再掲/2012年8月15日敗戦の日放送NHKスペシャル「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」文字化

2019-08-15 05:48:50 | 政治
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 日本の首相安倍晋三センセイが加計学園獣医学部認可に首相としての権限を私的に行使し、私的に行政上の便宜を図る形で政治的に関与し、私的便宜を与えたとされている疑惑を国会答弁や記者会見から政治関与クロと見る理由を挙げていく。自信を持って一読をお勧め致します。読めば直ちに政治関与クロだなと納得できます。よろしくお願いします。

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 2012年8月15日敗戦の日放送の当番組を文字化して、2012年8月17日と8月18日に二度に分けてブログにエントリーし、数日置いてこの番組の解釈として当時の国家指導者とそれに連なる官僚等の責任不作為について同じくブログにエントリーしたが、この放送から約4ヶ月後の2012年12月26日に国家主義者であり、戦前型天皇主義者でもある安倍晋三の第2次安倍政権に入ってから、その影響から日本が顕著に右傾化していく状況を目の当たりにして、それへの警告も含めて、2019年8月15日の敗戦の日を迎えて、文字化した内容を一つに纏め、少々書き直しも含めて、再度エントリーすることにした。可能な限り忠実に文字化してあると思うが、意味が伝わらない箇所があったなら、ご容赦願いたい。

 戦前の日本国家とその軍隊を賛美するのか、否定的に捉えるのか、解釈は“表現の自由”です。

 俳優の竹野内豊(48歳)が進行役を務めている。当時は41歳と言うことになる。見た目の印象はもっと若く見えたが、番組を見た頃は年齢が何歳とは考えもしなかった。放送側の登場人物の、「~しました」といった丁寧語は省略して、「~した」というふうに表現した。

 竹野内豊「今日は8月15日、多くの犠牲を生んだ太平洋戦争が日本の敗北で終わった日。なぜあのとき、日本はアメリカと戦い続けたのか。なぜもっと早く戦争をやめることができなかったのか。

 NHKではこれまで未公開だった資料や膨大な関係者の証言を検証してきた。その結果、新たに多くのことが分かってきた。敗戦間際まで本土決戦を叫んでいた日本の指導者たちは実は早い時期から敗北を覚悟し、戦争終結の形を模索していた。

 ならばなぜ戦争終結の決断はできなかったのか。

 67年前の歴史の闇に迫りたいと思う」

 ここで画面に、『終戦 なぜはやくきめられなかったのか』(The end of the war)の文字。

 オリンピック開催中のロンドンが映し出される。

 ナレーション(女性)「イギリス、夏のオリンピックが開催されたイギリス、ロンドンから、戦争末期の日本の歴史観を塗り替える大きな発見があった」

 イギリス国立公文書館建物。その内部。

 ナレーション(女性)「第2次対戦当時の膨大な機密書類が保管されている」

 イギリス人女性館員「これは当時の日本の外交官や武官が本国と遣り取りしていた極秘電報です。それをイギリス側が解読していた。

 ナレーション(女性)「(『ULTR』)ウルトラと呼ばれる最高機密情報。この中に日本のヨーロッパ駐在武官が東京に送った暗号が残されている。数千ページもの極秘電報の中から今回見つかったのは戦争末期の日本の命運を左右する、ある重大な情報である。

 昭和20年5月(24日)、スイス・ベルン(駐在)の(日本」海軍武官電報。

 『ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した』

 当時の日本が知らなかったとされるソビエトの対日参戦情報である。

 昭和20年8月9日、ソビエトは中立条約を破棄して侵攻した。敗戦の決定打ともなった対日参戦が日本では不意打ちだったとされてきた。

 この半年前(昭和20年2月)、ヤルタ会談でアメリカ、イギリス、ソビエトの間で密約の形で取り決められたソビエトの対日参戦。もし日本がこの情報を事前に掴んでいたなら、終戦はもっと早かったとも言われてきた。

 しかし情報が届いていたことが確認された」

 ヤルタ会談でのチャーチル、ルーズベルト、スターリンの写真が映し出される。

 ナレーション(女性)「情報が届いていたにも関わらず、なぜ早期終戦に結びつかなかったのか」

 防衛省防衛研究所の建物。

 小谷防衛研究所調査官「これは結構新発見じゃないですか」

 ナレーション(女性)「情報機関の研究が專門の防衛研究所、小谷賢調査官。NHKと共に共同で極秘電報の分析に当たってきた。

 参戦情報の報告は一通だけではなかった。6月(昭和20年6月8日)、リスボン(駐在)の(日本)陸軍武官電」

 男性ナレーション「(電文)7月以降、ソ連が侵攻する可能性は極めて高い」

 ナレーション(女性)「同じ6月(昭和20年6月11日)、ブルン(駐在)の(日本)海軍武官から」

 男性ナレーション「(電文)7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」

 ナレーション(女性)「驚くことにヨーロッパの複数の陸海武官が迫り来るソ連参戦の危機を刻々と警告していた」

 小谷防衛研究所調査官「今までは日本政府は陸海軍共、ヤルタの密約については何も分かっていなかったと。で、8月9日のソ連参戦で初めて、皆がびっくりしたというのが定説だったと思いますけれども、やはり情報はちゃんと取れていたことがですね、この資料から明らかになっていると思います。再考証が必要になってくる事態ではないかと思います」

 ナレーション(女性)「早くから把握されていたソビエトの参戦情報。その一方で研究者や公的機関に残されていた軍や政府関係者の專門の証言テープからも、新たな事実が浮かび上がってきた。

 国のリーダーたちは内心では終戦の意志を固めながら、決断の先送りをしてきたことが明らかになってきた」

 陸軍省軍務課長(録音音声)「阿南(陸軍大臣)さんの腹ん中は講和だったんですよねえ。始めっから講和なんですよねえ。

 ところが(徹底抗戦)を主張せざるを得なかったわけですよね」

 終戦工作担当海軍少将(録音音声)「3人以上だとね、あの人(鈴木貫太郎首相)何も喋らない。だけど、差しだと本当のこと言うんです。腹とね、その公式の会議に於ける発言とね、表裏がね、違って、一体いいものかと――」

 後に出てくる高木惣吉海軍少将のことらしい。

 ナレーション(女性)「大戦に於ける日本人の死者310万人。犠牲者は最後の数カ月に急増していた。

 そしてシベリア抑留者、中国残留孤児、北方四島問題など、後世に積み残される様々な課題が戦争最後の時期に発生した。

 もっと早く戦いをやめ、悲劇の拡大を防げなかったのだろうか」

 『熊本県人吉町』のキャプションとその街のシーン。

 ナレーション(女性)「終戦の歴史を紐解く上で重要な一人の軍人の故郷(ふるさと)が熊本県にある。川越郁子さん。親族として個人が残した膨大な資料を大切に保管してきた。

 海軍少将高木惣吉。戦争末期、海軍トップの密命を受け、戦争終結の糸口を探る秘密工作に当たっていた人物です(国内工作)。終戦工作の過程を克明に記録したメモ等が近年になって次々と発見され、殆ど記録に残っていない戦争末期の国家の舞台裏が生々しく蘇ってきた」

 録音機の映像。

 ナレーション(女性)「未公開の内容を多数含む複数の肉声の存在も明らかになった」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「目ぼしい連中をね、当たって、『どうだろう、終戦をやろうじゃないか』、陰謀をやってたわけなんです。松谷くん(陸軍大佐松谷誠)とはしょっちゅう会ったし、個人的にも会ってね、段々こうして話しているとね、こんなにね、(戦争終結の)見通しっていうのは違っていないんですよ。やっぱりね。

 終戦という言葉は使いませんよ。だけど、戦局はもう、ものすごくクリティカル(重大)な点にきているというようなね、そういう表現で、殆どの意見はそんなに変わらない」

 主たる登場人物の肩書きと写真。

 海軍大臣 米内光政(よない みつまさ)
 陸軍大臣 阿南惟幾(あなみ これちか)
 外務大臣 東郷茂徳
 宮中(内大臣) 木戸幸一
 
 海軍少将 高木惣吉
 陸軍大佐 松谷誠
 外務大臣秘書官 加瀬俊一
 内大臣秘書官長 松平康昌
 
 ナレーション(女性)「陸海軍、外務省、宮中、高木は主要な組織の中に連携する人物を見つけ意見を交換しながら、終戦の実現を目指そうとしていた。

 事態が大きく動き出したのは昭和20年春からである。4月、米軍はついに沖縄に上陸を開始し、戦場は本格的に日本国内へと移った」

 B29が爆弾を次々に投下していく空襲シーン。

 ナレーション(女性)「日本本土は連日の空襲に曝され、3月と4月だけで20万人の犠牲者を生んでいた。5月には同盟国ドイツが降伏。その翌日、アメリカのトルーマン大統領は日本の軍部に無条件降伏を要求した。

 竹野内豊「このとき国家のリーダーたちはどう考えていたのだろうか。その主役は6人の人物だった。内閣総理大臣の鈴木貫太郎、外務大臣の東郷茂徳、陸軍大臣阿南惟幾、海軍大臣米内光政、陸軍参謀総長梅津美治郎、海軍軍令部総長及川古志郎。

 当時の国家組織は軍と政府が別々の情報系統を持ち、事態が悪化する中に於いて情報を共有しないなど、タテ割りの弊害が露わになっていた」

 竹野内豊「この際、6人のリーダーはタテ割りを排し、腹を割って本音デ話そうと側近を排除した秘密のトップ会議を始めることにした」

 ナレーション(女性)「昭和20年5月11日、6人のリーダーが極秘に宮中に集まった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 外務大臣東郷茂徳「我々6人のみで戦争終結への道筋をつけたいと思った次第である。まだ国力があるうちに着手すべきである」

 ナレーション(女性)「軍のトップも戦争終結が最大の課題だと認識していた。講和を結ぶのは米軍に対して一撃を加えたあと、というのが条件としていた。

 一撃でアメリカが動揺を来たしたところで交渉を持ちかけ、少しでも有利な条件で講話しようという考えである。

 その際の日本のベストシナリオとして浮かび上がったのだ、中立を守る大国ソビエトを交渉の仲介役に利用しようというものだった」

 日本のこれまでの戦績の一覧がキャプションで示される。

 サイパン島陥落 昭和19年7月
 硫黄島陥落 昭和20年3月
 
 陸軍大臣阿南惟幾「まだ日本は領土をたくさん占領している。負けていないということを基礎にしてソ連との話を進めるべきだ」

 海軍大臣米内光政「我が国にもっと有利になるような友好的な関係をソ連と築くチエはないのか」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣はソビエトへの大幅な譲歩を提案した」

 外務大臣東郷茂徳「対ソ交渉を進めるには相当の代償を考えておく必要がある。ソ連の要求をある程度呑むという決意が必要である」

 ナレーション(女性)「長年、日本の仮想敵国であったソビエト。しかし、アメリカ、イギリスと同じ連合国側とは言え、必ずしも一枚岩ではないとの見方があった。

 実際にソビエトへの譲歩が真剣に議論されていた様子を当時の外務省の幹部が戦後に証言している」

 外務省政務局長安東義良「終戦する以上は満州からね、日本の兵隊を引き揚げちゃおうと。中立化しちゃおうと言うんだ、東郷さんが、『梅津参謀総長と僕と米内さんと』と言っておられた。

 3人でいよいよ終戦する以上は、日清戦争前までの状態に返らなきゃならんかもしれんと。

 いやいや、日露戦争前までぐらいではいかんだろうかって言うようなことをお互いに話をしたっていうことを僕に言われたんですよ。与えるべきものはこっちも与えると。向こうに対して譲るべきものは譲ると」

 ナレーション(女性)「ソビエトを和平交渉の仲介役などに利用しようかという議論を終戦間際までトップ6人の間で続くことになる」

 竹野内豊「ここで重大な疑問が浮かぶ。間もなくソビエトが攻めてくることを指導者たちは知っていたはずだ。ロンドンで所在が確認された日本の武官情報。その情報は5月以降、時期や規模などが急速に具体性や精度を上げてきており、陸海軍トップはこれを真剣に受け止めていたはずだ」

  前出の武官電がキャプションで再度掲載。 

 スイス ベルン海軍武官電 昭和20年5月24日 「ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した」
     ベルン海軍武官電 昭和20年6月11日 「7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」
     
 竹野内豊「しかし、このソビエトの参戦情報については、なぜかトップ6人が話しあった形跡はない。

 ソビエトの出方を話し合う6人の秘密会議は6月以降も続いていた。果たして情報はきちんと伝わっていたのか」

 ナレーション(女性)「トップ6人の1人だった東郷外務大臣はソビエトの参戦情報を知っていたのだろうか。参戦情報が早い時期から伝えられていたことは外交官として活躍してきた孫の東郷和彦さんにとっても大きな驚きでした」

 東郷和彦「これは初めて聞きますよね。当然大本営には入っていましたよね。だから、外務大臣に入ってなかったどうか、分からないっていうことですよね。

 ええ、それは東郷茂徳が書き残したすべての中でヤルタで7月に(ソ連が)参戦するという話が決まっていたという話はなかったと思いますからね、東郷茂徳の頭にはね」

 ナレーション(女性)「陸海軍側はソビエト参戦の密約を知りながら、それを外務省に伝えず、ソビエトとの交渉に臨ませようとしていた可能性がある」

 東郷和彦「ソ連の参戦防止、それからソ連をできるだけ友好的に日本に近づける(友好構築)。最後にソ連を通じて仲介をやってみる(和平仲介)。

 と言うのは、4月から6者の共通の意志になっていたわけですから。ですから、その可能性(ソ連参戦)がないんだということを、もし軍が掴んでいたとすれば、大本営がそれを外務省か内閣に出していないんだとすれば、それは何と言うか、信じ難い話ですよねえ」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣のもとでのちに対ソ交渉に当たる安東政務局長は参戦情報は知らなかったと証言している。

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「スターリンがルーズベルトと話し合って、あんな日本処理案をお互いに協定しとるね。そんなもんは知らんもんね。こっちは」

 ナレーション(女性)「組織のタテ割りを克服しようと設けたはずのトップ6人の秘密会議。しかしリーダーたちはその最初から国家の最重要情報の共有に失敗していた。

 なぜ共有しなかったのか。当時の軍で支配的だったのは、あくまでも米軍に本土決戦を挑むという考えだった。

 決戦の全体構想を描いた参謀本部作戦部長宮崎周一が当時の思惑を戦後語っている」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「ここ(本土)へ上がってきたときに。ここで一叩き叩けばね、えー、終戦というものを、ものに持っていく、その、動機が掴める。

 それがあのー、私が、その、本土決戦というものを、あれ(終戦計画)を一つの、動機になるんだが」

 ナレーション(女性)「侵攻する米軍を中国大陸に配置した部隊とも連携して迎え撃つ。一撃の時期は夏から秋と想定していた」

 第2総軍参謀橋下正勝(録音音声)「もう国力も底をついておるし、これが最後の戦いになると。

 それで一撃さえ加えれば、政治的に話し合いの場ができるかも分からん。できなければ、我々は、もう、ここで、えー、討ち死にするなり。

 南方の島と違う点は、島はそこで玉砕すれば終わりですがね、これはまだ本土続きですから、いくらでも援兵を送れると」 

 小谷防衛研究所調査官「軍のトップがソビエトの参戦情報を伏せたのは対米一撃のシナリオを維持し続けたかったからではないかと考えています。

 一撃よりも前にソビエト参戦の可能性があるとなれば、一撃後のソビエト仲介による講和というシナリオは崩壊します。一気に無条件降伏に向かう恐れがありました。

 ソ連参戦の情報があって、ソ連が敵に回るということが分かっていればですね、その情報を陸軍として出したくないと。

 当然、最初に作られた作戦ですとか、目的に合わない情報というのはですね、基本的にはそれは無視されるという運命にあるわけです」

 ナレーション(女性)「一方の外務省も軍の情報収集能力を過小評価し、積極的な協力体制を築こうとしなかった。

 東郷外務大臣の側近として終戦工作に関わっていた松本俊一次官の証言」 

 松本俊一外務次官(録音音声)「この人(軍人)たちが世界の大勢、分かりますか。当時の外務省以上に分かるわけないですよ。それは外務省は敵方の情報も全部知ってるわけですからねー、裏も表も。

 それは知らないのは陸海軍ですよ。陸海軍でいくら明達の人だってね、外務省だけの情報、持っていません。外務省がなぜかならですね、そのー、敵方の放送も聞いてるんです。分析しているでしょう。

 日本の今の戦争の何がどうなっているか、みんな知ってますよね、外務省は」

 竹野内豊「なぜ重要な情報が共有されなかったのか。今もなお多くの謎が残されている。新たに分かった事実をどう把え直すか。専門家の間でも真剣な議論が始まった。

 昭和史の研究をリードする歴史学者の加藤陽子さん。元外交官で国際政治の現実に通じてきた岡本行夫さん(外交評論家)。アジアという視点から日本の政治思想を分析してきた姜尚中さんの3人です」

 加藤陽子「日本が本当にこの情報を知っていたとすれば、なかなかこれは新しいことで、勿論、知っていたことについては、えーと、当事者の回想という形で残っていました。

 しかし、イギリス側のその電報で証拠が残っていたというのは大きいと思いますけれども」

 岡本行夫「イギリスで見つかった電報って、本当に衝撃的ですね。あそこまでね、外にいた武官たちが掴んでいたということは、私も初めて知りました」

 加藤陽子「それでは、陸海軍はそれを知っていたとして、外務省や鈴木首相、どうでしょうか」

 岡本行夫「外務省は知らされていなかったと思いますねえ。あのー、主に公開情報の分析をやっていたじゃないですかねえ。外交官たちはどうも色んなものを見つけても、中立国で中にずうっと分け入って入っていったっていう、あんまりそういう報告はないですね」

 加藤陽子「じゃあ、なぜこのような重大な時期に有利な情報を比較的日本も手に入れたにも関わらず、重要な情報が共有されないのか」

 岡本行夫「まあ、情報の共有の問題以前にね、情報を軽視するところがあるんですね。兎に角ね。この、タテ割りの組織ですから、もう、軍も、それから日本政府全体もね。

 外から来る話っていうのは基本的には雑音なんですよ。自分たちが取ったもの以外はね。で、自分たちが取ったものを自分たちに都合いいものだけを、これを出していく。

 今から見るとね、様々ないい情報が来ていたんですね。でも、そういうものを総合的にその情報としてひとつの戦略に組み替えていくっていう、こういうことは殆どなされないんですねえ」

 加藤陽子「例えば、日本の歴史っていうのも、いいときも悪いときもありましたよね。例えば明治期日清、日露やったときにご存知のように明治天皇のもとでの元老というものが軍人でありながら文官でもあり、最高位を極めるという人は横の情報をお互いに知らせ合うわけですね。

 で、伊藤博文に教えておけ。伊藤博文に教えておけというようなことを山形(有朋)が言う。

 ま、そういうことがあったり、あと大正期には、これもあの比較的に知られていないかもしれないんですけども、中国に対する情報っていうのは日本は比較的に真面目に外務省も陸軍省も海軍省も摺り合わせる度量がありまして、『あら会』なんて言って、あぐらをかいて牛鍋を食べてっていうような上方の会同(会議のため、寄り集まること。その集まり)ですね、それをやった実績は大正期にはあるんですね。

 しかしこの頃になりますと、この6人のメンバーで司会はいないんですよね。で、こういう情報が上がっていますが、どうでしょうっていうような話を向けて、全体としての強調を叩き出すような人がいない」

 姜尚中「だから、陸軍、海軍、まあ、あるいは首相とか、色々な国務大臣、それがセクショナリズム、縄張り意識がありながら、また、内部の中に現場を踏んでいる側と、それからまあ、中枢で色々なプロジェクトを練っている側との会議がある。

 そういうヨコとタテとの、それぞれのある種のタコツボがですね、こういうものが進んでいて、今までのものがもううまくいかないかもしれないという、そういう想定をしたくない。

 したくないから、そういうものはあり得ないと言うように、自分にも言い聞かせてるし、それで新しい事態に対応できなくなると――」

 ナレーション(女性)「「昭和20年)6月初旬、沖縄の戦況は悪化の一途を辿り、守備隊の全滅が時間の問題となっていた。全国民に対して本土決戦の準備を加速するよう、指令が出された。

 国民の犠牲を省みずに捨て鉢の本土決戦に突き進んだように言われる当時の陸軍。しかし参謀本部作戦部長の宮崎周一の証言が本土決戦を前にした陸軍の全く違う側面を浮き彫りにしていた」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「物的、客観的情勢に於いて、大体に於いてできると。あるいは相当な困難、あるいは極めて困難。

 まあ、この三つくらいに分けて、これは俺も考えた。(本土決戦は)極めて困難。はっきりいう。聞けば聞く程困難。極めて。

 それじゃあ断念するかというと、それは断念できない、俺には。作戦部長の立場に於いて、そんな事言うなんてことは、とても言えない。(一段と声を大きくして)思っても言えない」

 ナレーション(女性)「果たして陸軍トップはどのように戦争の幕引きを考えていたのか。意外にも当時の陸軍中央では戦争終結に向けた重大な転換が始まっていたと考えるのが気鋭の若手研究者、(明治大文学部講師)山本智之(ともゆき)さん。

 山本さんが注目したのは陸軍中央の人事です。戦争終盤の陸軍中央では徹底抗戦を主張する強硬な主戦派が主要なポストの大半を占め、僅かな数の早期講和派が存在していた。

 主戦派の東條大将が人事権を握ると、中央から早期講和派が一掃され、一段と主戦派の発言権が強まった。

 しかし昭和19年7月、東條に代わって梅津美治郎が参謀総長に就任すると、状況に変化が生じたという。

 組織の人事系統図を基に主戦派と早期講和派が色分けされた図が出る。

 明治大学講師山本智之「まあ、(主戦派の)服部卓四郎(参謀本部作戦課長)さんなんかはね、ずっと作戦課長をやっていたんですけども、(19)45年2月には支那派遣軍に転軍になりますよね。(主戦派の)真田穣一朗(参謀本部作戦部長)なんて言うのも、3月に中央の外に出されるんですよねえ。

 強硬な主戦派が徐々に排除され、逆に左遷されていた早期講和派の将校が呼び戻された。

 主戦派が陸軍中央からいなくなると、まあ、戦争終結に持っていきやすいっていう、そういった人事の可能性高いですよねえ。戦争継続路線から戦争終結路線へと方針転換するのって、急にはできないんですよね。

 少しずつした準備をしていって、その上で方針転換をしていくっていう、まあ、梅津とか阿南という人物が慎重に戦争終結に導こうとしていたところが窺えますよねえ」

 ナレーション(女性)「徹底抗戦から戦争終結へという重大な転換が陸軍大臣の阿南の言動にも読み取ることができる。

 阿南は陸軍大臣に就任して以来、一貫して対米決戦を主張していた。しかし、この表向きの強硬姿勢の裏にある複雑な思いに触れたのは阿南の秘書官を務めた松谷誠(陸軍)大佐でした。

 自分が目の辺りにした陸軍トップの意外な一面を高木(惣吉海軍少将)にそっと明かしていた。それは(昭和20年)5月末のある日、松谷が終戦に向けた独自の交渉プランを持って阿南を訪ねがときのことだった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍大佐松谷誠「国体護持のほかは無条件と腹を決めるべきです。早ければ早い方が有利です。国内的にも軍がいくらやっても、もうだめだと分からせる時期です」 

 ナレーション(女性)「松谷の案は事実上の降伏受け入れであった。大臣の激怒を覚悟していた松谷。阿南の反応は予想外のものだった」

 陸軍大臣阿南惟幾「私も大体君の意見のとおりだ。君等、上の者の見通しは甘いと言う。だが、我らが心に思ったことを口に表せば、影響は大きい。

 私はペリーのときの下田の役人のように無様に慌てたくないのだ。準備は周到に堂々と進めねばならんのだ」

 ナレーション(女性)「厳しい結末を覚悟し、それを受け入れるための時間と準備が必要だと明かした阿南。問題はそのような時間が日本に残されているかである。

 こうした中、(昭和20年)6月6日、新たな国家方針を話し合う最高戦争指導会議が開かれた。

 トップ6人だけですら、タテ割りの壁を崩せない中で局長や課長まで参加するこの会議では腹を割って話すことはいっそう困難となる」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍参謀次長河辺虎之助「講和条件の検討など、相手に足元を見られるだけです。あくまでも徹底抗戦を貫くべきです」

 ナレーション(女性)「河辺虎之助がこれまでの原則どおりに徹底抗戦を改めて主張した。阿南大臣もその強硬論に反論しなかったため、決定された方針は和平交渉から大幅に後退した内容となった」

 明治大学講師山本智之「それはやっぱり会議の席で、そういった弱音を吐くとね、やっぱり主戦派の方に伝わっちゃうんですよね。戦争推進派、主戦派への配慮ですよね。

 主戦派が暴走するのではないかと、いう、そういう懸念があるから、慎重な発言にならざるを得ないところがあるお思います」

 ナレーション(女性)「日本には敗戦も降伏もないと叫んできた軍にとって、徹底抗戦の方針は曲げるに曲げられないものとなっていた。

 しかし陸軍トップの苦しい胸の内は多くの側近が感じ取っていた」

 陸軍省軍務課長永井八津次(録音音声)「阿南さんの中は講和だったんですよねえ。初めっから講和なんです。阿南さんはね、ところが部下のものが非常に強く言うし、無条件降伏したときに天皇さんがどうなるのかっちゅう、ことがその当時から非常に大きな問題。

 天皇様、縛り首になるぞと。こういうわけだ。

 それでも尚且つ、お前らは無条件降伏を言うのかと。

 誰もそれに対しては、『いや、それでもやるんだ』っちゅう奴は誰もおりませんよ。

 その点がね、僕は、その、阿南さんの心境というものが非常にね、お辛かったと思うんですよ」

 ナレーション(女性)「この頃、海軍にヨーロッパの駐在武官から重大な情報がもたらされた。(昭和20年)6月7日の高木(惣吉)の記録」

 記録した用紙と文字が画面に映し出される。

 ナレーション(女性)「スイスの駐在武官が極秘にアメリカ側と接触を続けた結果、驚くべきことを伝えてきた。

 アメリカ大統領と直接つながる交渉のパイプができそうだというのです。アメリカの言う無条件降伏は厳密なものではない。今なら、戦争の早期終結のための交渉に応じるだろうという報告であった。

 これを千載の一遇の機会と見た高木(惣吉)は米内(海軍大臣)を訪れた。ソビエトに頼るのではなく、アメリカと直接交渉すべきだというのが、高木の考えだった」

 高木惣吉と米内海軍大臣の写真を用いて模したテーブルを挟んで座っているシーン。

 海軍少将高木惣吉(構成シーン)「直接、アメリカ側と条件を探るチャンスです。この際、このルートを採用すべきです」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「私は米内さんに、もし私でよかったら、(スイスに)やってくださいと」
 ナレーション(女性)「しかし米内の返答は高木を失望させるものだった」

 海軍大臣米内光政(構成シーン)「謀略の疑いがあるのではないのか」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「これは陸軍と海軍を内部分裂させる謀略だと、こういうわけなんです」

 ナレーション(女性)「米内はこの交渉から海軍は手を引き、処理を外務省に任せるよう指示した。

 もしアメリカの謀略なら、日本は弱みを曝すことになり、その責任を海軍が負わされることになると恐れたのです。

 米内が手を引くよう指示したアメリカとの交渉ルート。このとき相手側にいたのはのちにCIA長官となるアレン・ダレスだった。最新の研究によると、アメリカ国内では当時ソビエトの影響力拡大への警戒感が高まっていた。ソビエトが介入してくる前に速やかに戦争を終結させるため、日本に早めに天皇制維持を伝えるべきとする考え方が生まれていた。

 ダレスを通じた交渉ルートは進め方によっては日本に早期終戦の可能性をもたらすシャンスだった」
 
 海軍少将高木惣吉(録音音声)「私はね、スイスの工作なんか、もっと積極的にやってよかったんじゃないかと思うんですよ。日本はもうこれ以上悪くなりっこないじゃないかと。

 内部だってね、もうバラバラじゃないかと。だから、落ちたって、騙されたってね、もうこれ以上悪くならないんだから、藁をも掴むでね。もしそれからねヒョウタンからコマが出れば拾い物じゃないかと」

 ナレーション(女性)「一方、ダレスの情報を海軍から持ち込まれた外務省が当時模索していたのはソビエトを通じた和平交渉だった。

 スイスのルートは正式な外交ルートから外れたものとして、その可能性を真剣には検討しなかった」

 外務次官松本俊一(録音音声)「例のアレン・ダレス辺りね、あんなもの無意味ですから。僕ら情報持っていたけど、そんなものは相手にしたくもない。謀略だと思うね」

 再び加藤陽子と岡本行夫、姜尚中の3人の検証シーン。

 加藤陽子「宮崎参謀作戦部長など、本当にもう本土決戦は無理だと、極めて困難だと。しかしそれを言えないっていうことを言ってました。

 ただ、沖縄でも、組織的な抵抗、敗退する。そしたら、本土だけになって、まあ、状況が決定的に変わったにも関わらず、なぜ、やはり4月に、5月に、6月に取れた情報、ソビエトが必ずやってくるということが分からないのか」

 岡本行夫「もう本当にタコツボに入っちゃうと、周りのことが一切見えなくなるっていうのは、悲しい限りですねえ。

 今最後のVTRでね、松本俊一外務次官が言ったね、ダレス機関なんて言うのは、あれは信用できないとかね、そんなこと言ったら、新しい話はすぐに信用できないで片付けられる。

 だから、基本的には武官からの情報だから、ダメだって言うわけでしょ。これは高木惣吉さんが残念がるのは無理もない話しですねえ。

 あれで本当にね、動き始めたかもししれないですねえ。だけど、外務省が取ってきた情報じゃないってことで、切って捨てるわけでしょ」

 加藤陽子「例え切り捨てでしたら、情報などと統合する、何て言うんでしょうか、帝国防衛委員会というようなプライオリティ、ランクなんですよ。何が重要なのか。それを決める会議があって、それで様々な、10万とかたくさんの情報を処理することが、その会議とのフィルターを通じてできる。

 で、アメリカも、国家安全保障委員かとかもある。だから、日本も、日本にとって、じゃあ何が大事なのか」

 姜尚中 「やっぱり国務大臣は各独立して天皇に対して輔弼の責任を負うと。で、独立してっていう言葉の所に非常に大きな意味があるし、ところがいつの間にか輔弼ってところが我々ば普通考える政党政治のリーダーシップとまるっきり違うものに――」

 姜尚中の発言中に――

 大日本帝国憲法下の国務大臣の権限は互いに独立・平等

 輔弼 天皇の行為に進言し、その責任を追うこと
とキャプション。

 加藤陽子「政策を統合して陛下に上げるという、そういうことではないという――」

 姜尚中「なくなっているということでしょうね。だから、どこかでやっぱり天皇にすべてのことを結局、具申していないし、まあ、現状そのものを追認するだけでいいし。

 だから、外側からは局面転換はモメンタム(きっかけ)をね、まあ、期待するという、ある種の待機主義、待っているという――」

 加藤陽子「なる程――」

 竹野内豊「近い将来、敗北を受け入れなければならないことはリーダーたちは分かっていた。しかしその覚悟は表には現れない。刻々と過ぎていく決定的な時。

 そうした中、カギを握る陸軍のリーダーが動き出す」
 ナレーション(女性)「徹底抗戦の国策が決定された直後の(昭和20年)6月11日、異例の報告が陸軍トップによって天皇になされた。中国の前線視察に出かけていた(陸軍)参謀総長の梅津美治郎が側近にも打ち明けていない深刻な事実を奏上した」

 (今回付記:「Wikipedia」〈1945年(昭和20年)6月6日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された〉

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「支那派遣軍はようやく(=辛うじて)一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後の戦闘は不可能とご承知願います」

 ナレーション(女性)「陸軍の核を握っている精鋭部隊にすぐに徹底抗戦は愚か、一撃すら期待できない程弱体化しているというものだった」

 中国戦線なのだろう。日本兵の一塊となって隙間もなく累々と横たわった死者が映し出される。

 ナレーション(女性)「日頃は冷静だった梅津の告白に天皇は大きな衝撃を受けた。

 天皇から直接その様子を聞いたのが内大臣の木戸幸一」

 内大臣木戸幸一(録音音声)「要するに往年の素晴らしい関東軍もなきゃ、支那総軍もないわけなんだと。

 碌なものはないという状況。艦隊はなくなっちゃってるだろう。それで戦(いくさ)を続けよというのは無理だよね。

 要するに『意地でやってるようなもんだから、大変なんだよ』と(天皇が)おっしゃっていたよ」

 明治大学講師山本智之「支那派遣軍の壊滅状態を天皇に報告すれば、天皇も気づくと思うんですよね。これは本土決戦できないということは。

 天皇にそういう報告をしたって言うことは、梅津が天皇に対しまして、戦争はできないって言っていることと同じなんですね」

 ナレーション(女性)「予想を遥かに超える陸軍の弱体化。一撃後の講和という日本のベストシナリオは根底から崩れようとしていた。

 梅津の上奏から間もない6月22日、天皇が国家のトップの6人を招集した。天皇自らによる会議の開催は極めて異例の事態。

 リーダーたちに国策の思い切った転換、戦争終結に向けての考え方が問いかけられた」

 天皇(構成シーン)「戦争を継続すべきなのは尤もだが、時局の収拾も考慮すべきではないか。皆の意見を聞かせて欲しい」

 海軍大臣米内光政(構成シーン)「速やかにソ連への仲介依頼交渉を進めることを考えております」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣もこれに同意を示した。

 決戦部隊の弱体化とソビエトの参戦が近いという情報。国家に迫る危機の大きさを全員が共有するチャンスがこのとき訪れていた。

 ここで(天皇は)梅津参謀総長に問いかける」

 天皇(構成シーン)「参謀総長はどのように考えるか」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重に行った方がよいと思います」

 ナレーション(女性)「梅津は見てきたはずの陸軍の実態に触れなかった」

 明治大学講師山本智之「梅津、阿南が戦争終結を願いながらも、主戦派の排除に、主戦派を排除し切れないっていうね、そういった背景でそういう発言をするのではないかと。

 排除し切れていないんですよね。結構不安もある」

 ナレーション(女性)「しかし天皇は異例にも梅津に問いかけを続けた」

 天皇(構成シーン)「慎重にし過ぎた結果、機会を失する恐れがあるのではないのか」

 小谷防衛研究所調査官「天皇の意図としては自分がこうやって臣下の者たちと腹を割って話し合おうという態度を見せているわけですから、おそらく、天皇としては本当に梅津や阿南が主戦派なのか、もしくは心の奥底では実は和平を望んでいるのかと、そういうところを確認したかったんだろうと思います」

 ナレーション(女性)「しかし梅津も阿南も重大な事実は口を噤んだままだった」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「仲介依頼は速やかなるものを要します」

 ナレーション(女性)「 天皇は梅津に詰め寄る」

 天皇(構成シーン)「よもや一撃の後でと言うのではあるまいね」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「必ずしも一撃の後とは限りません」

 ナレーション(女性)「軍の最高幹部が一撃後の講和というベストシナリオに拘らないという姿勢を初めて表わした瞬間だった。

 しかしこの段階になっても、軍の実態とソビエトの参戦が近づいているという重要な事実はリーダーの間で共有されることはなかった。

 宮中に於ける政治動向分析の第一人者、茶谷誠一成蹊大学文学部助教授。

 この会議が早期に終戦に持ち込む最大のチャンスだったと把えている」

 成蹊大学文学部助教授茶谷誠一「一撃を加えられない。じゃあ、どうしようかというふうなことを6人の中でもっと真剣に22日にやっておけなかったのかという言うのは、ちょっと現代人の我々から見れば、それは責任というか、もうちょっとある程度真剣に最後の引き際をもうちょっと早く考えられなかったのかと。

 事態が事態なわけで、双方から上がってきた情報というものを少なくとも最高戦争指導会議の構成員である6人が共有するようなシステムにしていれば、事態がもっと早く動いていた可能せもあるわけなんですけども――」

 ナレーション(女性)「 水面下の工作に奔走していた高木惣吉海軍少将。破局を前に決断をためらうリーダーたちに失望を露にしていた」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「非常にそれは阿南さんばかりじゃない。日本の政治家に対して私が訴えたいのはね、腹とね、公式の会議に於ける発言と、そういう表裏が違っていいものかと。

 一体(苦笑)、国家の命運を握った人がね、責任ある人がね、自分の腹と違ったことを公式のところで発言して、もし間違って自分の腹と違った決定になったなど、どうするのか。

 職責がどうだとか、ああだとか、言われるんですよ。それはご尤もなんですよ

 だけど、平時にはそれでいい。だけど、まさにね、そのー、祖国が滅びるかどうかというような、そういう非常事態に臨んでですね、そういう平時のね、公的なね、解釈論をやっている時期じゃないじゃないかと。

 自分は憎まれ者になってもですよ、あるいは、その、平時の習慣を踏み破ってもですね、この際もう少しおやりになってもいいじゃないかというのが、僕らの考えだった」

 ナレーション(女性)「 天皇招集の異例の会議から3日後、沖縄戦は敗北に終わった。軍人と民間人、合わせて18万人が犠牲となった」

 再度、加藤陽子、岡本行夫、姜尚中が登場。なぜ方針転換を決断できないのかのキャプション。

 加藤陽子「今回のVTRや調査で明らかになった6月22日、これは天皇がかなりリーダーシップ取っておりますね。

 だから、私も非常に不明だったんですが、8月の二度のいわゆる天皇による聖断ですね。あれでガッと動いたと思ったんですが、その前に(6月)22日の意思がある。一撃しなくても、講和はあり得るでしょうねってことが天皇が確認したことが一件あった。

 なーんで組織内調整、じゃあ6人の会議の中に天皇が参加したときの組織内調整ができないのかっていうのが、どうでしょうか。仲間意識とか、そういうことで言うと、姜さんは」

 姜尚中「6人ともやっぱ官僚ですよね。必ずしも官僚は悪いとは思わないけど、やっぱり矩(のり=規範)を超えずっていうところにね、とどまったんじゃないかと。自分の与えられた権限だけにね、

 だからそこに逃避していれば、火中の栗を拾わなくても済むと。それはやっぱり優秀であるがゆえに逆に。

 で、これは今でも僕は教訓だと思うんです」

 岡本行夫「それにしてもねえ、ヤルタでの対日ソ連参戦の秘密合意についての情報が天皇にまで伝わっていれば、それは歴史変わっていたと思いますね。

 6月22日の御前会議のもっと早い段階で天皇は非常に強い聖断、指示をしていたのではないかと。

 そうするとね、沖縄戦に間に合っていたかどうか分かりませんが、少なくとも広島、長崎、そしてソ連の参戦という舞台は避けられていた可能性はありますねえ」

 加藤陽子「だけど、本当のところで、終戦の意志を示す責任はあるというのは内閣なんだろうってことを、自分が背負っている職務って言うんでしょうか、一人、こんな私が日本を背負っているはずがないというような首相なり、あの、謙遜とか、非常に謙虚な気持で思っているかもしれない。

 でも、そうは言っても外交なんで、内閣が輔弼する、つまり外務大臣と内閣総理大臣、首相なんですよね」

 姜尚中「やっぱ減点主義で、だから、何か積極的な与えられた権限以上のことをやるリスクを誰も負いたくないわけ。

 その代わりとして、兎に角会議を長引かせる。たくさんの会議をやる。(笑いながら)で、会議の名称を一杯つくるわけですよね。

 で、結局、何も決まらない。いたずらに時間が過ぎていくという。会議だけは好きなんですね。みんな」

 加藤陽子「日本人はそうかもしれない」

 姜尚中「たくさん会議をつくる」

 岡本行夫「戦争の総括をまだしていないんですよねえ。日本人自身の手で、誰が戦争の責任を問うべきか、どういう処断をすべきかってことは決めなかった。

 そして日本人は1億総ザンゲ、国民なんて悪くないのに、お前たちも全員で反省しろ。

 で、我々はもうああいうことは二度としませんと。だから、これからは平和国家になります。一切武器にも手をかけません。

 そう言うことでずうっと来ているわけです。本来は守るべき価値、国土、自由っていうのがあるんですねえ。財政状況だって、あれ、そういっこと今とおんなじで、財政赤字、国の債務のレベルになると、GDPの、戦争の時200%、今230%ですよね。

 それは本当にね、我々は勇気を持って、戦争を題材に考えるべきことだと思います」

 姜尚中「岡本さんのことにもし付け加えるとすると、やっぱり統治構造の問題ですね。

 で、やっぱり原発事故、ある種やっぱり、その戦争のときの所為(しょい=振る舞い)とその後の、ま、ある種の無責任というか、それはちょっとやや似ている。

 それで、やっぱり現場と官邸中枢との乖離とか、それから情報が一元化されていない。

 で、どことどこの誰が主要な役割を果たしたのかもしっかりと分からない。それから、議事録も殆ど取られていない。

 で、そういうような統治構造の問題ですね、これをやっぱりもう一度考え直さないといけない。で、まあ、そういう点でも、変えるべきものは変えないといけないんじゃないかなあと、気は致しますね」

 竹野内豊「この頃、東郷外務大臣宛にヨーロッパの駐在外交官から悲痛な思いを訴えた電文が届いている」

 「昭和20年7月21日 在チューリッヒ総領事神田穣太郎電文」のキャプション。

 竹野内豊「『私達は重大な岐路に差し掛かっている。この機を逃せば、悪しき日として歴史に残るだろう。

 確固たる決意を持って、戦争を終結に導き、和平への交渉に乗り出して欲しいと、切に願う』

 決定的な瞬間にも方針転換に踏み出せなかった指導者たち。必要だったのは現実を直視する勇気ではなかっただろうか。

 終戦の歴史はいよいよ最終盤を迎える」

 「昭和20年7月16日 アメリカ・ニューメキシコ州」のキャプション

 原子爆弾の巨大なキノコ雲が噴き上がる瞬間を撮影した古いフィルの映像。

 ナレーション(女性)「 7月中旬アメリカは原子爆弾の実験に成功した。

 日本の関東軍に忍び寄る極東ソビエト軍。刻々と増強の報告が入っていた。

 そして米英ソの首脳の間で間もなく日本の終戦処理について話し合いが行われるとの情報が届く。

 トップ6人はソビエトとの交渉の糸口が掴めないまま虚しく時間を費やしていた。

 こうした中、ある人物が政府に呼ばれる。元首相近衛文麿。緊急の特使としてソビエトに赴き、交渉の突破口をつくって貰おうという案が浮上した。

 近衛特使にどのような交換条件を持たせるべきか、6人の間で再び議論が始まった」

 外務大臣東郷茂徳(構成シーン)「米英ソの会談が間もなく開催される。その前に戦争終結の意志を伝えなくてはいけない。

 無条件では困るが、それに近いような条件で纏めるほかはない」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣は思い切った譲歩の必要を説き続けた」

 陸軍大臣阿南惟幾「そこまで譲ることは反対である」

 外務大臣東郷茂徳「しかし日本が具体的な譲歩を示さない限り、先に進むことはできない」
 海軍大臣米内光政「東郷さん、その辺り(阿南惟幾が言う辺り)で纏めておきましょう。陸軍も事情があるでしょうから」

 ナレーション(女性)「 会議は交渉条件を一本化するには至らなかった。具体化した条件を各組織に持ち帰り、部下を説得するメドがこの段階でも立たなかった。

 小谷防衛研究所調査官「御前会議ですとか、政府連絡会議、もしくは最高戦争指導会議、まあ色んな会議をやっていますけども、会議が決めることができないんですよ。要は決める人がいないわけですね。

 首相も外務大臣も、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長にしろ、みんな平等に天皇に仕える身分なわけでありながら、誰か勝手にイニシアチブを取ってですね、決めることができない構造になってるわけです」

 ナレーション(女性)「 一方特使派遣の交渉を指示されたモスクワの佐藤尚武大使からは危機感に満ちた電報が繰返し届いた。

 駐ソビエト日本大使佐藤尚武(構成シーン)「ソ連は今更に近衛特使が何をしに来るのか疑念を持っている。日本側が条件を決めて来ない限りソ連は特使を受け入れるつもりはない」

 ナレーション(女性)「これに対して東郷外務大臣は苦しい説得を続けた」

 外務大臣東郷茂徳「現在の日本は条件を決めることはできない。そこはデリケートな問題だからだ。条件は現地で近衛特使に決めて貰うしかないのだ」

 ナレーション(女性)「国内の調整をすることを諦め、外交交渉の既成事実で事態を打開をしようという苦渋の一手だった。

 しかし近衛特使派遣という策は手遅れとなった。派遣を打診して2週間。ソビエト首脳はドイツ・ポツダムのイギリスとの会談に出発してしまった。

 日本のチャンスは失われた」

 キャプション

 昭和20年7月26日 ポツダム宣言発表

 日本に無条件降伏を勧告


 米英ソ首脳が握手するシーンが流される。

 キャプション

 昭和20年8月6日 広島に原爆投下
           死者14万人

     8月9日  長崎に原爆投下
          死者7万人

 同日、ソ連が中立条約を破棄 対日宣戦布告

  死者       30万人以上
  シベリア抑留者 57万人以上

 破局的な形できっかけがもたらされるまで、国家のリーダーたちが終戦の決断を下すことはなかった。


 内大臣木戸幸一(録音音声)「日本にとっちゃあ、もう最悪の状況がバタバタッと起こったわけですよ。遮二無二これ、終戦に持っていかなきゃいかんと。

 もうむしろ天佑だな」

 外務省政務局曽祢益(録音音声)「ソ連の参戦という一つの悲劇。しかしそこ(終戦)に到達したということは結果的に見れば、不幸中の幸いではなかったか」

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ったてね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。

 終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。

 言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」

 8月15日、玉音放送。直立不動の姿勢で、あるいは正座し、両手を地面に突いて深く頭を垂れ、深刻な面持ちで聞く、あるいは泣きながら聞く皇居での国民、あるいは各地の国民を映し出す。

 ナレーション(女性)「 厳しい現実を覚悟し、自らの意志でもっと早く戦争を終えることができなかったのか。

 空襲、原爆、シベリア抑留による犠牲者、最後の3カ月だけでも、日本人の死者は60万人を超えていた」

 極東国際軍事裁判所

 ナレーション(女性)「終戦に関わったリーダーたちはそれぞれの結末を迎えた。陸軍大臣阿南惟幾、昭和20年8月15日自決。参謀総長梅津美治郎、関東軍司令官時代の責任を問われ、終身刑。獄中にて昭和24年病死。外務大臣東郷茂徳 開戦時の外務大臣を務めていた責任を問われ、禁錮20年。昭和25年。服役中病死

 一方、内閣総理大臣鈴木貫太郎、海軍大臣米内光政、軍令部総長豊田副武(そえむ)は開戦に直接関与していなかったとして、責任を問われることはなかった。

 東郷の遺族の元からある資料が見つかった」

 東郷和彦「これが(赤い表紙の手帳)1945年の東郷茂徳が書いていた日誌のような手帳ですね」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣が終戦に奔走した昭和20年につけていた手帳。孫の和彦さんの心に強く残った言葉があった」

 東郷和彦「軍がやろうとしていたことができなくて、もう勝つ方法は全くないような意味なんだと思うんです。

 これは一言なんですけどね、あの、非常に緊迫感があります」

 ナレーション(女性)『国民の危急 全面的に』

 この言葉が書かれたのは6月22日。天皇が自ら6人を呼び、国策の方針転換を問いかけた日である。

 このとき(この日に)、ソビエトの参戦情報を把握できなかったことを東郷は戦後悔やみ続けた」

 東郷和彦(東郷茂徳が著した単行本らしきものを開いて)「ヤルタで(ソ連が)戦争ということを決めていたことに、その、『そういうことを想像しなかったのは、甚だ迂闊の次第であった』と。

 もう本当に恥ずかしいというか、迂闊だったと。

 こうしてここに書かざるを得ない程、辛いことだった――」

 ナレーション(女性)「 そしてもう一人、最後まで終戦工作に奔走した高木惣吉の親族の元から未発表の資料が見つかった。

 高木が戦争を振り返って、記した文章である」

 『六韜新論』〈りくとう――『六韜』は「中国の代表的な兵法書」(「Wikipedia」) 「韜」は「包み隠す」意〉の題名のついた昔風の書物。

 ナレーション(男性)(『六韜新論』の読み)「現実に太平洋戦争の経過を熟視して感ぜられることは戦争指導の最高責任の将に当たった人々の無為・無策であり、意志の薄弱であり、感覚の愚鈍さの驚くべきものであったことです。反省を回避し、過去を忘却するならば、いつまで経っても同じ過去を繰返す危険がある。

 勇敢に真実を省み、批判することが新しい時代の建設に役立つものと考えられるのです」

 竹野内豊「310万の日本人、多くのアジアの人々。この犠牲は一体何だったのか。

 もっと早く戦争を終える決断はできなかったのか。そして日本は過去から何を学んだのか。

 この問は私たちにも突きつけられているように思う」

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