死者への思いを絶ちがたく、供養する事が寄りすがりの人々の場所だ。此処は現世と過去が混ざり合う不思議な空間。地蔵一体一体、縁者の愛情が溢れた衣装を纏っている。真新しいもの、古いもの、いつしか途絶えた縁。何よりも悲しみを誘うのは真新しい赤いランドセル、花嫁花婿衣裳人形・・・此処もまた人の世の無常が垣間見れる。
死者への思いを絶ちがたく、供養する事が寄りすがりの人々の場所だ。此処は現世と過去が混ざり合う不思議な空間。地蔵一体一体、縁者の愛情が溢れた衣装を纏っている。真新しいもの、古いもの、いつしか途絶えた縁。何よりも悲しみを誘うのは真新しい赤いランドセル、花嫁花婿衣裳人形・・・此処もまた人の世の無常が垣間見れる。
映像:芦野公園の片隅に建てられた『津軽三味線発祥之地』の石碑
北津軽は春夏秋冬がより鮮明。冬は厳しい風雪、夏は暑くとも爽やか、そんな風土で、作家太宰も成長。しかし、貧富の差は激しく、小作として生計するも成り立たず門付けをして歩く人々もいた。津軽三味線は単なる歌謡の伴奏から今日の地位を得たのはこの様な人々の戸口曲弾きなどが形成要因でもある。叩きつける様なバチさばきは北津軽の地吹雪を想わせる。
太宰治の文学碑の下に池が拡がりボート乗り場がある。ボートと言えば弘前城の西堀を
思い浮べるがここ芦野公園のボートも趣がある。吊り橋を潜り、藤枝地区の溜池ともな
っている池面は夢の浮橋で分断されているが、霊場川倉地蔵&賽の川原と水面続きだ。
映像:金木芦野公園の見晴らしの良い場所登仙岬に作家:太宰治の文学碑がある。
毎年、この場所で長女津島園子氏らが集い桜桃忌が開かれる。この桜桃忌も最近は
「生誕祭」となったが筆者はいささか不満である。遺族の意向と言われるが「桜桃」
という言葉には特別な意味が込められている。太宰の小説は甘酸っぱいサクランボ
の味だ。どんなに美化しても、人間津島修治と作家太宰治とは切り離せない。桜桃の
季節に生を受け、散った人間・作家を惜しむ一人として敢えて「桜桃忌」と表現する。
碑文:「選ばれてあることの 恍惚と不安と 二つ我にあり」
解説:ヴェルレーヌの一節。太宰治&津島修治はまさにこの言葉の通り生き、死んだ。
在京時代、三鷹禅林寺を訪問した。三鷹全体が文学的香りのする街だった。筆者は上
石神井でアパート住まいであった。太宰治の墓前には、煙草や酒が供えられていた。
そして…ノートが一冊。今では珍しくないが当時は意味が分からなかった。何気にめ
くると墓参の若い女性の思いが記されていた。それから数年後社会人になって斜陽館
(太宰治の生家で、当時は人手にわたり、旅館であった)の太宰の部屋に泊まった時に
同じく大学ノートがあり、ノートには宿泊した太宰ファンの思いが縷々綴られていた。
筆者は別に太宰の熱烈なファンではない。一時代の寵児的存在を唯遠くから見つめる
だけだった。一方でフランスの詩人ヴェルレーヌとランボーは筆者の愛読の詩人であ
り中原中也を深く専攻、文学を常に意識した青春は今も続いている。文学とは『生』。
映像:津軽鉄道「走れメロス」号。全国から熱心なカメラマンが待ち構える(2009.04.24)
『走れメロス』。太宰治の名作、誰もが知っている希望と友情の話。その小説名を
冠した鉄道。幾度も廃線の危機があり地元のサポーターに支持されて存続している
鉄道の姿に相応しい名前だ。全国の鉄道ファンには堪らないシーン。桜は5分咲き。
『…それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に
合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、も
っと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ…」(太宰治著「走れメロス」より)
解説:太宰治、井伏鱒二、檀一雄、昭和の文壇に輝く作家達のエピソードは時に珠玉
の作品となる。「走れメロス」もこの三人が関わる「熱海事件」が作品の根底。
自分の身代り友人の為に死刑になろうとも約束を果たすために、約束の地に走るメロス。
しかし実際の太宰は熱海で遊興費がなくなり、檀一雄を旅館に待たせ、金策に向かった
井伏鱒二宅で将棋を打っていた。太宰いや人間津島修治はいつもこのように周りの人々
を傷付けていた。悲しい性だ。しかしそれが作品に見事に花開く。太宰治もまた、心と
命を削っての作家人生だった。・・・作家太宰治、人間津島修治のゴールは桜桃忌だった。
お祭りと言えば屋台・露天。何もないところに仮設の屋根ができ何やら珍しい物。
美味しそうな匂い、鮮やかな色彩、普段手に入らない、売っていないものが並ぶ。
子供も大人も『夢』を買う。その一つ「風船屋」。日本全国、今年は何が流行かな?
映像:津軽の遅い春は漸く桜を飾る頃、海岸公園片隅に石川啄木碑が陽光を浴びる。
碑文:船に酔いて やさしくなれる いもうとの 眼見ゆ津軽の 海を思えば
解説:石川啄木は故郷を追われ、青森港から青函連絡船で北海道函館に渡った。生涯
苦労の歌人の目にむつ湾は決して美しくは映らなかっただろう。石碑の向こうに津軽
の海は穏やかに波打つ、海は哀しみさえ受け入れる。群青の海は啄木の瞳色の様に深
く淋しく切ない。・・・とうとう啄木に春は来ない対岸の函館立待岬に天才歌人は永眠す。
地蔵尊堂裏の池の岸辺沿いに地蔵が野晒しにされている。お堂に供養地蔵を納めら
れなかった人々は、野晒地蔵に思いを籠める。天日・風雪・風雨で傷んだ手縫いの
衣装が哀しみを誘う。一帯は死者を悼む、偲ぶ、想う場所。朽ちた人々の心が甦ゑ、
消える。北津軽、賽野川原には今日も想い人を求め魂が流離う。大祭時に巡り合う。
芦野公園の池の対岸にあるのが川倉賽野川原地蔵尊。南部下北の恐山に対比される
津軽の霊場である。同じく慈覚大師が開祖とされる。恐山の山岳霊場はなるほどと
思うのだが平野部の霊場は珍しい。その昔は人をも寄せ付けぬ霊気が漂う湿地帯と
推察。恐山同様例大祭時にはイタコの口寄せで賑わうあの世とこの世の交錯の地だ。
故事:天空から燈明が降り、掘ると一体の地蔵尊が出土、安置したことから始まる。