〈マッカーサーを叱り飛ばした日本人〉などとも言われている国際人でもある。

内容については省略し、横道にそれた話を元?に戻して、本書に一箇所だけ出てくる「奄美大島」の部分について・・・。

マッカーサーが解任され、講和会議主席全権顧問の吉田茂とともにアメリカへ渡った白洲次郎は、
サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説の原稿の作成の際、GHQを刺激することを恐れる外務省の担当者たちを、どなりつけ、「懸案である奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島等の返還について言及させたのだ」 (下巻P147)次郎は(沖縄や小笠原の人々の気持ちにもやってみろ!)と思いながら・・・。

その部分は、検索によると、以下の部分と思われる。

 第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。

昭和26(1951)年9月8日
「サンフランシスコ平和条約」google
正式には「日本国との平和条約」(日本と、旧連合国48ヶ国の間で調印された)

第三条【信託統治】

 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

1951年(昭和26年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効によって日本の主権が回復すると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美諸島の統治を諦め翌1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、1953年(昭和28年)12月25日には奄美諸島も返還された。wiki より

国際的です。


リュウゼツラン?とクワズイモ

2009年11月11日 | クワズイモ

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奄美市朝仁(あさに)の朝仁貝塚  別名 朝仁マエマ ( 前間 ) 遺跡

の近くのリュウゼツラン?

以前もアップしましたが、きれいに咲いていました。

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パパイヤ

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↑ 08年7月9日 奄美パーク 一村の杜にて

田中 一村風構図

カメラを買ったら、試し撮りは、奄美大島へ。

カメラに愛着を感じたら、奄美大島へ。

カメラに飽きたときこそ・・・。

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↑ 赤崎公園でソシンカの花

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ここのところ、日が射したり、降ったり不安定な天気が続いています。

一村の絵には、黒雲が似合いますか。


名瀬港 誰(た)そ彼(がれ)時(どき)

2009年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

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写真は拡大します。

↑ きのうの夕方。名瀬港 大型船用バースから。♪ 灯ともし頃 恋の銀座

細長いU字形の名瀬湾は、写真左手が北で東シナ海に開いていて、写真右がU字の頂点でそこから古仁屋に向かう国道58号線が南に走り、湾岸道路とともにY字形をつくっている。

きのうは雨で、キリが低地にまでおりていた。

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夕方のことを調べると

かわたれ-どき 【彼は誰時】
(だれであるか定かに判別できない)明け方や夕方の薄暗い時。

のちには明け方にいうことが多くなり、
夕方には「誰(た)そ彼(がれ)時(どき)」を用いるようになった。
かはたそどき。かれはたれどき。

逢魔時(おうまがとき)、大禍時(おおまがとき)は、夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻を意味する。

「暮れ六つ」や「酉の刻」ともいい、現在の18時頃のこと

大きな災いの起こりやすいときの意〕夕方の薄暗い頃。〔「ま」を「魔」と解して、「大魔時」「逢う魔が時」あるいは王莽(おうもう)の故事に付会して「王莽時」とも書く


『憎しみの海・怨の儀式』―安達征一郎南島小説集 (単行本) 安達征一郎著、川村湊編・解説

2009年11月09日 | 本と雑誌

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「おっかあは、気のよかお前のことを考えると、頭が痛か。男ちいうもんは、人に嫌わるるぐらいのきつか性格でなかと成功はせんもんだよ。今のようにあんまり心がきれいすぎると、いざちいうとき、ずるずるとひきずりこまれてしもうでな、なんとのう心もとなか」

光夫の父は、出漁中の海で遭難し、2年前に死んでいた。

父に代わって一家を支える気概でよく働く光夫は、シマの人たちから愛されていた。

これは表題作ではありません。本書に収録の21編のうちの一つです。

そんなある日、飢饉がつづいた島に南の島から豚泥棒が侵入してくる。

母も島を留守にしており、光夫は島を守るため、侵入者である屈強な男たちと一人で戦うことになる。

舞台は一転して、夜の島の浜辺。

侵入者たちとの凄惨な戦いが繰り広げられるが、ドジな光夫はしたむったにやられる。
運もを悪かったりする。物語は、はらはらする展開がつづく。

片手をつぶされながらも、光夫の反撃は成功しそうになるがやはり最後は侵入者たちに捕らえられ、手足を縛られ、鮫の棲む真夜中の海に放り込まれることに。

絶体絶命。縛られた光夫を乗せた刳船は、暗闇の海へ向かう。そこは光夫の死に場だ。

光夫は心のなかで叫ぶ。おれはやるぞ、奴らに叩きこまれない前にやるぞ。

この声は不思議だ。途中からは、だれかがどこからかささやいているように聞こえる。

お人よしで真面目ですぎ、ドジなところがある光夫を励ますようだ。

しかし、かなしいかな、成功しても、もう相手と共に死ぬしかない、最後の賭けの場面だ。光夫は刳り舟に密かに持ち込んだガソリンに火をつけ、相手もろとも死ぬつもりだ。それしかないのだ。真っ暗な海の上での自爆。この場面の描写は独特なリズムをもって聞こえてくる。テンポよく読みすすめるところだが、なんども繰り返し読んでしまう。

さあ、やるべきことを反復してみろ、冷静に何一つぬかさないように反復してみるんだ。まず甕口をかたむける。それから、待て待て、お前はなにを使って甕口をかたむけようというのか。お前は手を使うつもりか。馬鹿な。お前は片手の片輪だってことを忘れたんじやなかろうな。その片手を使ったら、いったいマッチはどの手で擦るんだい?この間抜けけ野郎、お前はガソリンだけ流して、それでおしまいにしようってのかい? おいおい、しっかりするんだよ、光夫……。

分かったな、光夫。

 さあ、つぎはマッチのおさらいだ。ガソリンを流したら、つぎはマッチの操作だが、片手がつぶれているんだから、大変だよなあ。お前はどんな方法でマッチを擦るつもりだ?言ってみろ。

大変だよなあ、と、ひとごとのように、突き放します。ここは気に入ったところです。実にいい。ここに奄美の400年?のきょう現在の現実を読むことも自由です。でも、それでは矮小化が過ぎるというものでしょうか。

(そうそう、その調子でゆっくりつづけろ)

緻密な描写がスロービデオのように続きます。ここまでくると、光夫のこころの中の叫びなのか分からなくなります。ユーモラスにすら聞こえるからすごい。

「ぐずぐずするんじゃない」光夫はこわい顔で自分自身を叱りつける。「マッチだ、マッチだ、マッチだ」

真っ暗の沖の海原での命賭けの戦いに光夫ははたして勝利するのか?しかし光夫は、さらにとてつもなく大きな相手との戦いに、「息絶える最後の瞬間まで闘うぞ」とさけぶ。

そのあと光夫の運命はどうなったのでしょうか。それは、この短編の最初の部分に説明的に書かれています。

091109booknanto2 藩政時代、反逆の指導者があらわれることを恐れた搾取者から、文字を持つことを禁じられた島のひとびとが、光夫の運命?を民謡の旋律にのせて今に伝えている。そこには、勇躍した力づよいリズムで原始本能を揺り動かすような魂と魂のエコーのような韻律があった。引用した光夫の叫び(作者の肉声にも聞こえる)は、できれば方言に直してその韻律を感じ取りたい。

この島が南島のどの島かは書かれていない。それを詮索するのは無意味だろう。
よその島から豚泥棒がくるほどの飢饉が起こるのは薩摩藩の圧政、悪政のせいなのは明らかなのだが、そんなことが書いてあるわけではもちろんない。薩摩や奄美という言葉はこの小説のどこにも出てこない。

光夫にとって「外部」からの圧倒的な暴力は、むしろとなりの南の島からやって来ている。より貧しい隣人である。(暴力の連環)

むずかしいことは書けない。この小説はずごいとしか言えない。今までこの小説を読んでこなかった自分の読書体験はいったい何だったのか。あまり読まれていなかったのはナゼか?それ自体を論じることも無意味ではないだろう。

北海道生まれのこの本の編者は解説で次のように述べている。

日本の「内部」にして「外部」。南島の位置づけをそうした矛盾や撞着のままに任せることによって、「日本」や「日本文学」といったものを内部から解体してゆく契機がつかめると思われるのだ。それは時間的、空間的な「外部」としての「過去」や「辺境」という概念ではありえない。過去を現在に、辺境を中心に無理やりに侵入させてしまうことが、すなわち論理的な観念や概念を、混乱させ、混沌化させることが、「南島」「南島文学」の意味なのであってそれは、しばしば安達征一郎の作品のなかでは(略)

新鮮な視点である。収録の他の20篇も、やはりすごい。

解説には、このほか盛りだくさんの論点があって、言語芸術と映像芸術との対比、比較についての考察も興味深かった。

安達征一郎の初期作品が、1968年の今村昌平監督による映画『神々の深き欲望』(日活)の原案になったという件については検索してみてください。google神々の深き欲望 安達征一郎

光夫が登場するこの作品は、1974年(昭和49年)作者安達征一郎48歳のとき発表された。

安達征一郎 1926年(大正15年)東京生まれ

6歳のとき両親の出身地奄美大島に帰郷し、少年時代を喜界島で過ごした。

「怨の儀式」で弟70回直木賞候補

「日出づる海 日沈む海」で弟80回直木賞候補

安達征一郎氏は現在83歳、今年2009年10月24日には、県立奄美図書館で南島文学をテーマに講演を行なった。(聴きに行けませんでした)

この本には、10月10日に同氏から県立奄美図書館へ寄贈されたと書かれています。

本のしおりひも(スピン)も、はみ出していない、真新しい本。県立奄美図書館の郷土コーナーにつづく廊下の一角にあった安達征一郎コーナーで見つけて借りました。

憎しみの海・怨の儀式 goole

第69回(1973年上半期) - 長部日出雄『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』、藤沢周平『暗殺の年輪』
第70回(1973年下半期) - 該当作品なし
第71回(1974年上半期) - 藤本義一『鬼の詩』

直木賞受賞作・候補作一覧(61~80)

===弟70回

 
 
昭和48年/1973年下半期
 (昭和49年/1974年1月16日決定発表

受賞作なし
 
候補

戸部新十郎 『安見隠岐の罪状』 昭和48年/1973年6月・毎日新聞社刊 
 
皆川博子 「トマト・ゲーム」 『小説現代』昭和48年/1973年7月号 
 
康 伸吉 「闇の重さ」 『オール讀物』昭和48年/1973年11月号 
 
滝口康彦 「日向延岡のぼり猿」 『小説宝石』昭和48年/1973年7月号 
 
植草圭之助 『冬の花 悠子』 昭和48年/1973年11月・文藝春秋刊 
 
安達征一郎 「怨の儀式」 『文学者』昭和48年/1973年8月号
 
有明夏夫 「サムライの末裔」 『別冊文藝春秋』124号[昭和48年/1973年6月] 
 
古川 薫 「女体蔵志」 『午後』20号[昭和48年/1973年7月] 
 

【選考委員】
石坂 洋次郎
川口 松太郎(欠席/書面回答)
源氏 鶏太
今 日出海
司馬 遼太郎
柴田 錬三郎
松本 清張
水上 勉
村上 元三 

===第80回 
 
 昭和53年/1978年下半期
 (昭和54年/1979年1月19日決定発表

受賞 宮尾登美子 『一絃の琴』 昭和53年/1978年10月・講談社刊 
 
受賞 有明夏夫 『大浪花諸人往来』 昭和53年/1978年10月・角川書店刊 
 
候補

阿刀田 高 『冷蔵庫より愛をこめて』 昭和53年/1978年6月・講談社刊 
 
古川 薫 「野山獄相聞抄」 『別冊文藝春秋』144号[昭和53年/1978年6月] 
 
安達征一郎 『日出づる海 日沈む海』 昭和53年/1978年9月・光風社書店刊 
 
小林信彦 「みずすましの街」 『オール讀物』昭和53年/1978年11月号 
 
虫明亜呂無 「シャガールの馬」その他 昭和53年/1978年10月・講談社刊『シャガールの馬』より 
 
小関智弘 「地の息」 『別冊文藝春秋』144号[昭和53年/1978年6月] 
 


【選考委員】
五木 寛之
川口 松太郎(欠席/書面回答)
源氏 鶏太
今 日出海
司馬 遼太郎(欠席)
城山 三郎
新田 次郎
松本 清張
水上 勉
村上 元三 


福島県→奄美大島1435kmの旅をしたチョウと判明、大阪→奄美大島も

2009年11月08日 | 生き物観察

このブログの 

2009年11月 4日 (水曜日)
marking アサギマダラ 2頭 動画 奄美大島

の記事で動画でアップした、アサギマダラ2頭がどこから
来たのか、わかりました。

アサギネット掲示板に画像投稿していたからです。ありがとうございます。教えていただいた方は写真はご自由にお使いください。

福島と大阪からでした。2頭は奄美大島で同時に同じ場所で撮影されたものです。

 

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写真は拡大します。

↑ 標識 「SRS10268 デコ 9/7」

9月7日に福島県耶麻郡北塩原村のグランデコスキー場で、マーキングのあと放蝶された方からアサギネット掲示板に11月7日に書き込みをいただき、判明しました。

58日間をかけて南西方向に約1435km移動したことになります。

(ヤマヒヨドリバナの下の方に黄色い虫がいます。今気づきました。)

 

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↑ 「KM 94 ST 10/10」 写真は拡大します。写真は左右反転したものです。 

大阪府池田市五月山市民の森(標高260m)で10月10日、マーキング放蝶された方から、同じくアサギネット掲示板に、10月5日に書き込みをいただき、判明しました。

11月4日(水)の記事にアップした動画


桜咲く? 2010へ 奄美大島 ヒカンザクラ

2009年11月07日 | 桜の観察

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桜咲く 200? という記事は毎年書いていますが、

今年は早すぎます。

奄美で桜といえば、ヒカンザクラ。開花宣言は、例年、お正月休み明けのころ。見ごろは、1月下旬から2月初旬ごろ。

去年はそのころ(2/1)、奄美大島本茶峠では、「日本一早い」桜マラソンが行われた

写真の、秋名のこのヒカンザクラは、「超早咲き」としてファンの間で知られているが、これまでで、もっとも早く開花が見つかった去年は、12月の11日だった。

2008年12月11日 (木曜日)
秋名のヒカン桜も咲き始め and  奄美巡業 長浜町

このブログの早咲き桜の開花発見は、年々早くなっていて、去年は、大相撲の奄美冬巡業の日だった。

2008年12月10日 (水曜日)
2009へ桜さく and 大相撲奄美場所開幕

今年の秋(秋ですね、)巡業がまだ、1日に山口県周南市で最終日を終えたばかりで、開花は去年より一月あまりも早い。これは狂い咲きというべきかも知れない。ビミョーです。

九州場所は11月15日から。

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一番咲きの花はあまり美しくはない。

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今日7日の名瀬
12時 25.3℃ 降水0.0 東北東 3m/s 日照0.9 湿度55 1019.0hpa

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↑↓ 秋名のモモ

ことしは、 モモもスモモもオオシマザクラも狂い咲き

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