孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

韓国・ロシア・日本 人質事件への対応

2007-09-02 10:25:32 | 世相

(北オセチアの学校占拠事件現場ではないでしょうか(詳細不明) 壁際には多くの花輪 中央には水のボトル
“flickr”より By Sergej's photo album )

タリバンによる韓国人拉致事件については、無事に人質は解放されましたが、その方法等について韓国国内・国外でいろいろと批判・意見もあるようです。

タリバンが(事件とは関係なくその予定であった)「韓国軍の年内撤退」を成果として宣伝しており、「これから韓国人を狙った拉致が頻発する危険が高まった」(朝鮮日報)

数か月前に決定していた駐留韓国軍の撤退を解放の条件にしたことは、韓国政府がタリバンからの撤退要求を受け入れたかのように見えかねず、「国際社会とアフガニスタン政府は脅迫に屈するとの印象を与えてしまうならば、非常に危険なメッセージを送ったことになる」(アフガニスタン外相)

「テロリスト」との交渉に応じた韓国政府を非難(カナダ外相)

「タリバンによる同様の手口が続くことになる」として、韓国政府の対応を批判(ドイツ議員)

また、ロイター通信は1日、タリバン司令官の話として“韓国政府がタリバンに対し人質19人を解放する見返りとして総額2000万ドル(約23億円)を支払った。司令官は、受け取った身代金を「武器の購入や組織内の連絡網整備、自爆攻撃のための費用に使う」と語った。”と報じています。
身代金については、いろんな情報が乱れ飛んでおり真相は今のところ“藪の中”です。

こうした批判・報道に対し、韓国政府は「国際社会の原則と慣習の範囲内で、各国も今回のような人質事件では犯人と直接交渉するはずだ。重要なのは自国民の生命を守ることで、それが国家の義務だ」との見解を示しているとのことです。【9月1日 AFP】

また、韓国国内で人質達の“軽率な”行動に対する批判が出ているのは、04年イラク日本人人質事件のときの日本国内での異常なほどのバッシングからも推測できます。
「プロテスタントは徹底的に反省しなければならない」(ハンギョレ新聞)
「教会が宣教について反省しなければ、国民の支持を得ることは難しい」(京郷新聞)

個人的には、人質交換をアメリカが認めない状況下で韓国政府は“うまく解決した”という印象を受けています。
“テロリストに屈するな”と言うのであれば、人質が拘束されている段階で「結果的に人質の生命が失われても止むを得ない」と明言したうえで主張すべきで、リスクのなくなった解放後の“筋論”には違和感を感じます。

そんななかで、身代金が“藪の中”状態であることがタリバン内部に疑心暗鬼を生んでいるというニュースが、人間の浅ましさという点でも、アフガン情勢の今後への影響という点でも、非常に興味深いものがあります。

【9月2日 毎日】
タリバン内部の各勢力の間で、身代金の授受をめぐり疑心暗鬼が生じている。
ガズニ州有力者によると、ロイター通信に対し韓国側から2000万ドル(約23億円)の身代金受け取りを認めたタリバン司令官は、韓国との直接交渉にかかわっていない人物。
有力者によるとタリバン各勢力の間には、ガズニ州のタリバン勢力に対し身代金の分配を求める動きも出始めているという。
また、地元有力者は「各地のタリバン司令官の中にはガズニ州の勢力が極秘に現金を受け取り、独り占めしようとしているとの疑心が生まれている」と指摘。


人質事件に関して、今日別のふたつの事件に関連したニュースを目にしました。
ひとつはロシア・北オセチアの学校占拠事件。

【9月2日 AFP】
ロシア・北オセチア共和国のベスランで発生した学校占拠事件から3年となる1日、学校の跡地で追悼式典が開かれた。
この事件では、2004年9月1日、チェチェン共和国からのロシア軍の撤退を求める武装集団が、1000人以上を人質に同校の体育館に立てこもり、2日後の9月3日、軍が強行突入を行った。
この時、武装組織との銃撃戦で332人が死亡したが、犠牲者の半分以上は子供だった。
(中略)
犠牲者の家族をはじめ国民の多くは、政府が突入時の事実を明らかにしていないと考えている。これまで実刑を受けたのが生き残った実行犯1人のみということもあり、人々はいらだちを募らせている。
体育館の内部に掲げられた怒りの言葉が連ねられた看板からも、深い悲しみや政治的混乱が今もこの地に残っていることがうかがえる。

殆ど裸の状態で逃げ惑う子供達の映像が印象的な事件でしたが、犯人グループの実像、強行突入の真相、なぜこんなにも大きな被害がでたのかについてはいまだ明らかにされていないことも多く、ネット上でもいろいろな情報が報じられています。
もしロシアで人質事件に巻き込まれたら、治安部隊の“強行突入”は覚悟したほうがよさそうです。

もうひとつは日航機よど号事件
【9月2日 毎日】
1日から始まった6カ国協議の第2回米朝国交正常化作業部会では、北朝鮮のテロ支援国家指定解除問題をめぐり、北朝鮮に残る日航機「よど号」乗っ取り事件(1970年)のメンバーらの日本への送還問題が争点に浮上すると見られる。メンバーとその妻らは日本人拉致事件への関与の疑いがあるため、米国は送還実現によりテロ支援国の指定解除の交渉を前進させるだけでなく、拉致問題での「進展」を後押ししたい思惑のようだ。
米朝関係筋によると、「米国には日本がよど号グループの送還を拉致問題の『進展』と受け止め、北朝鮮へのエネルギー支援に参加することへの期待がある」と説明する。

よど号事件の経緯をあらためて確認すると、赤軍派の荒唐無稽な「北朝鮮の赤軍化」構想、韓国の北朝鮮への執念など隔世の感がします。
この事件は結局赤軍派の要求をのむかたちで人質は解放されました。

77年に同じく赤軍派が起こしたダッカ日航機ハイジャック事件では、当時の福田首相が「人命は地球より重い」と発言、身代金支払いと超法規的措置による囚人の釈放・引渡しに応じました。
この際、反対する法務大臣を更迭しています。

同年には、これを模倣したと思われる西ドイツ赤軍によるハイジャック事件が発生しました。
西ドイツ政府は飛行機が留め置かれているソマリアのモガディシオに特殊部隊を派遣して、夜陰にまぎれて空港ビルに強行突入するハリウッド映画のような荒業で、機長1名を除く乗客・乗員を無事救出しました。

テロリストによる人質事件への対応は、事件の性格、時代、関係国によっても様々です。
唯一絶対のものは存在しないように思えます。
多分“超法規的措置”なんて今では非常に困難でしょう。

大体、日本の対応は“人質の生命優先”で“穏便な解決”を図ることが多かった訳ですが、これに対する批判は多々あります。
ただ、そのような日本の姿勢はこれまでの日本社会の“おだやかな”情勢を反映したものであり、また支えてきた発想であったようにも思え、私は嫌いではないです。
最近の国内のすさんだ事件の多発、社会の攻撃的な風潮などは、もはやそのような発想が通用しない社会に日本社会も変化しつつあるのかな・・・という感もします。



 
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トルコ 注目されるスカーフ 大統領夫人の場合

2007-09-01 18:46:39 | 国際情勢

(写真はトルコの女性達 スカーフの模様や巻き方・結び方も多様で、スカーフはファッションでもあります。“flickr”より By CharlesFred )

トルコの大統領選挙については、新聞等でも比較的詳しく報じていますので、ご承知の方も多いかと思います。
簡単にこれまでの流れをまとめると以下のようになります。

今年4月の大統領選挙で、親イスラム政党である与党・公正発展党(AKP)はギュル外相を候補にたてましたが、同候補のイスラム色が強いことから、政治と宗教を分離してきたトルコの体制にそぐわないと軍部が反発、全野党もボイコットしたことで大統領を選出できませんでした。

この混乱を解消するため、7月22日に総選挙を前倒し実施。
この総選挙で与党AKPはイスラム色を控え(公的な場での女性のスカーフ着用解禁を公約からはずす、イスラム色の強い候補者ははずすなど)、EU加盟交渉や経済成長の実績(年7%の高成長を実現、50%を超えていたインフレも一桁に抑制)を全面に出して戦いました。

野党はAKPが党としてイスラム色が強い政党であること、また、ギュル大統領候補が個人的にもイスラム色が強いこと(夫人は後述するように、筋金入りのスカーフ支持者)から、AKP出身の大統領ではイスラム化への歯止めがなくなり、憲法が定める政教分離の原則が危うくなると主張しました。(世俗主義の主張)
また、この体制をつくった建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来の伝統で、軍は以前から“世俗主義”の守護者として、政治が宗教に傾きかけると介入してきた実績があり、今回も世俗主義の堅持を強く求めていました。

総選挙の結果は与党AKPが46%の得票で圧勝。
“イスラム色云々よりは経済を良くしてくれる政党がいい”との有権者の評価だったと言われています。
(視点・論点「総選挙後のトルコ」内藤正典
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/4210.html
今回の総選挙結果には、民族主義政党の台頭、クルド人の議席獲得などのポイントもありますが、今回はそれらの点はパスします。

選挙後の大統領選挙に与党AKPは再度ギュル外相を擁立。
軍も「悪の勢力が計画的に共和国の世俗主義をむしばもうとしている」とする所感を参謀総長名で発表するなど恫喝的な行為もありましたが、与党の選挙圧勝を受けてそれ以上の動きは封じられたかたちです。
そして、8月28日にAKPのギュル元外相が大統領に議会の選挙で選ばれました。

トルコは99%がムスリム(大部分はスンニ派)ですが、憲法で政教分離が規定されており、公の場に宗教を持ち込むことも厳しく禁止された国です。

一方、与党AKP幹部議員の多くがかつて福祉党(90年代連立政権に参加するも、イスラム色が強すぎるなどの理由で軍によって退陣に追い込まれ、憲法裁判所から解党命令を受けた政党)に在籍していたことが示すように、イスラム主義政党の性格を持ちます。

AKP政権を率いてきたエルドアン首相も、かつてはやはり福祉党員で、また、イスタンブール市長時代には、“イスラム的言動があった”(政治集会でイスラム教を賛美する詩を朗読)として、被選挙権を剥奪され、実刑判決を受けて服役した経歴があります。
大統領選挙にエルドアン首相自身ではなく、ギュル外相を立てたのもこのような“傷”があるからです。

そしてギュル元外相・現大統領ですが、この人を説明するとき必ず“夫人がスカーフを常に着用している”ということが話題になります。
このことが、ギュル大統領のイスラム色の強さ、ひいては“世俗主義を崩すのではないか・・・”との疑念の証にあげられます。

もちろんイスラム教徒の99%の国ですから、女性はごく普通にスカーフ(現地では“ヒジャーブ”と呼ばれます)を着用しています。
しかし、宗教的とみなされるスカーフは、公的な場での着用が禁じられています。
そこで、「スカーフをしたファーストレディ誕生か?」などと話題にもなりました。
(これまでギュル大統領のハイルニサ夫人をはじめ、エルドアン首相夫人などスカーフ着用のAKP幹部夫人は、軍が主催する行事などには招待されなかったそうです。)


(写真は、結婚式に花嫁を見ようと集まった村の女性 殆ど全員がスカーフ着用です “flickr”より By Josh and Julie)


「スカーフぐらいでどうしてそんなに大騒ぎするのか」「宗教・服装は個人の自由ではないか」という意見もあろうかと思います。
しかし、このスカーフが常に問題になる(今回のトルコだけでなく、フランスのスカーフ禁止法、ドイツでの同様の裁判、あるいは、逆にイスラム国でムスリムあるいは異教徒にスカーフ着用を強制することの問題など)のは、観念的に言えば“国・国家と宗教の優劣関係”という問題になるかとは思いますが、もっと直接的にはイスラムの国に一歩降り立てば感覚的にすぐにわかります。

街を歩く女性達のスカーフ姿は、強烈にこの地がイスラムの国であることを感覚に直接訴えてきます。
“一目瞭然”というのはこのようなことを指すのでしょう。
他にもイスラムを感じさせるものは、モスクや響き渡るアザーンなどいろいろありますが、スカーフ姿はその中でもその存在感が圧倒的です。
まさに宗教、そしてその宗教を基盤にした社会をシンボライズする存在です。

そしてスカーフが今回問題になったのは、スカーフの持つ強い象徴性だけでなく、今回のハイルニサ夫人自身の経歴が更に“圧倒的”だったこともあるでしょう。

彼女は1980年に15歳でギュル氏と結婚し、中退した高校はのちに高卒認定試験で完了しました。
その後(98年)大学を受験、アンカラ大学言語・歴史・地理学部アラビア語学科に合格しましたが、スカーフを被った写真を提出した彼女の入学は認められませんでした。

彼女はこの措置を不服として、国家評議会で訴訟を起こします。
しかし、国内の法に限界を感じ、2002年欧州人権裁判所へトルコを被告とする訴訟を起こし、10万ユーロ(1600万円)の賠償金を請求したのです。

04年に欧州人権裁判所は同種裁判で否定的な判決を出します。
そしてハイルニサ夫人は自身の訴訟を取り下げました。
この訴訟の間に夫ギュル氏は外相に就任しています。
夫人は訴訟取り下げについて「私はまだ自分が正しかったと信じています。欧州人権裁判所に起こしたこの訴訟は、まるで私が罪を犯したかのように常に様々な意味を与えられてきました。私がしたのは、合法な人権追求であり、欧州人権裁判所に対し個人による訴訟を起こす権利を行使したにすぎません。また夫の職業のために、私たちは原告でもあると同時に被告でもありました。訴訟を起こした時、夫は大臣でも首相でもありませんでした。取り下げる決断を下した実際の理由は、判決が論争を呼ぶような事態を避け、信頼と尊厳を守るためです。残念なことに、この訴訟は政治の具と化してしまっていたのです。」と述べています。
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20070426_011452.html#top 

この訴訟について夫ギュル氏は当然“夫”として支持してきたと思われます。
夫人の入学が認められなかった際は、夫人を同伴して学校に乗り込み、記者団に強く学校側の不当性を訴えています。
更に言えば、高校を中退して15歳で結婚した夫人がトルコ国家を欧州人権裁判所に訴えるまでに成長したのは夫ギュル氏の薫陶を受けてのことでしょう。

AKPという党のイスラム政党としての出自、ギュル夫妻の個人的なイスラムへのかかわり度合い・・・これらが、公的な場でのスカーフ着用解禁を公約からはずす措置とか、“世俗主義”は堅持するという明言にもかかわず、「今後トルコの政治・社会は変化するのではないだろうか・・・」という疑念を抱かせる訳です。

7月の与党AKPが圧勝した選挙結果は、“イスラム色云々より経済の発展・成を有権者が求めた”と言われていますが、別な言い方をすれば、「政治にイスラム色が多少出てもかまわない。トルコはイスラムの国じゃないか」という国民のイスラムへの志向が根底にあるのではないでしょうか。

世界の一般的傾向として、グローバリゼーションの進行に伴い、競争からこぼれ落ちる多数の貧者・弱者を生んでいます。
このような者に社会的公正、相互扶助、貧者の救済などを訴えるイスラムの教えが受け入れられることで、イスラムへの人々の傾斜が強まってきたと思えます。

トルコにおいても経済成長は他面において競争・格差を増大させ、これが人々のイスラム志向を強めたということ、それがAKP躍進の背景にあったということはないでしょうか。
(その経済成長を実現したのはAKP政権だという皮肉な関連もありますが)
また、EU加盟交渉で西欧諸国から突きつけられるハードルに対する反発が、国内のイスラムへの志向を増長している側面もあるのでは。

イスラムはその教え(シャリーア イスラム法)で人々の暮らしを、ひいては政治・社会のありようを律する側面が強い宗教で、政教一致の形態が歴史的にも見られます。
イスラムの教え(と信じるもの)を文字どおり社会に適応しようとすれば、タリバン政権のようないわゆるイスラム原理主義になります。


(このような全身スッポリタイプはトルコやマーレーシア・インドネシアなどではあまり多くは目にしません。 アフガニスタンなどでは多いようです。
一口にスカーフといっても様々です。 “flickr”より By Marco Adams )

イスラムとの関係でどのような国家を作るかということは、もとよりその国民の選択するところです。
重大な権利侵害等さえなければ、他国の人間がどうこう言うことでもないでしょう。
ながながとトルコの状況について書いたのは、いわゆる西欧的民主主義的なものとイスラムのバランスをとって、イスラムの国にありながらイスラムを政治から厳格に排除する現在のトルコ・AKPの試みが今後どうなるのかに興味をひかれたからです。

一旦宗教にバランスが傾くと、“宗教的情熱”は純粋化を求め、その流れに抗うのは“不信心”のレッテルを覚悟する必要が出てきます。
特にトルコのようにムスリムが殆ど全員という国にあっては。

なお、30日、首都アンカラで行われた軍主催の戦勝記念日を祝う軍事式典に当然ギュル大統領は出席しましが、スカーフ着用のハイルニサ大統領夫人は招待されなかったそうです。

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