四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

草の乱~秩父事件

2022年04月14日 | 歴史の探求

 14日㈭、夕方から北近畿クリーンエネルギー㈱松崎浩憲取締役藤本宏和企画課長と会って、京都府舞鶴エネルギー供給事業の進捗について説明を受けた。京都北部でのLNGの供給に関して、コンソーシアムへの参画企業の名前を正式に出せるようになり、ようやく事業の輪郭を発表できる段階に近づきつつある。

 夜には舞鶴池田正義府議にも合流していただき、会食。

 

 米農家の井上吉夫さんから案内をいただいたので、一昨日の夜志賀郷公民館での映画「草の乱」の無料鑑賞会に参加した。

 小源太も誘ったら来てくれるというので一緒に行った。映画が終わって立ち上がったら、後ろの席に父がいた。四方家三代で観るのは一昨年の「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」以来だった。

 この映画を観たのは二度目。昔の日記を調べたら2004年(平成16年)11月27日に中丹文化会館で上映会が行われていた。小源太が生まれたのはこの年の8月で、翌9月に映画公開されている。

 前回観た時主人公である秩父困民党・会計長の井上伝蔵(緒方直人)の気持ちになって観たが、今回秩父困民党・総理の田代栄助(林隆三)の気持ちになって観ていた。当時は国会開設すらされておらず、民主主義が全くない時代困窮から逃れるには武装蜂起するしかなかったが、それが最終的には悲劇へとつながっていくことが分かっていた田代栄助の苦悩に共感した。前に観た時「なんと煮え切らないオッサンだ」と感じたように覚えている。

 もう一点エンドロールの最後JR東日本労組がメインスポンサーとして登場していたことにも、今回は気がついた。

 小源太と感想を話しながら帰った。

 

 また、その年の10月、秩父事件120年目(椋神社での決起は明治17年/1884年11月1日)記念して秩父出身井上直治さんが企画された「城峯山登山と秩父事件の跡をめぐる」日比谷一水会ハイキング旅行が開催され、10月30日、31日と初めて秩父を訪問している。

 記憶というのは曖昧なもので、秩父に行った記憶はあったものの、どういう旅だったか全く忘れていたが、日記に書き留めていたので、ここにも書いておきたい。2時間かけて山に登った記憶も全く欠落していた。

2004年10月30日「城峯山」

 朝6時過ぎに起きて、西武池袋駅に。そこで富山さん、高橋尚介さんら、日比谷一水会のメンバーとも合流した。今日は日比谷一水会のハイキングに久しぶりに参加した。

 東京にいた頃は、日比谷一水会(洋伯父が主宰する勉強会)の事務局をしていたので、ハイキングやゴルフというサークル活動にも時々参加していた。ハイキングは、富山さんと尚介さんが幹事をしておられる。今回は、井上さんの故郷である秩父を訪ね、「秩父事件」の跡を巡るハイキング旅行だった。

 秩父に着いたら、雨模様だった。民宿のご主人にバスを運転していただき、城峯山の登山口に行った。城峯山は標高1000mほどの山で、この山頂で秩父事件の秘密会合が行われていたそうだ。

 登るのは2時間程だったが、朝から何も食べていなかったので、空腹が苦しかった。雨も降っていて、登りにくい環境だった。

 下山して、民宿に行き、吉田町教育委員会で社会指導主事をしておられる秩父事件の研究家・篠田健一さんによる講義を受けた。ビデオも交えて、秩父事件の輪郭がようやくつかめてきた。

 夜は懇親会があった。こだわりの料理で、最後は手打ちそばも出てきて、おいしかった。

 

2004年10月31日「秩父事件」

 9時から、篠田先生にも同行していただき、秩父事件の史跡を巡った。秩父事件は僕は名前くらいしか知らなかったが、奥の深い事件で、今年「草の乱」(緒方直人主演、神山征二郎監督)で映画にもなった。

 単なる一揆や打ちこわしとは違う、新政府の藩閥政治による悪政を糾そうとする政治事件でもあった。事件が勃発したのは、120年前の11月1日。それに合わせての今回の企画だった。

 椋神社(吉田町、秩父市の隣町)に集まった3000人の武装農民(秩父困民党)は、高利貸を襲撃して、暴利の借用書を燃やし、大宮郷(現在の秩父市)の秩父郡役所を制圧した。ここに「革命軍本部」という看板を掲げる。ここに秩父困民党が何をしようとしていたのかが表れていると思う。

 困民党の指導者は、貧困に苦しむ農民ではなく、豪商や豪農、土地の名士達だった。映画では緒方直人が演じた会計長・井上伝蔵は、将軍家御用達の老舗「丸井商店」の主人で、地域の人たちからは「丸井の旦那」と慕われていた。伝蔵は事件後も2年間、自宅の近所に匿われ、34年に渡って逃亡生活を続け、最後は北海道で生涯を閉じた。

 井上伝蔵は事件の時、僕と同じ30歳だった。他にも20代や30代の若者達が幹部として、困民党を指導している。

 秩父事件の関係者は政府による苛烈な弾圧を受け、「暴動・暴徒」と決め付けられていたという。秩父市民でも20年ほど前まで、そういう評価が主流だったそうだ。それほど、時の政府が厳しく対処したということだろう。

 今日は、落合寅市の墓、加藤織平の墓、石間学習交流館、丸井商店跡地、井上伝蔵の墓、椋神社、伝蔵屋敷(復元)、常盤屋(当時の高利貸)、音楽寺、金仙寺(田代栄助の墓)などを見学した。

 秩父駅で解散し、再び東京に戻り、綾部へ向かう。21時25分の特急にギリギリだった。綾部に帰ってくるとホッとした。綾部と秩父は養蚕という共通点があるが、綾部の方がずいぶん豊かだなあと感じた。東国の厳しさは西国の比ではないなあと感じた。


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