孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

フランス  ヴィシー政権下のユダヤ人迫害について、オランド大統領が謝罪

2012-07-23 23:12:02 | 欧州情勢

(1942年7月、一斉検挙されヴェロドローム・ディヴェールに収容されたユダヤ人 殆ど飲まず食わずの5日間の後、アウシュビッツ などに送られ、その殆んどが死亡しました。 “flickr”より By jimforest http://www.flickr.com/photos/jimforest/158062263/ )

フランスでフランス人によって行われた
今朝のTVニュースで、フランス・ヴィシー政権下で起きた「ヴェルディヴ事件」に関するオランド大統領のコメントを報じていました。

ヒトラー率いるナチス・ドイツのフランス侵攻によって敗北したフランスでは、ナチス・ドイツに協力する形でペタン元帥を首班とするヴィシー政権がつくられ、フランス国家がかろうじて存続していました。
そのヴィシー政権下ではドイツ同様のユダヤ人迫害があったことは聞いたことがありましたが、「ヴェルディヴ事件」については、このニュースで初めて知りました。

****ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件(ヴェルディヴ事件****
ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件(1942年7月16日~17日)、または、その略称であるヴェル・ディヴ事件は、第二次世界大戦下のフランスで行われた最大のユダヤ人大量検挙事件である。
本質的には外国から避難してきた無国籍のユダヤ人を検挙するためのものだったとされる。

1942年の7月、ナチスの「春の風」作戦として計画されたもので、ヨーロッパ各国でユダヤ人を大量検挙することを目的とした。フランスにおいては、ヴィシー政権がフランス警察を動かし作戦を実行した。
パリで9000人にも及ぶ警察官と憲兵が動員された。警察庁の記録によれば、7月17日の終わりには、パリと郊外での検挙者数は1万3152人で、そのうち4115人が子供だった。収容所生活の中で、終戦までに生き延びたのは100人に満たない大人のみで、子供は生き残らなかったという。

なお、ヴェロドローム・ディヴェール(Vélodrome d'Hiver)とは冬期競輪場のことで、最初、検挙されたユダヤ人達はここに閉じ込められ、その後、アウシュビッツを初めとする東欧各地の絶滅収容所へと送られた。【ウィキペディア】
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7月16日~17日は事件から70年にあたりますが、式典に参加したオランド大統領は「この事件に直接手を下したドイツ兵は一人もいない。事件はフランスでフランス人によって行われたというのが真実だ」といった主旨の発言を行っており、フランスの責任を認め謝罪しています。

1995年までの歴代フランス政権は、「ヴィシー政権はフランスではない」として一切責任を認めようとしていませんでした。
親独的なヴィシー政権に対抗して、イギリスに亡命政権「自由フランス」をたてて対独徹底抗戦を貫いたド・ゴールにとっては、ヴィシー政権はフランスとは無縁のものであり、謝罪などとんでもない話でしょう。

次期のポンピドゥー大統領は「フランス人同士がいがみあった忌まわしい過去は、もう忘れてもいいのではないか」と、事件を封印してしまう対応でした。

左派のミッテラン大統領も、ヴィシー政権と敵対したレジスタンス闘士であり、「フランスとしての謝罪の必要などまったくない」としていました。

フランスの責任を始めて認め、「守るべき国民を敵に引き渡した」と謝罪したのは保守派のシラク大統領で、1995年のことです。

サルコジ大統領は、反ユダヤ主義は糾弾したものの、フランス政府として悔い改めることについては否定的だったそうです。

そして、左派オランド大統領は、シラク大統領と同様にフランスの過ちを認め、謝罪した・・・ということです。

個人でも、国家でも、汚点とも言える過去と正面から向き合うのはなかなか難しく、勇気のいることです。
責任を認めない歴代政権の対応もあって、フランスでも若者(18-24歳)の60%が「ヴェルディヴ事件」を知らないというのが今日の状況のようです。

なお、「ヴェルディヴ事件」に関連した映画として、「黄色い星の子供たち 」(2010) 監督:ロズリーヌ・ボッシュ、「サラの鍵 」(2010) 監督:ジル・パケ=ブルネ の2本が近年公開されています。
両作品ともTSUTAYAさんで借りられるようです。

ワルシャワでも70年の節目
「ヴェルディヴ事件」がフランスで起きた頃、ポーランドでも同様のユダヤ人迫害が起きています。

****ユダヤ人強制移送から70年、ワルシャワ・ゲットー****
ポーランドは22日、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に首都ワルシャワに作ったゲットー(ユダヤ人隔離区域)から、トレブリンカの絶滅収容所へユダヤ人の強制移送を開始した日から70年の節目を迎えた。1942年7月22日に始まった移送作戦では、当時ワルシャワに住んでいたユダヤ人26万人が命を落としたとされる。

市内では、収容所で虐殺された犠牲者を追悼する行進が行われ、数千人が参加した。また、ワルシャワ・ゲットー内の過酷な生活を描いた未発表のスケッチ画の展覧会も始まり、ユダヤ人を連行するドイツ人や、妻の遺体を手押し車に乗せて運ぶ男性、ゲットー警察に取り囲まれた10歳の少年などのスケッチが公開された。展示品の中には140グラムのパン1切れも置かれているが、これは収容所での1日分の配給に相当する。

二次大戦前のポーランドは欧州でもユダヤ人人口が密集し、全人口の1割を占める約320万人が住んでいたが、うち40万人がワルシャワ在住だった。ポーランド系ユダヤ人は、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)で殺害された600万人の約半数を占める。【7月23日 AFP】
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ワルシャワ・ゲットーでのユダヤ人迫害については、映画「戦場のピアニスト」(2002)監督: ロマン・ポランスキー などがあります。
もちろん映画と現実は異なるでしょうが、入りやすい入口ではあるでしょう。
コメント (1)
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