明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ロクな目に遭わなかったのは、何も朝ドラ『虎に翼』時代の女性ばかりではない。こんな目に遭うのは私が子供だからだ、と思った小3の私だったが、大人になったところで渡世によってはやり難いように出来ている。根っこはいずれも一緒てあろう。大映の増村保造監督が中学の頃から好きだが、偉そうな男が次第にボロボロになり、それに反して女がみるみる強くなって終わったり。東大法学部の同級生、三島由紀夫が大映の出演オファーにチンピラヤクザ役なら、と自分と正反対の、好みのタイプになりたがったが、増村はその『からっ風野郎』(60)で散々シゴキまくった。長く続けた作家シリーズの最後に三島を選んだ私だが、男性の筋肉の有位性を疑わない三島を、現代の総合格闘技のジムにお連れし、女性格闘家にキメられながらギブアップ出来ずに泡吹いて目を白黒させている三島に、気付かないふりして外の景色を眺めてみたくはある。

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TVでミュージシャンが、ヒット曲について、ただ好きなことやるなら1人でやっていれば良い、といっていた。まさに私はその口であろう。ヒットどころか需要など何も考えないので、そんなことやるべきでない、とかつては友情を持って止めてくれた連中もいたが。先日、大人になったら、好きなことばかりやってやる、と誓った小3の時の話を書いたが、基本何も変わっていない。しかし数百年前の、袖口から金の龍が顔を出し、膝上に2匹の鳩が止まる人物を作りながら、そうしなければ触れることの叶わない世界もあるのではないか?と思うのである。 先日、ホームの母にお寺で展示することを伝えたが、本屋の店先で、大人向けの『一休禅師』をねだる私に読んだって判る訳ない、と止めたことを覚えている母に「一休さんも出すよ」というと、可笑しそうに笑った。私には、結局こういうストーリーだったのね。そんな顔に見えた。

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無学祖元の膝上の2匹の鳩を作り直す。禅師の膝上に乗っていながら関係ないような顔をしていた鳩を、2匹とも禅師の顔を見上げさせた。 長期間の予定、目標は途中挫折の元である。なので先のことは判らないけれど、流れ上、日本に初めて禅をもたらせた栄西は作ることになりそうだし、道元も並べてみたくはある。 作る前から心配?していた栄西の円筒形の頭(修行の末に伸びた説有り)思いの外難航した蘭渓道隆、またさらに道元も、見事に個性的な面相である。事を成すから個性的なのか、個性的な人物が事を成すのかは判らないが、幼い頃から人間の内容もさることながら、人のカタチも興味の対象であったから、作家が江戸、明治生まれ以降、個性的な顔が失われて来たのは、歴代文学賞受賞者の面相を見ながら嘆いたものである。そう考えると、数百年前は個性的な顔に溢れている。

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一日  


半僧坊用の台座の板にワックスをかける。サイドはゴツゴツした欅をスライスした板である。不動明王の火焔のような炎に囲まれた中で霊力を発する予定。火焔を作りたくなるが、展示用で撮影には使わないので我慢する。写真作品用には帆柱を作らなければならない。雷鳴轟く東シナ海。帆柱のてっぺんにスックと立ち霊力を発する。私の半僧坊は坐骨神経痛を退散させ、血糖値を下げる霊力まで有する。嵐なのだから帆は畳んでいるだろう。滑車とローブを着け、電柱ではないところを示したい。 蘭渓道隆の顎を作者も気付かない程度削った。

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日々を積み重ねながら作っていると、積み重ねているのだから毎日が人生上の最突端。先週より今週、昨日より今日ということになる。モチーフ、手法を変えながら作って来たが、あの頃のあれが一番良かった、という人はいるが、作っている本人からすれば、最突端が一番である。 毎年大晦日のブログで昨年まで出来なかった、思いつかなかったことをやったか、と振り返るのを恒例としているが、去年と今年が同じであればただ一つ歳を取っただけ、なんて恐怖でしかない。 一昨日ブログで小3の時の担任教師の一言が、独学我流者となる遠因になった、と書いたが、小4で母にねだって読んだ大人向けの『一休禅師』。〝門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし” 初めて聞く言葉にいたく感心した小学生だったが、その一休和尚こそが、本日が人生の最突端、というオメデタイ私を作ったのではないか。という気がしてきた。

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3週間ほぼ動かなかったというのは、筋肉の回復に思いの外かかるようである。鎮痛テープを毎日貼ってたせいか、膝の内側の皮膚感覚がぼんやりしたままである。まぁそうはいっても、痛くて妄想一つ湧かないよりはマシである。ただの散歩は出来ないので、せいぜい買い物に出掛けることにしている。近所だけど。 一つの頭部に、複数の身体を作り、別な場面を作ることは良くある。半僧坊は、嵐、また猛火の中、印を結んで霊力を発する半僧坊は、一つで充分だが、蘭渓道隆は、その分、坐禅姿だけというのはあまりに惜しい。同じ坐禅姿でも、無学祖元は1カットは蒙古兵に剣を喉元に向けられているし、もう1カットは、龍や鳩をまとっている。となると蘭渓道隆は立ち姿か。建長寺にも『経行像』が残されている。経行というのは坐禅の合間に静かに歩いて、眠気や脚の状態を整えることだそうである。建長寺の作品は、松の枝と滝が配されているが、創作の余地が大いにありそうである。

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フェイスブックで再会した小学1年〜3年の同級生OFさんと久しぶりにメールのやり取りをした。彼女は勇気ある正義感の持ち主で、虐められてる子を良くかばっていた。風邪を引くとガーゼに刻んだ長葱を首に巻いて来たが、嫌だったろうが、はずそうとはしなかった。彼女によると私は休み時間でもいつも絵を描いだそうである。 担任の中に良くドジョッコフナッコを歌わせる〝ドジョッコ先生”と慕われた、まるで田舎の教師の趣きの先生がいて、何人かの連中と家に遊びに行ったのを覚えている。学年主任だったか、私の絵を〝子供の絵じゃない“と問題視する教師がいたが、全員参加の交通安全ポスターのコンクールに、ドジョッコ先生は私の絵だけ出すのを忘れた、といった。私はこの一言が、独学我流の人生を歩む遠因となった、と本気で考えている。一方産休の代理教員の田中◯子先生は転校の際、あまりに人物伝の類いばかり読みまくる私に、内緒で『世界偉人伝』を買ってくれた。私が作った葛飾北斎と陶淵明はこの挿絵の記憶が元になっている。 算数なんてこんなつまらない物が大人になって必要になる訳がない。こんな目に遭うのは子供だからだ、大人になったら好きなことだけをやってやる!執念の炎を燃やす小学3年の私であった。

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昔ある名僧が居たとして、斜め45度の肖像画が残され、名僧のイメージとなって延々と後世に写され続ける。その間、立体像も多数作られる。件の肖像画を元に作られただろうが、すでに誰も正面顔を見たことがないから、作り手により様々解釈され、別人が如き像が残される。蘭渓道隆はもとより、おおよそそんなところではないか。来週より始まる『法然と極楽浄土』でもお馴染みの数珠を手にする法然像と、同一人物とは思えない立体像が並ぶだろう。 松尾芭蕉を作る時、全国に二千体あろうかという芭蕉像は、俳句的?に老人臭く描かれるのが通例で、門弟等が残した芭蕉像が無視されている。後世の、その恩恵に浴する立場で失礼だと考える。この件に関しては、最後の文人画家だか知らないが、富岡鉄斎であろうと、実在した人物は、自由に描けば良いというものではないだろうと思う。実在した人物に対してはずっとそんな心持ちで制作して来た。

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円覚寺開山、無学祖元は、我が姿を刻むことあれば袖から金龍、膝上に蒼い鳩を、と言い遺したそうである。それは来日前に、金の龍と蒼い鳩を伴った神が〝我が国に教えを伝えよ”と繰り返し現れた。来日後、鶴岡八幡宮の鳩を見て、あれは鶴岡八幡の神だったのだ、と悟ったという。 円覚寺の禅師像は、背もたれに龍と鳩なので、遺言通り袖から龍、膝上に鳩にしてみた。蘭渓道隆、無学祖元、半僧坊も、仕上げ着彩を残すのみとなった。 しかしまだ撮影開始とはならない。私ほどの面倒臭がりが、被写体、背景すべて自分で作れ、という試練を与えられている。その代わり、陰影のない石塚式ピクトリアリズムは、使用機材、制作法に対し、一度も質問をされたことがない。それは、かつて水晶製レンズまで入手し、修験者の技のような古典技法を通過した挙句の成果と考えている。

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6センチほどの頭部に数ヶ月かけ、坐骨神経痛で仰向けに寝たまま作り続けたところを見ると、余程作りたかったとしか思えないが、個性的で斜め45度を向いた禅師の肖像を真正面から見るためには、もっとも実像に近いと思える陰影のないフラットな肖像画に陰影を与えて立体化の後、こちらを向いてもらうしかない。それというのも、各地に残された蘭渓道隆像が、それぞれ別人の様相を呈していたからである。噂話だけを元に作られたかのような物もある。そもそも国宝である肖像画と、亡くなった直後に作られたであろう彫刻が、同じ建長寺の収蔵物でも別人に見えた。私にはこの方法しかない。


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大覚禅師こと蘭渓道隆師は、着彩を残しおおよそ完成としたい。完成させるのが惜しいような、初めての気分である。線描画から立体像を作るのは、創作の余地があるので楽だが、迫真の描写でありながら、陰影のない頂相を立体化する難しさ。人間の顔についてのデータの記憶量がものをいうことが判った。 日本人にとって陰影は説明である、と画家の方がいうのを聞いたが、それから立体を起こし、それをまた陰影を排除した画に変える。こうして書くと、一体私は何ををやっている、と思うが、こうせずにはいられない事情が私にはあるはずなのである。蘭渓道隆を人間大に拡大した時、それが判明するのではないか?ただの酔狂で数ヶ月かけて、こんな面倒なことをする訳はないだろう。ヘソ下三寸に居るもう一人の私は、常にこうして私をどこかに連れて行くが、出来れば早く解明し、最初から緻密な計算に基づいて制作して来ました。という顔をしたい。

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朝目が覚めると、まず大谷のドジャースの放送予定をチェックしやっていたら観るし予約をする。今朝はいきなり9号にさらに10号。幼い頃、私には力道山とゴジラは完璧なフォルムを持っているように見えた。今の子供には、大谷がああ見えているだろう。 半憎坊の残っていた背面の仕上げ、また蘭渓道隆師の仕上げ。キリの良いところでアリオに行き、食事と買い物、歩数を稼ぐ。 もう1人の円覚寺の開山、無学祖元師は、蘭渓道隆と違って、円覚寺に残された木像を元に制作した。つまり複数の角度の写真を参考にした分、完成は早かった。しかし数百年前とはいえ、他人の作った物をただ写すなら、面白くも可笑しくもないので頼まれてもやらない。イメージがひとたび浮かんでしまい、私が作らなければ観ることが出来ないなら作るしかない。その場合、需要など一切考えないのが最大のコツである。

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坐骨神経痛のせいで、約3週間、ほとんど天井見上げて過ごしたが、そういえば、と思い出した。20年ほど前だったか、空、地面、壁、海、樹木など、あらゆる物を撮影しておいて、足腰が立たなくなってもそんなデータを組み合わせれば背景には困らないだろう、と本気で考えデータを溜め込んでいた。この企みは、ハードディスクが壊れて計画は頓挫した。 今思い出しても本気でそんなことを考えていたと思うと可笑しいが、陰影のない頭の中のイメージに、この世の物かのように、光と影を与える奇妙さにまだ気がついていなかった。今となっては、中国の深山風景も、手のひらに乗る石ころで作るくらいで丁度良い、という境地に至った。〝明日出来ること今日はせず“


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連休  


10代の頃から連休などはカタギの友人と旅行でも行かない限りは、家で何か作っている。神経痛で苦しむことは幸い避けられた。テレビではオーバーツーリズムとか鎌倉の様子を紹介している。 最近のモチーフは『寒山拾得』以来、禅宗的である。特に臨済宗が、場合によっては鼻毛耳毛までそのまま描く迫真の肖像画(頂相)を卒業証書のように師から弟子に残すことを知り、人像表現の究極と思うようになった。モチーフがモチーフだけに、寺が多い鎌倉辺りで、と考えていた。ハタからはどう見えているのかは知らないが、そもそも美術だ芸術だアートだ、などと考えて制作していない。詳細は未定だが、頭に浮かんだイメージを人間大のサイズのプリントで、鎌倉の寺で披露すべく本日も制作している。 フランケンシュタイン博士も、ひたすら自分が作った人間が動く所を見たかったろう。助手の出来が悪くて結末はまずいことになったけれど。

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一日  


立像の蘭渓道隆禅師の像は、絵画はあるが立体はあるのかどうか?となると激痛が去った後の、ヘソ下三寸に居るもう1人の私が〝泣いたカラスがもう笑った“とばかりにかま首をもたげ始めるから注意を要する。しかし数ヶ月祈り続けた頭部がすでにあるのだから。イメージを広げなければ面白くない。写真作品としては、一年以上手がけていないので、そろそろそちらを始めるべきだが、美味しい物は最後に、的な。そういえば前回、個展一月前に、中国の深山風景の作り方を思い付いた時、追い詰められた分、ヨダレを垂らさんばかりの快感を味わった。幼い頃にこの物質に取り憑かれたまま今に至っている。 午後から近くのアリオに行き、食事したりお茶飲んだり、せいぜい歩き回る。

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