2019・8・17 NHKSP〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉は天皇制が国民統治装置であることを改めて教える

2019-08-19 11:01:46 | 政治
 2019年8月17日放送NHKスペシャル〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉を文字化してみた。旧仮名遣いを現仮名遣いに、漢語を使った副詞等は現代語に変えた。昭和天皇は俳優の片岡孝太郎が演じ、初代宮内庁長官田島道治は俳優の橋爪功が演じている。

 『拝謁記』記載の昭和天皇の言葉に対する俳優の片岡孝太郎演じる天皇の発言シーンは主語を「片岡・昭和天皇言葉」で、同じく『拝謁記』記載の初代宮内庁長官田島道治の言葉に対する俳優の橋爪功演じる発言シーンは主語を「橋爪・田島道治言葉」で表した。

 最初に大日本帝国憲法第1章「天皇」の主だった条文を記載し、最後に大したことのない自分なりの解釈を紹介したいと思う。

 第1章 天皇
 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(兵士の人数)ヲ定ム

 要するに天皇は憲法上は軍を掌握した絶対的主権者に位置づけられていた。

 〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉

 語り・広瀬修子(元NHKのアナウンサー)

 語り・広瀬修子「終戦の翌年から全国各地へ巡幸を始めた昭和天皇。人間宣言を行い、新しい憲法で国民統合の象徴とされ――」

 映像 昭和天皇に子どもを混じえた大勢の国民が歓声を上げ、バンザイする中で。

 昭和天皇「戦災にもあったんだろう?」

 国民・男性「いえ、戦災にはあいません」

 国民・女性「勿論です」

 昭和天皇「新日本建設の歩みにお互いに努力してみたいね」

 国民「はい」
 
 語り・広瀬修子「巡行する昭和天皇の後ろに常に付き従う人物がいた。初代宮内庁長官田島道治である。占領の時代、象徴となった天皇を支え続けた(田島道治の顔映像)。その田島道治が遺した貴重な記録が見つかった。

 『拝謁記』。5年近く、600回を超えた昭和天皇への拝謁。その記録から明らかになったのは敗戦の道義上の責任を感じていた昭和天皇の告白。

 片岡・昭和天皇言葉「私は反省というのは、私にも沢山あると言えばある」

 語り・広瀬修子「手帳6冊、ノート12冊に及ぶ『拝謁記』。4人の研究者が読み解いた。

 研究者「こんだけの量を。しかもびっしりと」

 研究者「天皇も感情を持った生身の人間だったことがよく伝わってくる。なかなか衝撃的な――」

 研究者「やっぱり一字一句、天皇の言葉をちゃんと記録しておこっていう、この気持ちがやっぱり表れているんだろうなと思います。

 ちょうど天皇のあり方が大きく変わる時期なので、憲法ができて、大事な変わり目のところの天皇の肉声が分かったっていう意味で大変に貴重な資料だと思いますねえ」

 語り・広瀬修子「敗戦の責任を感じていた昭和天皇、戦争について国民の前で話したいと強く希望していた。日本の独立回復を祝う式典(1952年(昭和27年)5月3日)でのお言葉である。

 『拝謁記』には田島との遣り取りが対話形式で記されている。番組では一字一句、忠実に再現していく。

 昭和天皇は戦争責任について、カモフラージュ、曖昧にするか。実情を話すか、初めに問いかけた」

 片岡・昭和天皇言葉「私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュで行くか、ちゃんと実情を話すかの問題があると思う」

 橋爪・田島道治言葉「その点、今日からよく研究致します」

 語り・広瀬修子「多くの犠牲者を出した太平洋戦争。天皇は反省に拘り続けた」

 片岡・昭和天皇言葉「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」

 語り・広瀬修子「ところが、総理大臣の吉田茂は戦争に言及した文言の削除を求めてきた」

 原稿用紙の上白部に「吉田首相削除説」の手書きの文字と、その横に「吉田首相削除説」の活字文字を並べた映像。

 橋爪・田島道治言葉「総理の考えと致しましては、戦争とか敗戦とかいう事は生々しい事は避けたいという意味であります」

 片岡・昭和天皇言葉「しかし戦争のことを言わないで反省のことはどうつなぐか」

 語り・広瀬修子「初公開、初代宮内庁長官の『拝謁記』。昭和天皇のどのような実像が浮かび上がってきたのか」

 〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記」~〉のキャプション。

 語り・広瀬修子「その象徴となった天皇と、その出発点を見つめていく。

 田島道治の遺族のもとで極秘に保管されてきた『拝謁記』。孫の田島圭介さん」

 自宅でか、ノートをめくる田島圭介氏の映像。

 語り・広瀬修子「戦後間もない時期、祖父道治と同じ家で過ごした。この『拝謁記』が奇跡的に残されたイキサツがあると言う」

 田島圭介「祖父が晩年、結構入退院を繰り返してたんですけれども、入院するときに何か、自分、身辺整理ということで、『拝謁記』を焼こうとした。叔父がそれを止めたんです。

 『決して悪いようには取り扱わないから、焼かないで取り残しなさい』ということを叔父は祖父を説得して、で、辛うじて焼却は免れたと」

 語り・広瀬修子「叔父が亡くなる。時代も昭和から平成、令和へと変わる中で、この資料を公開することにしたという。

 (皇居正面の映像)田島道治は宮内庁の前身、宮内府の長官に就任したのは1948年6月(1948(昭和23年)6月5日のキャプション)、終戦から3年。占領下、宮中の改革が求められていた。

 ときの総理大臣芦田均は白羽の矢を立てたのが田島道治だった。初めての民間からの登用だった。田島は当時62歳。戦前、金融恐慌後の銀行の建て直しに尽力。その再建の手腕を買われたのである。

 当時、外部からの長官登用に難色を示したと言われる昭和天皇。しかし『拝謁記』には皇室と国民との関係を良くしようと理解を示していく姿が記されている」

 片岡・昭和天皇言葉「皇室と国民との関係というものを時勢に合うようにして、もっとよくしていかなければと思う。私も微力ながらやるつもりだ。長官も私のことで気づいたら言ってくれ」

 橋爪・田島道治言葉「勿体ない仰せで恐れ入ります」

 語り・広瀬修子「田島は新憲法の理念に添うように側近らの意識改革を図り、宮中の合理化を推し進めていった。

 当時田島が直面したのは昭和天皇の戦争責任の問題だった。大日本帝国憲法では天皇は軍を統帥し、統治権の全てを握っていた。日本政府は天皇は無答責、国内法上は法的責任がなかったとした。しかし敗戦の道義的責任を問う、退位を求める声が上がった。

 東大総長南原繁は次のように述べた。『陛下に政治上・法律上の責任はないが、道徳的な責任がある』。日本の戦争指導者を裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)。判決が近づくと、退位を主張する論説がメディアでさらに広がっていく。昭和天皇の退位を押しとどめたのが連合国軍最高司令官マッカーサーだった。

 占領統治に天皇の存在が欠かせないと考えたマッカーサーはその意向を天皇に伝えた。これを受けた昭和天皇の返答が残されている。

 (マッカーサー記念館映像。英文字の書簡。)

 1948年11月(12日)、田島道治が天皇に代わって送った書簡である」

 片岡・昭和天皇言葉「今や私は、日本の国家再建のため国民と力を合わせ、最善を尽くす所存です」

 語り・広瀬修子「事実上、退位しないとの意思を示した書簡。これで昭和天皇の退位問題は決着がついたと従来の研究では考えられてきた。しかし今回発見された『拝謁記』から、昭和天皇がその翌年も退位の可能性を語っていたことが明らかになった。

 片岡・昭和天皇言葉「講話が締結されたときにまた退位などの論が出て、色々の情勢が許せば、退位とか、譲位とかいうことも考えらるる。そのためには東宮ちゃん(皇太子のこと)が早く洋行するのがよいのではないか」

 語り・広瀬修子「東宮皇太子は当時まだ15歳。早めに外国訪問させたいと昭和天皇は自らの退位を見据えて考えていた。この退位発言をどのように捉えればよいのか。この問題に詳しい近現代史の研究者に『拝謁記』を分析して貰った」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「ああ、これですね。1949年でしたっけ。この段階でまだ退位のことを言ってるっていうのは全く予想しなかった。48年末で大体退位は決着つけられたと思ってたんですけど、その後もやっぱりくすぶってるんですね、退位問題。

 責任感、君主としての責任感というのがあって、それは一つは国民に対する君子としての責任。もう一つは皇祖皇宗ですよね、歴代の天皇と天皇家の祖先に対する責任。今まで営々と続いてきた国体を危機に陥れてしまったと。やはり敗戦という事態を迎えた。

 そのことに対する道義的な責任。皇祖皇宗と国民と両方に対する責任感覚。それがはっきりあるってことがよく分かりました」

 語り・広瀬修子「昭和天皇の意向を受けて、田島が退位について相談したのは総理大臣の吉田茂だった。『拝謁記』には吉田の意見が次のように記されている。

 『拝謁記』記載の吉田茂の発言がテロップで示される。

 吉田茂言葉音声化「世の利口ぶるものがそんなことを言うのもあるが、人心の安定上そんな事は考えられぬ」

 語り・広瀬修子「1951年11月、昭和天皇は地方巡幸へ向かった。特別列車(の映像)の中で天皇と田島は退位問題について話し合う」

 (走行中の列車内の会話)

 片岡・昭和天皇言葉「私の退位云々の問題についてだが、帝王の位というものは不自由な犠牲的の地位である。その位を去るのはむしろ個人としては有難い事とも言える。現にマッカーサー元帥が生物学がやりたいのかといった事もある。

 地位にとどまるには易きに就くのでなく、難きに就き、困難に直面する意味である」

 橋爪・田島道治言葉「恐れ多くございますが、陛下は法律的には責任なきも、道義的責任があり思し召され、この責任を御果たしになるのに二つあり、一つは位を退かれるという消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建のために困難な道に敢えて当たろうと遊ばす事と存じます。

 そして陛下は困難なる第二の責任を取る事の御気持である事を拝しまするし、田島の如きは色々考えまして、その方が日本の為であり、結構な結論と存じまする」

 語り・広瀬修子「昭和天皇と田島は退位せず、日本の再建に当たる道を選択した。退位を巡る昭和天皇と田島の判断にどのような背景があったのか」

 (「『拝謁記』分析プロジェクト」のキャプションとそのメンバーの映像)

 語り・広瀬修子「4人の研究者が分析に取り組んだ。その中心になったのが日本大学の古川隆久教授(近現代史)である」

 古川隆久教授「昭和天皇は個人的には何度も言ってますけれども、まあ、辞めた方が気が楽になるっていうのは私は偽らざる本心だと思います。それは常識的に考えれば、退位した方がいいんだろうなって、多分昭和天皇は分かってると思うんです。

 本来なら退位して当然の立場で、留位するってことが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかってことが、私凄く気になっていた。国民の意思が決定的に重要だという認識があるからこそ、ああいう気にしてることがしょっちゅう出てくるっていうふうに考えていいんじゃないかと思います」

 語り・広瀬修子「国民に自らの立場をどのように伝えていくのか。昭和天皇にとって大きな課題が敗戦の道義的責任だった。1951年9月、サンフランシスコ平和条約調印。翌年の発効で7年近くに及んだ占領が終わり、日本は独立を回復することになる。

 独立に当たり国民に向けてどのようお言葉を表明するのか」

 片岡・昭和天皇言葉「講和となれば、私が演説と言うか、放送と言うか、何かしなければならぬかと思う。ここで私の責任の事だが、従来のようにカモフラージュで行くか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」

 橋爪・田島道治言葉「その点、今日からよく研究致します」

 語り・広瀬修子「お言葉の検討は田島に託された。これ以後、1年余り、試行錯誤が続くことになる。田島が起草したお言葉案は八つ残されていた。最も古いものは1952年1月15日案。(1952年)5月3日のお言葉表明に向けて、何度も書き直しが続いた。

 昭和天皇がお言葉案に強く求めた文言が――」

 片岡・昭和天皇言葉「私はどうしても『反省』という字をどうしても入れねばと思う」

 語り・広瀬修子「昭和天皇は戦争への反省を語った。その回想は日中戦争の時代から始まった」

 片岡・昭和天皇言葉「私は反省というのは私にもたくさんあると言えばある。支那事変で南京でひどい事が行われているという事を低いその筋でないものからうすうす聞いてはいたが、別に表立って誰も言わず、従って私はこの事を注意もしなかったが、市ヶ谷裁判(極東国際軍事裁判所が市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂公に置かれたことから)になったことを見れば、実にひどい」

 当時の南京の映像。

 語り・広瀬修子「日中戦争の最中に起きた南京事件。日本軍は略奪暴行を行い、一般住民や捕虜を殺害した。事件は戦後東京裁判で問題となった」

 片岡・昭和天皇言葉「私の届かぬ事であるが、軍も政府も国民もすべて下剋上とか、軍部の専横を見逃すとか、皆反省すれば悪いことがあるから、それらみな反省して、繰り返したくないものだという意味も、今度の言う事のうちにうまく書いて欲しいと思う」(00:20:43)

 橋爪・田島道治言葉「その点は一生懸命作文を練っております」

 語り・広瀬修子「天皇の求めに応じて、田島は反省の文言を書き加えた」

 「おことば」3月4日案の原稿の「過去の推移」云々の手書き文字に活字文字を添えた、「【三省】何度も反省すること」との説明付きの映像。

 語り・広瀬修子「『過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒慎せねばならない』

 反省したい過去の推移とは何なのか。『拝謁記』の中で昭和天皇は太平洋戦争に至る道を何度も田島に語っていた。それは張作霖爆殺事件にまで遡る。1928年、旧満州の軍閥張作霖を関東軍が列車ごと爆殺した(当時の現地の映像)。

 事件を曖昧に処理しようとした総理大臣の田中義一を昭和天皇が叱責したら、首謀者は転職になっただけで、真相は明らかにされなかった。

 その3年後(1931年9月18日)、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府はそれを追認した(軍馬や徒歩で行進する関東軍の映像)。昭和天皇は軍の下克上とも言える状態を憂えていた」

 片岡・昭和天皇言葉「考えれば、下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣のときに張作霖爆死を厳罰にすればよかったのだ」

 語り・広瀬修子「陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター、2・26事件(当時の映像)。天皇は厳罰を指示し、反乱は鎮圧されたが、軍部の台頭がさらに強まっていく」

 片岡・昭和天皇言葉「青年将校は私を担ぐけれども、私の真意を少しも尊重しない。軍部のやることは、あの時分は真(まこと)に無茶で、とてもあの時分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」

 語り・広瀬修子「その後日本は泥沼の日中戦争へと突き進んでいく」

 (当時の映像と「日中戦争1937年7月~」のキャプション)。

 語り・広瀬修子「1941年、東條内閣はアメリカ、イギリスに宣戦布告。太平洋戦争が始まった」

 片岡・昭和天皇言葉「東條内閣の時は既に病が進んで、最早どうする事も出来ないということになってた。

 終戦で戦争をやめるくらいなら、宣戦前か、あるいはもっと早くやめる事が出来なかったかというような疑いを退位論者でなくても、、疑問を持つと思うし、また首相をかえる事は大権でできる事ゆえ、なぜしなかったかと疑う向きもあると思うが」

 橋爪・田島道治言葉「それは勿論あると思います」

 片岡・昭和天皇言葉「いや、そうだろうと思うが、事の実際としては、下克上で、とても出来るものではなかった」

 古川隆久日本大学教授「深い後悔の念を誰かに話さずにはいられないっていう、そういうものだと思いますねえ。ですので、如何にその局面がですね、結果としてそうなってしまったことを、まあ、自分として残念だったかっていうことの裏返しだと思います。

 その量が多いのはそれだけで昭和天皇も、後悔なり、反省なりが多かったんだったと思います。戦後でも、戦前・戦中に生きているって言ってもいいような暮らしぶりだったってことが窺えることだと思います。

 (軍服で白馬に跨る昭和天皇の映像)

 憲法上、あるいは世間の常識から見れば、統治権の総攬者天皇は主権者でしたから、やはりあの大事な場面は天皇が何とかすべきだったんじゃないかって思っている人は多いんだろうじゃないかとか昭和天皇は考えています。

 では、なぜそれができなかったんだっていうことはですね、自分なりに納得できる答を探してるっていうのが資料から窺えるかと思います」

 語り・広瀬修子「昭和天皇の深い後悔の言葉を受け止めた田島。2月26日、田島はお言葉の下書きを天皇に説明した」

 片岡・昭和天皇言葉「琉球を失った事は書いてあったか」

 橋爪・田島道治言葉「残念とは直接ありませんが、『国土を失い』とあります」

 片岡・昭和天皇言葉「そうか。それはよろしいが、戦争犠牲者に対する厚生を書いてあるか」

 橋爪・田島道治言葉「『犠牲を重ね』とはありますが、その厚生の事はある時の案にはありましたが、削りました。と申しますのは、万一政治に結びつけられると、わるいと思いましたからですが、これは大切の事ゆえ、またよく考えます」

 片岡・昭和天皇言葉「犠牲者に対し同情に堪えないという感情を述べる事は当然であり、それが政治問題になる事はないと思うが」

 語り・広瀬修子「日本人だけで310万人が犠牲となった戦争。中でも沖縄では県民の4人に1人が亡くなった。日本が独立を回復したのちも、アメリカの統治下に置かれることになる」

 橋爪・田島道治言葉(立ち上がった姿勢で)「一寸読んでみますかから、訂正を要するところを仰せ頂きたいと存じます。

 『事、志と違い、時流の激するところ、兵を列強とを交えて、遂に悲惨なる敗戦を招き、国土を失い、犠牲を重ね、かつて無き不安と困苦の道を歩むに至ったことは遺憾の極みであり、日夜これを思うて悲痛限りなく、寝食安からぬものがある。

 無数の戦争犠牲者に対し深厚なる哀悼と同情の意を表すると同時に過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒慎せねばならない』」

 片岡・昭和天皇言葉「内外に対する感謝。戦争犠牲者に対する同情及び反省の意はよろしい。内閣へ相談して、あまり変えられたくないネー」

 語り・広瀬修子「田島は部下の宮内庁幹部に意見を求めた。その結果、修正を求める声が上がった。これを受けて、田島は天皇に説明した」

 (御座所 1952年3月10日)

 橋爪・田島道治言葉「主な二、三の反対を強く致しましたが、その第一は『事志と違い』というのを削除するという事でありました。何か感じがよくないとの事であります」

 片岡・昭和天皇言葉「どうして感じが良くないだろう。私は『豈朕(あにちん)が志ならんや』ということを特に入れて貰ったのだし、それを言って、どこが悪いのだろう」

 語り・広瀬修子「ここで問題となった『事志と違い』という文言」

 『太平洋戦争 1941年12月8日』のキャプション

 語り・広瀬修子「太平洋戦争は天皇の志と違って始まったということを意味していた(猛攻撃を受けて噴煙を空高く上げている戦艦の静止映像)昭和天皇は開戦の詔書で表明していた(詔書の映像)。『今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん=不和の始まり)を開くに至る。豈朕(あにちん)が志ならむや』

 『米英との宣戦がどうして私の志というのか』。昭和天皇は戦争が自らの志と異なって始まる。東條英機(の映像)は平和が望みだと伝えていたと述懐した」

 片岡・昭和天皇言葉「私はあの時、東條にハッキリ英米両国と袂を分かつという事は実に忍びないと言ったのだから」

 橋爪・田島道治言葉「陛下が『豈朕が志ならんや』と仰せになられましても、結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたことゆえ、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ、戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」

 語り・広瀬修子「田島は例え平和を念じていても、実際には天皇の名で開戦を裁可したのだから、『事志と違い』というのは弁解に聞こえると述べた」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「凄い微妙な問題ですけれど、自分の志としては平和を望んでいたんだっていうことですよね。開戦で言えば、(19)41年の9月6日の午前会議ぐらいまでは昭和天皇は明らかに迷ってますよね。ためらっている。

 軍の強硬派にに対する警戒心があって、ためらっていると思いますけど、そのあとは消極的な形であるにせよ、開戦はやむなしっていうふうに考えたのは事実だと思うんで、最終的に今、あの、軍の意見に同調する形になるわけですけど、その部分はちょっと落ちちゃっているところですね」

 語り・広瀬修子「田島は大学時代、国際親善と平和を説いた新渡戸稲造に学んだ。戦争中から軍部に批判的だったと言う」

 日本大学文理学部教授(近現代史)

 古川隆久「やはり田島は民間人で、民間の組織の責任の在り方を分かっていますから、それ(弁解)を普通の人に言ったら、分かってもらえないだろうっていうことがあって、天皇の立場でそれを言ってしまうと、他に責任転嫁してることになってしまうので、外には言わない方がいいってことになっていますけれども、まさにあれは昭和天皇の偽らざる信頼できる人だけに言える本音の一つだというふうに思いますね」

 語り・広瀬修子「結局但馬は『事志と違い』を削除し、『勢いの赴くところ』という表現に改めた。戦争への反省を巡って会話を進めるなか、昭和天皇が何度も口にした言葉があった。陸軍の中心にいて、政治を左右した軍閥への不満や批判だった」

 『拝謁記』中に書き記された「軍閥の弊」、「軍閥の政府に終始不満」、「軍閥がわるいのだ」といった天皇の言葉。

 片岡・昭和天皇言葉「私は再軍備によって旧軍閥式の再台頭は絶対いやだ」

 「朝鮮戦争勃発 1950年6月」のキャプション。

 語り・広瀬修子「1950年、朝鮮戦争が勃発。これをきっかけに日本では再軍備に向けた動きが始まる。警察予備隊が発足(「1950年8月」のキャプション)。予備隊が旧軍と同じ捧げ銃(つつ)を行っているのを見た天皇は、次のように述べた」

 片岡・昭和天皇言葉「ともすると、昔の軍にかえるような気持を持つとも思えるから、私は例の声明、メッセージには反省するという文句は入れた方がうよいと思う」

 「吉田・ダレス会談 1951年」のキャプション
 
 語り・広瀬修子「当時アメリカは日本に再軍備を強く求めていた。しかし吉田茂はアメリカの特使ダレスに対して消極的な姿勢を示した。経済的な復興を優先したからである」

 「吉田茂 1955年録音」のキャプションと録音テープの映像。

 語り・広瀬修子「吉田は証言している」

 吉田茂テープ音声「ダレスが来たときだったかな、再軍備で。冗談言っちゃあいけないと。そう言ったんですよ、私はね。再軍備なんてもってのほかだと。日本の実情を知らないから、そんなことを言うんだと。

 出来るもんじゃない。本人、ダレスの目の前でそう言ってやったんですよ。日本としてはなるべくあいつを利用して、アメリカに(朝鮮戦争は?)おっかぶせて、そして倹約しようと」

 語り・広瀬修子「ダレスの要求に応じない吉田」

 吉田茂演説「我が党は再軍備はいたさない」

 「衆議院議員 鳩山一郎」のキャプション

 語り・広瀬修子「これに対して公職追放を解除された保守政治家たちは改憲した上での再軍備を主張していく」

 鳩山一郎演説「日本にある警察予備隊は巡査なんですか?兵隊なんですか。そんなんじゃないです。これは軍隊でありますので、私は憲法改正は必要だろうと思います」

 会場の聴衆が一斉に拍手。

 語り・広瀬修子「こうした情勢のもと、昭和天皇は田島にどのような考えを伝えていたのか。天皇は旧軍閥の復活に反対しながらも、朝鮮戦争の最中、共産勢力の進出を心配していた」

 片岡・昭和天皇言葉「軍備と言っても、国として独立する以上、必要である。軍備の点だけ公明正大に堂々と(憲法を)改正してやった方がいいように思う」

 語り・広瀬修子「昭和天皇は再軍備について何度も田島に相談していた」

 片岡・昭和天皇言葉「吉田には再軍備のことは、憲法改正するべきだということを質問するようにでも言わんほうがいいだろうね」

 語り・広瀬修子「再軍備を巡って異なる意見を持つ天皇と吉田茂。研究者はそれ次のように読み解く」

 「歴史家(近現代史) 秦郁彦」のキャプションと人物映像。

 秦郁彦「ここでね、日本の安全保障に対する昭和天皇のこだわり、憲法第9条を改正して再軍備をするというのは、主権国家としてね、当然ではないんだろうかと。しかし旧軍閥の復活はダメだという、その前提がありますけれども。

 で、吉田は吉田で独自の再軍備の構想を持っていて、とにかく今すぐね、ちょうど警察予備隊ができたとこですけど、日本の経済力が足らないうちはできないから、それまでは待ってもらいたいという意味を込めて再軍備反対」

 語り・広瀬修子「質問という形で吉田茂に度々意見を伝えようとする天皇。田島は次のように諌めた」

 田島道治言葉音声化「そういうことは政治向きの事ゆえ、陛下がご意見をお出しになりませぬ方がよろしいと存じます。例え吉田首相にでも御触れならぬ方がよろしいと存じます」

 「象徴 【内奏】天皇への報告」のキャプション。

 語り・広瀬修子「明治憲法では天皇は神聖にして侵すべからずとされ、大権を持った君主であった。戦後、新憲法で象徴となっても、昭和天皇は総理大臣に内奏を求め、
政治や外交についての意見を伝えようとしていた」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「やっぱり二つの憲法を生きた天皇なので、昭和天皇は明治憲法と日本国憲法。明治憲法の時代の意識が必ずしも払拭できていないところがやっぱりありますね。元首としての自知識って言いますかね、それはやっぱり一本ずっとあって、やはり色んな問題について自分の意思を表示しようとする。

 それに対して田島は、もう日本国憲法の下で象徴天皇制を位置づけていくという、こいういうはっきりした問題意識を持っていますので、政治に関わるような問題を天皇が言うのは絶対ダメっていう、そんな意思はかなりはっきりしていて、象徴天皇制の枠の中に天皇を押しとどめる、と言うと、言葉は悪いですけれども、押しとどめようとした。

 そのためにはかなり厳しいことも、諌めるようなことを繰り返し言っているわけですね。やっぱり日本国憲法のもとでの天皇制なんだっていう、天皇なんだっていうことがあって、それは田島の一貫した責任感のようなもの、それを感じますね」

 語り・広瀬修子「(1952年)3月4日、田島は総理大臣吉田茂の元を訪ね、お言葉案を説明した。吉田はこのように述べた」

 吉田茂言葉音声化「大体結構であるが、今少し積極的に新日本の理想というもを力強く表して頂きたい」

 語り・広瀬修子「吉田の求めに応じ、次の言葉が追加された。『新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは期して待つべきであります』。

 憲法尊重の文言が加えられ、3月30日、お言葉の最終案ができあがった。田島は大磯の邸宅にいる吉田茂に最終案を速達で郵送した。最終案を吟味する吉田茂。田島のもとへ吉田から思わぬ手紙が届いた」

 「御座所 1952年4月18日」のキャプション。

 目を閉じて聞く天皇。

 橋爪・田島道治言葉(天皇の前に立った姿勢)「一昨日夕方、手紙が送ってまいりました。ところが、一節全体を削除願いたいという申し出でありました。それはこの節であります。『勢いの赴くところ、兵を列国と交えて敗れ、人命を失い、国土を縮め、ついにかつてなき不安と困苦とを招くに至ったことは遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき=過去の実績)に顧みて、悔恨悲痛、寝食のために安からぬものがあります』

 語り・広瀬修子「赤鉛筆で記された『吉田首相削除説』の文字。そこは天皇が戦争への悔恨を表した重要な一節だった。吉田が削除を求めた背景には当時、再燃しようとしていた天皇退位論があった」

 「衆議院予算委員会 1952年1月」のキャプション。

 語り・広瀬修子「国会で中曽根康弘議員が質問した」

 中曽根康弘発言「天皇が御自らのご意思でご退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当であると思われるのであります」

 吉田茂発言「これを希望するが如き者は私は非国民と思うのであります」

 語り・広瀬修子「田島は吉田の懸念を天皇に伝えた」

 橋爪・田島道治言葉「要するに折角今声をひそめてるご退位説をまた呼びさますのではないかとの不安があるという事でありまして、今日は最早戦争とか言う事は言って頂きたくない気がする。領土の問題、困苦になったという事は、今日申しては天皇責任論にひっかかりが出来る気がするするとの話でありました。

 その次の『勢いの赴く所』以下は兎に角、戦争をお始めになったという責任があると言われる危険があると申すのでございます。田島としましては昨年来陛下国民に心情を告げたいという思召の出発点が消えてしまっては困りますというような事で、一応分かれて参りましたが、思召、お感じの程は如何でございましょうか」

 片岡・昭和天皇言葉「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思う。やはり戦争が意思に反して行われ、その結果がこんなになったという事を前に書いてあるから分かるが、それなしではいかぬ」

 語り・広瀬修子「吉田の『一節削除』は何を反省するのか曖昧になる原稿だった。4日後、天皇はなおも戦争への反省を拘った」

 橋爪・田島道治言葉「あれからずっと考えたのだが――」

 片岡・昭和天皇言葉「総理が困ると言えば、不満だけれども、仕方ないとしても、私の念願ということから続けて、遺憾な結果になったという事にして、反省のところへ続けるという事は出来ぬものか」

 語り・広瀬修子「田島は普段とは異なる天皇の様子を記している」

 橋爪・田島道治言葉「今日ははっきり不満を仰せになる。総理の考えと致しましては、終戦の時のご詔勅で一先ず済みと致しまして、むしろ今後の明るい方面の方の事を
主として言って頂きたいという方の考えであります。

 この際、戦争とか敗戦ということは生々しいことは避けたいという意味であります」

 片岡・昭和天皇言葉(声を大きくして)「しかし戦争の事を言わないで、反省の事がどうしてつなぐか」

 橋爪・田島道治言葉「戦争の事に関して明示ない以上ぼんやり致しますが、反省すべきことは何だと言う事は分かると思います」

 橋爪・田島道治言葉「別に何とも仰せなく、曇ったご表情に拝す」

 語り・広瀬修子「吉田の削除に不満を隠さない昭和天皇。祝典(皇居前広場で行われた独立記念式典)は12日後に迫っていた。田島は詳細なメモを作って、準備した。このメモを元に田島は天皇への最後の説得に臨んだ。それは次のとおりだった」

 立った姿勢で天皇に対して原稿を読む田島道治の映像。広瀬修子のナレーションに応じてテロップが流れていく。

 語り・広瀬修子「『国政の重大事 政府の意思尊重の要 祝典の祝辞に余り過去の暗い面は避けたし 遺憾の意表明 則ち退位論に直結するの恐れ』」

 橋爪・田島道治言葉「お言葉につきまして田島が職責上、一人の責任を持ちまして、やはり総理申し出の通り、あの一節を削除なさった方がよろしいという結論に達しました。

 国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思います」

 片岡・昭和天皇言葉「長官がいろいろそうやって考えた末だから、それでよろしい」

 橋爪・田島道治言葉「御思召を1年近く承りながら、今頃こんな不手際に御心配おかけし、御不満かもしれませぬものを御許し願い、誠に申し訳ございませぬ」

 深々と頭を下げる田島道治。

 片岡・昭和天皇言葉「いや、大局から見て、私はこの方がよいと思う」

 語り・広瀬修子「田島は新しい憲法の下で象徴となった天皇は内閣総理大臣の意見を尊重するべきだと伝えた」

 日本大学文理学部教授(近現代史)

 古川隆久「天皇が心の底から納得したかどうかはちょっと別なんですけれども、少なくとも田島は政府の当局者である吉田茂首相ととことん話し合って、納得してやってるんだと思います。その象徴天皇制の枠の中で天皇はどこまで政治的な発言ができるか、初めての具体的な例。

 結局はなるべく具体的なことは言わない方向がベストだろうという方向に落ち着いていった過程がこの資料で見えてきたというふうに思います」

 語り・広瀬修子「1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効されて、日本は独立を回復した。5月3日、皇居前広場で式典が開かれ、4万人が詰めかけた。昭和天皇は国民の前でお言葉を述べた」

 昭和天皇(映像)「さきに万世のために太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受諾して以来、年をけみすること七歳。米国を始め、連合国の好意と国民不屈の努力とによって、ついにこの喜びの日を迎うることを得ました(聞き入っている吉田茂の映像)。

 ここに内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に戦争による無数の犠牲者に対しては改て深甚なる哀悼と同情の意を表します。また特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびなせざることを堅く心に銘すべきあると信じます。

 (巡幸する昭和天皇の映像や皇居の水田で米の種を撒く映像等)

 新憲法の精神を発揮し、新日本国建設の使命を達成し得ることを期して待つべきであります。この時に当たり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただ及ばざることを恐れるのみであります・・・・・・・」

 熱狂的にバンザイする群衆の映像。
 
 語り・広瀬修子「新聞は退位説に終止符を打ち、決意を新たに独立を祝うと報じた(新聞の見出しの映像)。このお言葉はその後の日本にどのような影響を残したのか」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「やっぱりその、謝罪、責任を認めて、道義的な責任を認めて詫びるっていうところのニュアンスは明らかに消えちゃってますよね。むしろ重い負担を敢えて背負う形で引き続き天皇としての責任を果たすという議論だけになっちゃったり。

 天皇の責任の所在を天皇自身が明らかにするっていう言葉があれば、戦争に協力した国民の責任も含めて、そこから議論が始まりますよね。それが大きな問題。もし出されていれば。

 すべての責任を天皇だけに、昭和天皇だけに押し付けるわけにはいかないわけですから。戦前、戦後を生きてきた政治家や周りの人が戦争に協力した責任、国民の責任をどう考えるのか。そういう問題にも発展していく可能性のある問題だと思うんですね。

 ただこれがやっぱり曖昧な形で処理されてしまったっていうのは、悔やまれるところですね」

 歴史家(近現代史) 

 秦郁彦「結局、うやむやの内になってしまったという、だからそれは、天皇にとっては非常に心苦しかったんだと思いますけれどもね。昭和天皇はせめてですね、国民に対する、まあ、いわばお詫びみたいなね、そういう言葉を入れたかったと。だけど、吉田は『そんなものは入れるな』と言う。

 (株取引所に活況シーン、建設ラッシュの映像)

 ちょうど朝鮮戦争の特需ってのがありましてね、それで以って景気が回復されて、いわばですね、経済成長路線というものに踏み出していくと。そういう未来が見えてきたわけですからね、国民の大多数がどん底から這い出て、経済成長路線にどうやら乗ったらしいと、みんな前の方に希望を託すと――」

 語り・広瀬修子「1953年(12月)、田島は宮内庁長官の職を退いた。その後、ソニー会長になった田島。1960年(9月)、ご成婚直後の皇太子夫妻がソニーの工場を訪れた。迎える田島道治(その映像)。

 初めての民間出身の皇太子妃誕生。その選定にも貢献があった。戦後、国民と歩みを共にしてきた昭和天皇。1989年、87歳で生涯を閉じた。昭和から平成、そして令和へ。受け継がれてきた
象徴天皇。その出発点を記録した『拝謁記』。田島は、次のように記している。

 『新しき皇室と国民との関係を理想的に漸次致したいと存じます』

 昭和天皇と田島道治の5年間の対話。それは象徴天皇とは何か。改めて私たちに問いかけている」(終わり)

 改めて大日本帝国憲法第1章「天皇」の主だった条文を記載してみる。

 第1章 天皇
 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(兵士の人数)ヲ定ム

 番組でも、〈大日本帝国憲法では天皇は軍を統帥し、統治権の全てを握っていた。〉と絶対的主権者であることを紹介していた。いわば軍の統帥に関しても、国家と国民に対する統治権に関しても、大日本帝国憲法は天皇なる存在に対してオールマイティを保障していた。だからこそ、「神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定される至っていた。

 1928年(昭和3年)6月4日、日本の関東軍は高級参謀の日本政府の関与を受けない単独謀略によって中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で奉天軍閥の指導者張作霖を列車ごと爆発させて暗殺した。番組はこの事件を、〈事件を曖昧に処理しようとした総理大臣の田中義一を昭和天皇が叱責したら、首謀者は転職になっただけで、真相は明らかにされなかった。〉と紹介しているだけではなく、〈その3年後(1931年9月18日)、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府はそれを追認した。昭和天皇は軍の下克上とも言える状態を憂えていた。〉と軍部の独断専行を描写している。

 軍部に顕著なこういった不穏な事態からは天皇の軍に対する威令を伴ったオールマイティな統帥権は見えてこない。天皇の統帥権を他処に勝手に動く軍の動向のみ見えてくる。

 初代宮内庁長官田島道治によって『拝謁記』に記された昭和天皇の言葉、「青年将校は私を担ぐけれども、私の真意を少しも尊重しない。軍部のやることは、あの時分は真(まこと)に無茶で、とてもあの時分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」云々からも、同じく絶対的統帥権者としての昭和天皇のオールマイティな姿はそのカケラさえも見えてこない。

 さらに『拝謁記』に記した昭和天皇の言葉、「東條内閣の時は既に病が進んで、最早どうする事も出来ないということになってた」云々の「病」とは昭和天皇から見た軍部の独走・横暴を言っているのだろう。

 元々は対米開戦反対派の昭和天皇が対米開戦派であり、陸軍強硬派の東条英機を木戸内大臣の推挙を受けて、1941年10月17日に当時陸軍大臣だった東条英機を皇居に招き、組閣の大命を下したのは強硬派を以って軍部の強硬派を抑えて、対米開戦の動きを封じる意図からだと言われているが、その意図も虚しく、空振りに終わって、東條英機は対米開戦派の先頭に立つに至った。

 東条英機のその動きに対して昭和天皇は『拝謁記』に自身がそれ程にも対米開戦に反対であったなら、「首相をかえる事は大権でできる事ゆえ、なぜしなかったかと疑う向きもあると思うが」との言葉を残している。だが、「事の実際としては、下克上で、とても出来るものではなかった」と、首相の首をすげ替える「大権」を「下克上」なる状況に阻害されて、自由に揮うことができなかった有体(ありてい)を正直に告白している。

 ここで言っている「下克上」とは天皇の絶対的統帥権内にあるべき、特に陸軍上層部がその統帥権を蔑ろにして勝手に動き回る権力の上下逆転を意味しているはずだ。

 このような状況からも、大日本帝国憲法に規定された絶対的主権者としての天皇のオールマイティは憲法の世界の中だけの話しで、現実の世界ではそのオールマイティは無情にもいつでも剥ぎ取られる、いわば裸の王様状態にあることを曝け出している。

 大日本帝国憲法内のオールマイティに過ぎないということはその憲法によって天皇はオールマイティの存在に祭り上げられていたに過ぎないことを意味する。祭り上げられていただけのことだから、実権なきオールマイティを背中合わせにすることになった。「神聖ニシテ侵スヘカラス」は簡単に無視される架空の存在性に過ぎなかった

 では、そのようにも実体を備えていない大日本帝国憲法での天皇の数々の絶対的規定でありながら、例え表面的なオールマイティに過ぎなかったとしても、そのようなオールマイティを規定しなければならなかった理由は何なのだろう。

 それは内情を知らない国民には有効な、あたかも実質を備えているオールマイティに見えるからに他ならない。大日本帝国憲法の規定通りに天皇を「神聖ニシテ侵スヘカラス」偉大な存在と解釈させることによって、天皇のその存在性を通して国民に対した場合、便利な国民統治装置となるからだろう。だから、戦前は何事も天皇の名に於いて決定されていった。

 戦前の天皇と国民の関係を見るとき、新興宗教の教祖と熱狂的な信者の関係を見ることができる。政界上層部や軍上層部は天皇に対してそういった関係は築きもしないのに国民に対してだけ、そういった関係で縛る。この場合、教祖に当たる天皇自体、軍部や政治家に操られる存在だった。

 そして大日本帝国憲法から日本国憲法へと憲法が変わった戦後の天皇象徴の時代になっても、天皇と国民の教祖と信者との関係はその名残りを残している。そのことは天皇を無闇矢鱈と有り難る国民の姿から窺うことができる。

 例え象徴であっても、天皇の存在は国民統治装置として大いに役立っている。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする