中学3年国語B学力テストを分析する(1)

2007-11-15 08:59:38 | Weblog

 07年4月の「知識の活用」(応用力)を問う中学生国語Bテスト。成績は「基礎知識」を問う国語Aの82・2%を10ポイント下回る72%と小学6年生と同じく「知識の活用」が「基礎的知識」を下回る。

 前回≪小学6年生学力テストを分析する≫と同じく、私自身の考えは途中途中に青文字で示した。問題用紙は縦書きだが、便宜上横書きに変えたのも同じ。問題の途中の「広告カード」のイラストは言葉のみで表した。
* * * * * * * *
中学校第3 学年/国語 B

 注 意

1 先生の合図があるまで、この冊子を開かないでください。
2 調査問題は、一ページから十六ページまであります。
3 解答は、すべて解答用紙(解答冊子の「国語B」)に記入してください
 。
4 解答は、HBまたはBの黒鉛筆(シャープペンシルも可)を使い、濃く
 、はっきりと
書いてください。
5 解答を選択肢から選ぶ問題は、解答用紙のマーク欄の番号や記号を黒く
 塗りつぶしてください。
6 解答を記述する問題は、指示された解答欄に記入してください。解答欄
 からはみ出さないように書いてください。
7 解答用紙の解答欄は、裏面にもあります。
8 この冊子の空いている場所は、下書きに使用してもかまいません。
9 調査時間は、四十五分間です。
10 「国語B」の解答用紙に、組、出席番号、性別を記入し、マーク欄を
 黒く塗りつぶしてください。

 問題は、次のページから始まります。

 (小学生と同じくテストのたびに受けることになる「注意」なのだろうから、口頭で受けて頭に入れさせる訓練を最初から行うべきだろう。それをご丁寧にも「濃く、はっきりと」と太字にして下線まで引くお膳立てを用意してやる。親が布団の上げ下ろしから部屋の掃除までしてやる生活上のお膳立てと同じことをしている。同じことをしながら、一方で親の教育は大切であると言う。

 例えどのような些細なことでも自身で判断させるという訓練を積み重ねることで判断力はついていくのだが、大人が逆のことをしている。)


【1】次は、中学生の前田さんが「総合的な学習の時間」でロボットについ
    て調べたことを発表する原稿【A】と、そのときに使用する表
    【B】
です。これを読んで、あとの問いに答えなさい。

 【A】
 私は、インターネットを使って、ロボットについて調べました。

 まず分かったことは、日本は、①工場で働く産業用ロボットの分野で世界をリードする存在であるということです。これも驚きだったのですが、さらに驚いたのは、アニメや空想の世界のものだと思い、あこがれでさえあったロボットが、現実のものになりつつあるということです。②災害救助用ロボットや二足歩行ロボットなどの様々なロボットが、次々と生み出されているのです。みなさんも、テレビなどで二本の足で歩くロボットを見たことがあるのではないでしょうか。日本は、世界有数のロボット大国なのです。

 また、私が思っていた以上に、多くの人がロボットに親しんでいるということも分かりました。大学などでロボットを研究している人たちがロボットの性能を競い合うコンテストが、毎年開催されています。テレビでも放映されているので、みなさんも知っているのではないでしょうか。これ以外にも、幅広い年齢層の人が参加する③様々なロボットの競技会が、全国各地で開かれています。

 しかし、ロボットが私たちの生活の中で多く使われるようになればなるほど、改めて考えなければならないことも増えてくると思います。例えば、ロボットに頼りすぎることはないかということや、ロボットを使うことが人を危険に巻き込むようなことはないかということなどです。人と人とのコミュニケーションの問題も考えられるかもしれません。

 ④幼いころからロボットに親しみ、ロボットをパートナーと考えることが可能となった私たちは、その長所と短所を十分に理解しながら、ロボットと共存する未来社会を描いていく必要があるのではないでしょうか。
  * * * * * * * *
 【B】

 (「キャタピラ付きのヘビ型ロボット」の写真)長さ120cm
 ・地震の災害地などに於いて、人間が入れないところで救援活動ができる
  。
 ・転がっても、すぐに体勢を戻すことができる。
 ・頭部に取りつけてあるカメラで被災者を探すことができる。
 
 (「二足歩行型ロボット」の写真)高さ40cm
 ・近づく人を赤外線センサーで検知し、チラシを配る。
 ・手渡しに成功するとお礼のポーズ。失敗すると謝りのポーズをとる。
 ・一定の時間、人が近づいて来なければ立ち上がり、腕を振って注意をひ
  こうとする。
 
 (「人型非歩行ロボット」の写真/足なし置物型)高さ100cm
 ・十名までの人の顔を識別できる。
 ・日常生活に必要な一万語を認識し、人とコミュニケーションをとること
  ができる。
 ・留守中に変わったことがあれば、所有者に連絡する。

 (社団法人日本ロボット工業会ホームページ、東京工業大学ホームページによる。)

 1.前田さんは、【B】の表を配布して、説明に生かしたいと考えてい
   ます。この表は、【A】の文章の下線線部からのどこで
   具体的な例として使うのがよいでしょうか。からのうち、最も
   適切なものを一つ選びなさい。

【正答例】 
 1. 2

 2.前田さんは、【B】の表と一緒に、ロボットを開発した人の考えも紹
   介することにしました。次は、どのロボットを開発した人の考えです
   か。【B】の表のからのうち、最も適切なものを一つ選びな
   さい。

 <少子高齢化が進む社会において、家庭での様々な会話を通じて、楽しく、安心な暮らしをサポートする存在としてロボットを提案した。>

(社団法人日本ロボット工業会ホームページによる。)


【正答例】
 2. ウ 

 3.【A】の文章中にロボットと共存する未来社会とありますが、あな
   たは、どのような未来社会を想像しますか。次の条件1条件2
   したがって書きなさい。

 条件1 人間とロボットとの未来の関係についてのあなたの考えを書くこ
         と。

 条件2 【B】の表に示されているロボットの「性能・特徴」のいずれ
         かに触れること。

【正答例】
 3.
 (例1)
   ロボットは、人間にはできない危険な仕事をしたり、生活のサポート
   をしたりすることができるようになっている。これからはもっとロボ
   ットの果たす役割が大きくなり、人間の生活に欠かせない存在になる
   と思う
   。
 (例2)
   人とコミュニケーションをとることができるロボットが増えれば、逆
   に人と人とのコミュニケーションに問題が生じるのではないか。

 (これってロボットに関して多くの人間が言っていることではないのか。世間一般の指摘をなぞらせているに過ぎない。判断能力を問いながら、生徒の判断を世間一般の常識に統一しようとするもので、生徒自身の独自性を問う質問となっていない。

 「幼いころからロボットに親しみ、ロボットをパートナーと考えることが可能となった私たち」はもっともらしい指摘ではあるが、事実その通りになっているのか。

 人とコミュニケーションを取るロボットは一般生活者には高額すぎて一部の利用にとどまることが予想されることと、何万語を認識しようとも、最初は物珍しさがあったとしても、機械であることに変わりはないから同じ声の調子、同じ反応――いわばプログラムに埋め込まれた決まりきったコミュニケーションに慣れが生じて飽きがくる可能性はないだろうか。物珍しさの刺激が薄れた場合、単なる置物と化す可能性が予想されて、人間間のコミュニケーションの問題が生じる前に普及しないように思える。

 テレビとロボットを比較するとよく分かる。テレビはもはや人間にとってなくてはならないコミュニケーション手段となっている。テレビの情報を鵜呑みにし、その情報に振り回される弊害も起きている。人間のコミュニケーションを問題にするなら、テレビとロボットの違いを問うことも一つの方法ではないだろうか。テレビは決して片方向のコミュニケーション手段ではない。人間がテレビの発信する情報に反応することによって、両方向のコミュニケーション機会となっている。テレビの情報を受け手がどう解釈するかによって判断能力が問われる。

 それが人間間のコミュニケーションに反映する。

 直接的に言葉と言葉を交すのではなく、メールの方が言いたいことを言えるといった携帯電話のメールを使ったコミュニケーションの偏重、ゲームを1日の主たるコミュニケーション手段としている若者、インターネットオークションやインターネット株取引にはまって日々の刺激とし、人間間の直接的なコミュニケーションが減少している現象。一匹や2匹のペットで我慢できず、何十匹と捨て猫や捨て犬を拾ってきて家で飼い、それら犬やネコの飼育と会話で1日を過ごし、世間と並みの付き合い(=並みのコミュニケーション)ができなくなった人間。

 とすると、コミュニケーションの問題に関しては、「人は現在、どのようなコミュニケーション方法を生活手段としているか。そこに何か問題が潜んでいないか」と問うことも、答に応じて生徒それぞれの判断を窺うことができる。「考えさせる」ことを目的とするなら、世間一般の指摘をなぞらせる、あるいは世間一般の指摘に導くのではなく、生徒それぞれの考えを問う質問を用意すべきだろう。)


【2】 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。

   一

 ある日のことでございます。お釈迦様(しゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色(注1)の蕊(ずい)からは、何ともいえない好(よい)匂(にお)いが、絶え間なくあたりへ溢(あふ)れております。極楽はちょうど朝なのでございましょう。

 やがてお釈迦様はその池のふちにお佇(たたず)みになって、水の面を蔽(おお)っている蓮の葉の間から、ふと下の容子(ようす)を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、ちょうど地獄の底に当たっておりますから、水晶のような水を透(す)き徹(とお)して、三途(さんず)の河や針の山の景色が、ちょうど覗(のぞ)き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。

 するとその地獄の底に、犍陀多(かんだた)という男が一人、ほかの罪人といっしょに蠢(うごめ)いている姿が、お眼(め)に止まりました。この犍陀多という男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊(おおどろぼう)でございますが、それでもたった一つ、善いことをいたした覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛(くも)が一匹、 路(みち)ばたを這(は)って行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみにとるということは、いくら何でも可哀(かわい)そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

 お釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けたことがあるのをお思い出しになりました。そうしてそれだけの善いことをした報いには、できるなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、翡翠(ひすい)のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけております。お釈迦様はその蜘蛛の糸をそっとお手にお取りになって、玉のような白蓮の間から、遥(はる)か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをお下ろしなさいました。

   

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人といっしょに、浮いたり沈んだりしていた犍陀多でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくらやみからぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのでございますから、その心細さといったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞こえるものといっては、ただ罪人がつく微(かす)かな嘆息(ためいき)ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責め苦に疲れはてて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血に咽(むせ)びながら、まるで死にかかった蛙(かわず)のように、ただもがいてばかりおりました。

 ところがある時のことでございます。何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとしたやみの中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思わず手を拍(う)って喜びました。この糸に縋すがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいることさえもできましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることもあるはずはございません。

 こう思いましたから犍陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。もとより大泥坊のことでございますから、こういうことには昔から、慣れ切っているのでございます。

 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦(あせ)ってみたところで、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下がりながら、遥かに目の下を見下ろしました。

 すると、一生懸命にのぼったかいがあって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもうやみの底にいつの間にかかくれております。それからあのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかもしれません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出したことのない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻(あり)の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐ろしいのとで、しばらくはただ、大きな口を開いたまま、眼ばかり動かしておりました。自分一人でさえ断(き)れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪えることができましょう。もし万一途中で断れたといたしましたら、せっかくここへまでのぼって来たこの肝腎(かんじん)な自分までも、元の地獄へ逆落としに落ちてしまわなければなりません。そんなことがあったら、大変でございます。が、そういううちにも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今のうちにどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。

 そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体だれに尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。

 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下がっている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから、犍陀多もたまりません。あっという間もなく風を切って、 独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見るうちにやみの底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。

 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

   

 お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、浅ましくおぼしめされたのでございましょう。

 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには(注2)頓着(とんじゃく)いたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様の御足(おみあし)のまわりに、ゆらゆら(注3)ら萼(うてな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何ともいえない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れております。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。

 ( 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)「蜘蛛の糸」による。)

(注1)  蕊=種子植物の生殖器官。おしべやめしべの総称。
(注2)  頓着=深く心に掛けること。気にすること。
(注3) 萼=花のがく

  中学3年国語B学力テストを分析する(2)に続く


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