尾木直樹の体罰が考える力発の言葉の問題だということに気づかないこども基本法講演

2024-10-27 05:34:24 | 教育

 Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 尾木直樹は2022年7月23日のこのこども基本法講演で、自身の学校教師辞職が務めている学校の体罰問題だったことを明かしている。尾木直樹の人間性を知る上で参考になると思うから、このイキサツを改めて取り上げてみる。

 「僕が辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね」

 述べているのはこれだけだから、具体的な事情は知りようがない。詳しく知りたいと思ってネットを探したところ、2014年10月9日付「産経ニュース」が伝えていた。一部抜粋。

 インタビューなのか、次のように話している。「授業を休んで講演会に行ったことは一度もありません。ただ、夏休みはほとんど講演と執筆活動に充てていました。仕事が早いし、集中力があるんでしょうか。話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けますし、いくつもの仕事を同時並行でできるんです。

 その後、非行のデパートと呼ばれる学校にも異動しました。そこにいたからこそ今、教育評論家をやれているのです。どんな問題でもおおよそ想像ができますから」――

 「最後に勤めていた学校でも体罰が横行していました。当時、『子供の権利条約』が批准されて、私も子供たちのためのテレビ番組に出演したり、講演会で話したりしていました。その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする。

 ある日、学校に行ったらクラスにいるサッカー部の生徒4人が丸刈りになっていたんです。事情を聴いたら、練習試合で小学生に負けたので、顧問が『恥をしれ』と強制したらしいのです。しかも生徒はニコニコしながら話す。保護者からクレームがあれば『先生、保護者が怒っているから考えようよ』とか言えるんですが、それもない。外では『体罰はだめだ』と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。

 いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ちもあって、その学校には1年いて、教師を退職することにしました。

 すると保護者が自宅に大挙して押しかけてきて、『なぜやめた』と怒るんです。体罰の事情を説明したら、『すぐに保護者が学校に文句を言って尾木先生の味方をしたら、先生たちの中で浮いてしまってやりにくいだろう』と気遣ってくれた。それで『1年待って、尾木先生の足場ができたら一緒にやろうと考えていた』という話でした。うれしかった半面、残念、短気だったなと後悔しました」――

 ところどころ自慢が入って、自分を宣伝することを忘れない抜け目のない点も一つの人間性である。「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」、「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」、「(長年の教師勤務の経験によって)どんな問題でもおおよそ想像ができます」

 先ず、「その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする」とは、どういう意味なのだろうか。尾木直樹の「体罰はだめだ」の考えを強く支持する先生の存在を以ってしても、ファンである本人が生徒に対して体罰を禁止できるだけの影響力を持ち得ていないことから、学校で体罰が横行しているという意味なのか、尾木直樹の支持者でありながら、支持する考えに反して自ら体罰を行っているという意味なのだろうか、両方に取れる。

 前者だとすると、より強い影響力があるはずの本家本元の尾木直樹の方がファンの先生よりもその点で劣っていて、体罰禁止、あるいは体罰排除の力とはなり得ていないことを示すことになる。

 後者だとすると、ファンを自任しているが、自任に反する行為に走っていることになって、ファンの先生個人の問題となるが、それでも、その先生に関しては尾木直樹の影響力はその程度で、絶対的ではないどころか、お粗末そのものとなる。

 となると、「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」等は体罰解決に(イジメ解決にしても同じだが)結びつけることができていない能力となるが、最初からそのことに気づかずに自身の優れている能力としてひけらかしていたことになって、その見当違いは教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。

 その欠陥は、「いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ち」から臨床教育研究所「虹」を立ち上げて、そこの所長に収まっている事実を中身の伴わない見せかけとすることになるだけではなく、
「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」と自負していることも、ただ単に講演依頼が多い、著作物が売れている、テレビ番組の出演が多い等、人気があるということだけのことで、実際には言っているとおりの教育効果を上げているわけではない。

 このことの証明として2013年発売の自著で、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」を、体裁よく名前をつけて行っているが、年々増加のイジメ認知件数が"なくす"どころではない深刻化を招いている実態を挙げることができる。

 何もかも見せかけであることはこの足元の体罰をキッカケに教師を辞職した経緯にその片鱗が既に現れている。

 サッカーの練習試合で小学生のチームに負けたサッカー部生徒4人を顧問が丸刈りの坊主頭とする体罰を行った。だが、生徒4人はニコニコしているし、保護者からクレームがあれば、「先生、保護者が怒っているから考えようよ」と言えると説明している。

 先ず第一番に本人の意志に反して強制的に坊主刈りにする。人権侵害行為に当たるにも関わらず、本人たちがニコニコしているからとその危うい人権感覚を正さずに放置したままにできる尾木直樹の人権意識は教師とは名ばかりで、見せかけの教師に過ぎなかったことを証明することになる。

 次に生徒からか、保護者からのクレームを体罰を注意する基準としていて、体罰を用いた躾上の問題点や教育上の問題点を注意する基準としていないことになり、当時の学校教育者としての人間性に疑問符がつけなければならないことになる。

当然、尾木直樹が体罰やイジメについて何を語ろうと、何を訴えようと、全て見せかけの綺麗事に過ぎないと見なければならない。にも関わらず、臨床教育研究所「虹」の所長に収まっている。

 この胡散臭いばかりの偽善は計り知れない。体罰やイジメ解決とは結びつかない能力であることを弁えることもできずに「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」などなどの能力自慢の胡散臭さに現れている偽善、その人間性と相響き合う。

 尾木直樹はこの講演で体罰に関して前半部分の最初にフッリップで掲げた「問題山積の教育現場と子どもたちの実態」の中で、〈④ 体罰と「指導死」問題」〉を取り上げていて、後半部分で掲げたフッリップ、「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 」では、〈④子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の恵識を変えていくことが必要〉と主張している。

 但し、〈体罰と「指導死」問題」〉についての具体的な解説は前半部分でも、後半部分でも一切触れていない。多分、時間の都合で省いたのだろう。

 後半部分での体罰に関する言及を見てみる。

 「4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと。

 ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。

 ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある」――

 尾木直樹は、「メディアとか、社会ぐるみ」で体罰に関する社会の意識改革を行っていく必要があると訴えているが、文科省は学校に対して体罰禁止の通達を出し、厚労省はポスター等で〈2020年から法律が変わりました!

 体罰等によらない子育てを広げよう!子どもへの体罰は法律で禁止されました。体罰等によらない子育てを推進するため、子育て中の保護者に対する支援も含めて社会全体で取り組んでいきましょう。〉などと啓発活動を行っている。

 厚労省がここで「2020年から法律が変わりました!」と言っていることは「改正児童虐待防止法」を指す。尾木直樹の「こども基本法講演」は2022年7月23日だから、この啓発活動は講演の2年も前からだが、ネットに学校での体罰を最初に禁止した法律は明治12年(1879年)の教育令第46条だと出ているが、例え啓発活動にまで踏み込んでいなかったとしても、最近ではどのような法律の施行であっても、啓発活動を同時進行させる。

 ネットで探した例を紹介してみる。法務省の《令和2年度に講じた人権教育・啓発に関する施策》(法務省)には、

 〈学校教育

ア 人権教育の推進
文部科学省では、人権教育・啓発推進法及び「人権教育・啓発に関する基本計画」(平成14年閣議決定、平成23年一部変更)を踏まえ、学校教育における人権教育に関する指導方法等について検討を行い、平成16年6月に「人権教育の指導方法等の在り方について[第1次とりまとめ]」、平成18年1月に[第2次とりまとめ]、平成20年3月に[第3次とりまとめ]を公表した。令和3年3月には、[第3次とりまとめ]策定後の社会情勢の変化を踏まえ、[第3次とりまとめ]を補足する参考資料を作成した。文部科学省では、この第3次とりまとめなどを全国の教育委員会や学校等に配布するなど、人権教育の指導方法等の在り方についての調査研究の成果普及に努めて
いる。〉ことや、〈青少年の保護者向け普及啓発リーフレット「保護者が正しく知っておきたい4つの大切なポイント(児童・生徒編)」〉を作成・配布する啓発活動を行っている。

 上記「第1次とりまとめ」は次のような記述となっっている。

《人権教育の指導方法等の在り方について》(第1次とりまとめ)には、

〈② 子どもに関する課題として、子どもたちの間のいじめは依然として憂慮すべき状況にあるほか、教師による児童生徒への体罰も後を絶たない。また、親による子どもへの虐待なども深刻化しつある。〉、〈⑩児童虐待や体罰等の事案が発生した場合には、人権侵犯事件としての調査・処理や人権相談の対応など当該事案に応じた適切な解決を図るとともに、関係者に対し子どもの人権の重要性について正しい認識と理解を深めるための啓発活動を実施する。(法務省)〉等、体罰が後を絶たない状況の説明とそのことに対応した啓発活動の実施の必要性を既に平成16年(2004年)から訴えている。

 要するに尾木直樹の啓発活動の訴えは後追いに過ぎないと同時に日本の啓発活動がスウェーデンのようには効果を上げていないことを示すことになるが、この事実に気づかなままに啓発活動を訴えていることになり、この点についても尾木直樹の教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。

 最も重要なことは体罰が後を絶たない状況は啓発活動が効果を発揮できていない状況と相互対応しているという点であり、このことを見逃してはならない。特にイジメも人権問題であり、イジメの年々の無視できない増加は社会的啓発活動にしても、学校教師に対する文科省通達等による直接的な指導・啓発活動にしても、殆ど役に立っていない証明となってしまう。

 啓発活動の無効性は人々の意識の硬直性を意味する。尾木直樹はこういった現状を考えもせずに啓発活動や人々の意識の変革を訴えることができるのは法律の字面のみの解釈で終わっているからだろう。 

 2022年度の教師の体罰件数を見てみる。「令和4年度公⽴学校教職員の⼈事⾏政状況調査について」(概要)(文科省/令和5年12⽉22⽇)によると、

〈教育職員の懲戒処分等の状況
○懲戒処分等(懲戒処分及び訓告等)を受けた教育職員は、4、572⼈(0.49%)で、令和3年度から102⼈減少。
・「体罰」により懲戒処分等を受けた者は397⼈(0.04%) (令和3年度︓343⼈(0.04%))、
「不適切指導」により懲戒処分等を受けた者は418⼈(0.04%)。(令和3年度︓406⼈(0.04%))〉となっている。

 確かに教職員全体から見れば、「体罰」を働いて懲戒処分等を受けた教師は0.04%、「不適切指導」により懲戒処分等を受けた教師は同じく0.04%とごく少数ではあるが、前年度より減っているわけではなく、それぞれ少しずつ増えている。少しずつであったとしても、啓発活動の逆行性を示すことになるし、ここには親の子どもに対する体罰そのものである虐待は含まれていない。

 《令和4年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数(速報値)》(こども家庭庁)によると、次のような虐待相談件数となっている。

令和3年度(2021年度) 207,660件
令和4年度(2022年度) 219,170件(速報値)

 因みに令和3年度(2021年度)の国公私立中学校3年間のイジメ認知件数は9万7937件であり、小学校6年間で計算すると約19万件のイジメ認知件数に匹敵する虐待相談件数となって、如何に多い件数か把握できる。

 小中9年間、高校までだと12年間、子どもが学校で、あるいは大学まで進学したとしても16年間を学んで社会に出て、成長して結婚して子どもを持って親となるという循環を考えたとき、その中から体罰を働く親が出た場合、その親が子どものときの親の教育・躾が悪くて、子どもとしての人間的成長に役に立たなかったとしても、その後の学校教育という現場で教師が人間的成長の育みに見るべき刺激を与え得ず、スルーさせてしまったことを示すことになって、教師としての役目が問われることになる。

 さらには教師自身が教員免許試験に合格し、都道府県教育委員会から教員免許状を授与されて教員となるについては大学等で「教職論」「教育原理」「教育心理」等を学び、これらの知識・情報を知の栄養、いわば自分自身に独自の知識・情報の栄養素としていなければならない。でなければ、学んだ意味が出てこないし、体罰に対して自己コントロールできない教師が跡を絶たないことになる。

 断るまでもなく体罰の何が問題なのかは身体に対して直接的または間接的に肉体的苦痛を与える行為、あるいは注意や懲戒の目的で私的に行われる身体への暴力行為などと言われているが、有形力を行使した、あるいは威迫的意思を行使した強制的躾であり、このことは教育の現場と言いながら、言葉を用いて相手を納得させる道理に適ったプロセスを省いていることを意味していて、このようなプロセスを持った児童対児童、あるいは生徒対生徒の関係性がイジメと言うことになる。

 大学で教育を受けながら、適切で合理性に適った言葉を駆使した躾ができずに言葉の威しや有形力に頼ってしまう教化・指導がなくなくならない、減りもしない原因は児童・生徒を個人として尊重する姿勢に基づいた理性的な言葉を日常普段から使い慣れていないか、冷静さを欠くと理性がどこかに飛んでしまうからで、これらのことも高等教育を受けた意味をなくすが、逆に児童・生徒に対して個人として尊重する扱いと言葉を理性的に話すことを習慣としていたなら、その習慣性によって体罰に対する抑止力の役目を果たすだけではなく、そのような習慣は児童・生徒も目や耳にしたり、肌で感じることになって自ずと学ぶことになり、イジメに対する抑止力ともなるはずだが、現状はそうはなっていない。

 要するに体罰を必要としない言葉を話す力=言語力の不足に陥っている。考える力(=思考力)が言語力を養うことになるのだが、考える力の不足が言語力の不足と対応することになり、その関連性によって教化・指導に手っ取り早く体罰を用いてしまう。

 要するに考える力もない、言葉のコミュニケーション力もないことが体罰に向かわせてしまう。

 但し考える力の不足が原因となる言語力不足は体罰を行う教師ばかりの問題ではなく、他の教師や児童・生徒全般に関して指摘できる考える力不足(=思考力不足)と言語力不足であって、その原因は断るまでもなく今なお主流となっている暗記教育に影響を受けている。

 子どもの思考力不足と言語力不足は言われて久しいが、日本の教育のプロセスが教師の与える知識・情報を児童・生徒にそのままなぞらせる形で機械的に彼ら自身の知識・情報へと持っていく、その反復の強制を内容とする暗記型教育となっていて、教師からの知識・情報が児童・生徒それぞれの思考を刺激し、それぞれに自分なりの意味・解釈を付け加えることになる知識・情報へと持っていく仕掛けの思考型教育とはなっていないことが考える力の貧困状態を作り出して、結果として言語力不足を成果とすることになっている。

 となると、スウェーデンでの39年を掛けて95%から2%へと持っていった家庭内も含めた体罰減少は体罰で子どもを躾けることが社会的常識となっていて、それを当たり前のことと容認する場所で思考停止状態となっていたが、人権意識に基づいて法律で体罰禁止を打ち出し、社会に向けて体罰禁止の啓発活動を行うと、社会の側が考える力を刺激されて思考停止状態を解くことになった結果、体罰の目を見張る減少ということでなければ、理解を得ることはできない。

 なぜなら、既に触れたように体罰は考える力の不足(=思考力不足)が招くことになる言語力不足(=言葉のコミュニケーション力不足)が原因なのであって、スウェーデン人が考える力を元々の素地としていなければ、啓発活動を受けたからと言って、非人権的な強制行為でしかない体罰から穏便な言葉を用いた教化・指導に急激に変貌を遂げることはできないだろうからである。

 日本が体罰禁止や虐待禁止の法律を作り、啓発活動を様々に行っても、家庭内の虐待をも含めて無視できない件数の体罰がなくならずに横行している。言葉を使った言い聞かせ、言葉を使った教化・指導の実践ができないからで、つまるところ、大学という教育の場で児童心理学等を学び、さらに学校という教育の場で児童・生徒のそれぞれの人間性を通して学ぶべきことを学ぶことができないという皮肉な逆説によって、考える力を背景とした言葉の力で教師が児童・生徒を教化・指導ができず、そういった扱いを受けた児童・生徒が大人になって子どもを持ち、子どもに対して同じ扱いしかできないでいる循環が変わらない横行風景を作り出しているということなのだろう。

 当然、尾木直樹の「子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だ」云々は視点の把えどころを間違えた、考えもない無益な訴えとなる。

 自ら考える力のある人間は啓発活動を受けなくても、自分から意識を変えていくことができるだろうし、自ら考える力のない人間にいくら啓発活動を行なったとしても、馬の耳に念仏、意識を変えるところにまでいかないだろうからである。

 こういった道理を弁えることができないのだから、尾木直樹自身、考える力を満足に備えていないことになる。だから、事実を表面的に見ただけの八方美人的な綺麗事しか見せることができないでいる。論理的思考力ゼロの人気教育評論家と見るほかない。

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蓮舫を叩く:女だからではない、参院政倫審世耕追及の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス

2024-10-21 02:10:31 | 政治
 蓮舫の自分に目を向ける自己正当化バイアスが過ぎて、参院政倫審での世耕弘成のウソつきな性格に気づかず

  Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 蓮舫の自己正当化バイアスが顕著に現れた最近の例を挙げてみる。安倍派と二階派の政治資金裏ガネ事件に関する政治倫理審査会が2024年2月29日以降、衆議院と参議院で開催されたが、裏ガネを受けていた自民党参議院幹事長の世耕弘成に対する参議院政治倫理審査会が3月14日に開催され、追及に立った蓮舫は時間切れを迎えると、次のような発言で締め括った。

 蓮舫「何の弁明に来られたのか、結局分からない。政倫審に限界を感じました。終わります」

 要するに政治倫理審査会という制度の不備を訴えた。世耕弘成自身が誠実に対応しないのは制度そのものに限界があるからで、満足な追及ができなかったという解釈となる。決して自身の追及技術の巧拙を省みることはしない。

 「政倫審に限界を感じた」が事実そのとおりなのか、蓮舫自身の追及技術の巧拙が何ら関係しなかったのかを見ていく。もし後者が関係した追及不足なら、この点でも自分は常に正しいとする自己正当化バイアスの影響を見ないわけにはいかなくなる。

 先ず2024年3月1日の衆院政倫審で安倍派の裏ガネ問題では安倍派幹部の西村康稔がトップバッターとして立った。判明したことは安倍晋三と塩谷立、西村康稔、下村博文、世耕弘成の安倍派幹部4人に加えて安倍派事務局長で会計責任者の松本淳一郎と2022年4月に、そして2022年7月銃撃死の安倍晋三を除いた上記安倍派幹部4人と会計責任者の松本淳一郎の5人が2022年8月に会合を持ったという事実である。

 当方はこの事実を安倍晋三が現金還付・政治資金収支報告書不記載のシステムの開発を主導した張本人で、両会合共に安倍晋三を責任外に置くためのデッチ上げの虚偽事実ではないかと疑っているが、西村康稔自身は自民党武藤容治の質問に答えて、4月の会合の際、安倍晋三から、「現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうした現金の還付をやめる」といった方針を示され、全員でその方針を了承したといった答弁を行っている。

 4月8月の会合が事実存在したか、存在しなかったかは別にして、西村康稔が「不透明」と証言した以上、その場に居合わせた幹部4人がその「不透明」をどうように意味解釈したのか、あるいはどういった心証を持ったのか、中止の影響をどう考えたのか等に追及の重点を置かなければならなかった。

 2023年11月以降から既にマスコミによって安倍派、その他の政治資金パーティのノルマ超過分現金還付・政治資金収支報告書不記載が報道され、主だった議員の政治資金収支報告書が調査・報道されて、彼らはこの政治的不正を相次いで認めることになり、いわば政倫審に出席した自民党幹部議員は俎の鯉同然であり、彼らを生かすも殺すも追求する野党側のどう料理するのか、その手捌き次第だった。

 裏金議員が最も多かった安倍派の場合、この悪臭ふんぷんたる慣習が1970年代に福田赳夫を発祥としながら、それ以前の岸信介の岸派、鳩山一郎の鳩山派の流れを汲む清和政策研究会が連綿と受け継いできた制度としてあったものなのか、安倍晋三か、それ以前の直近の派閥領袖が新たに開発した錬金術で、そこからの引き継ぎなのか、証明されてはいないが、もし安倍晋三が開発した制度でなかったとしたら、幹部共々口裏合わせして、現金還付はいつ頃からなのか明確には把握していないが、かなり以前からしていたことで、収支報告書不記載の事実は秘書任せで知らなかったことだと言えば、安倍晋三は単に派閥としてその制度を慣習上、受け継いだだけのこととなり、本人の悪質性はかなり減免される。

 にも関わらず、死人に口なしの安倍晋三が安倍派の会計責任者同伴で安倍派幹部4人と会合を持ち、現金還付中止を指示し、その理由に「現金は不透明で疑念を生じかねない」を挙げたと安倍派幹部の一人西村康稔が政倫審で証言した。

 「現金は不透明」から容易に推察される収支報告書不記載、あるいは虚偽記載への付け替えが浮上する危険性を犯してまで、現金還付を"不透明な領域"へと持っていった。安倍晋三が現金還付を中止指示した理由に正当性を纏わせた場合、なぜ中止する必要性があったのかと矛盾が生じるため、安倍晋三関与無罪説を打ち立てるためには「現金は不透明で疑念を生じかねない」と不当行為の性格付けをギリギリ纏わせなければならなかったからだとしか考えようがない。

 ところが、政倫審での追及側の野党の誰もが安倍晋三が中止理由とした「現金は不透明」から還付した現金の処理方法を推察することはなかった。「不記載を知っていたのではないのか」、「知らなかったのでは済まない」といった類いの追及しかできなかった。

 当然、2022年4月の会合が事実存在した会合で、安倍晋三が現金還付中止の理由として、「現金は不透明で疑念を生じかねない」を実際に口に出していたなら、その時点で安倍派幹部4人は「不透明」という言葉から収支報告書不記載か虚偽記載を前々から承知していたか、承知していなければ、少なくともその処理方法を「不透明」のレベルで推察できたはずで(でなかったなら、不透明→中止→了承へと進む幹部たちの納得を背景とした段階を経ることはできない)、質問に立った与野党の議員は肝心要のこの点を誰一人追及せず、一旦中止と決めた現金還付を自前資金の少ない若手議員からその継続を訴えられて協議することになったとしている、銃撃死を受けた安倍晋三を除いて同じ幹部が集まった8月の会合で誰が再開を決めたのかに追及を集中させた。

 追及の結果、経緯についての説明を少しづつ違わせて答弁を示し合わせていたのだろう、結論を出すに至らなかったから、誰が決めたわけでもない、再開されていたことは承知していなかったと全員がほぼ同じ答弁を繰り返し、全員が還付された現金が政治資金収支報告書に不記載だった事実は2023年11月からのマスコミ報道で知った、収支報告書の扱いは秘書に任せていたを報告書不記載と現金還付継続に関わる無罪の状況証拠とした。

 だが、このような説明だと、西村康稔を筆頭に安倍派幹部は安倍晋三が指示したとしている現金還付中止の「不透明」とした理由を、なぜ不透明なのかを想像することもなく、尋ねることもせず、知らないままに了承したという奇妙な矛盾を成り立たせることになるが、野党の質問者はこの矛盾に誰一人気づかずに遣り過すことになった。蓮舫とて同じ一人となる。

 要するに追及不足は偏に野党側の追及技術の不足にあるのであって(自民党追及議員は本気で追及する気はなかったろう)、蓮舫が自身の追及不足を棚に上げて、政倫審という制度そのものに欠陥があるかのよう発言をしたのは責任転嫁そのもので、やはり自己正当化バイアスが先に立つことになったからとしか言いようがない。

 では、2024年3月14日の参議院政治倫理審査会での自民党参議院幹事長世耕弘成に対して行った蓮舫の追及不足を具体的に取り上げ、最終的に自らの追及不足を省みることなく政倫審という制度そのものを批判する自己正当化バイアスに陥ることになった経緯を見ていくことにする。

 改めて断るまでもなく、西村康稔が証言した2022年4月の会合で安倍晋三が中止理由とした現金還付の「不透明」という性格付けは政治資金の扱いとしては収支報告書不記載か虚偽記載しかないはずだが、世耕弘成はその場にいた一人としてそのことを承知していたのか、承知していなかったが、おおよその見当は付けていたのか、あるいは承知してもいなかった、見当を付けることもしなかったなら、「不透明とはどういうことですか」と安倍晋三に聞くぐらいはするのが自然な成り行きだが、そういったことを含めて追及すべきだったが、4月の会合についても8月の会合についてもほかの野党議員とほぼ同じ質問をし、世耕弘成からは政倫審の場に立たされた他の幹部とほぼ同じ答弁を引き出しただけで終えている。

 要するに他の質問者と同じく、ただ雁首を揃えただけで終わったということであって、政倫審という制度が問題でも何でもなく、偏に追及技術が稚拙だっだに過ぎない。

 特に問題は蓮舫が世耕弘成に15分の与えられた弁明の時間に一人舞台となることをいいことに好き勝手を言わせたままにしたことである。蓮舫の追及のアンテナはこの程度に鈍い。

 「私自身は、派閥で不記載が行われていることを一切知らなかったが、今回の事態が明らかになるまで、事務的に続けられてきた誤った慣習を早期に発見・是正出来なかったことは幹部であった一人として責任を痛感しています」

 「今回の事態が明らかになるまで」とは2023年11月からマスコミが不記載を伝えるようになったことを指し、当然、報道以前は知らなかったこととしている以上、知らなかったことを「早期に発見・是正」は思い立つことさえできようはずもないことで、「出来なかったことは」と出来たならしていたかのようなニュアンスの物言いをするマヤカシは悪臭を放つのみである。

 「もっと早く問題意識を持って、還付金についてチェックをし、派閥の支出どころか、収入としても記載されていないこと、議員側の資金管理団体で収入に計上されていないことを気づいていれば、歴代会長に是正を進言できたはずだとの思いであります」

 現金還付も知らなかった、政治資金収支報告書不記載も知らなかったとしている以上、「問題意識」を持つことも、還付金をチェックすることも、思い立つことはできないはずのことを「気づいていれば」と仮定の話を持ち出して、「歴代会長に是正を進言できたはずだ」と自身を正しい側の人間に置こうとする。これだけで世耕弘成は心象的には何もかも承知していて、派閥と共謀して裏ガネづくりに励んでいたと十分に疑うことができる。

 「私が積極的に還付金問題について調査をし、事務局の誤った処理の是正を進言しておれば、こんなことにはならなかったのにと痛恨の思いであります」

 妻の不倫を知らないでいる夫が妻に不倫を諌めることなど思い立つはずもないことと同じで、知らなかった事実としていることについて調査を思い立つことなど誰もできないことで、このような言い回しをすること自体が知っていた事実を隠す巧妙なレトリックと疑うことができる。それを「処理の是正を進言しておれば」とさもすることができたかのように言う。典型的なウソつき特有の言い回しとなっている。

 蓮舫はこの"ウソ"を追及することなく、質疑の最初に放った質問は、「先ず2022年4月、幹部会議、安倍さんに呼ばれて、現金キックバックをやめる方針となった、これ、場所はどこでしょうか」であった。「現金キックバックをやめる方針となった」ことを既成事実としてのみ受け止めただけで、安倍晋三から現金還付中止の指示を受けた際の世耕がどのような心証を持ったのか、どのように意味解釈したのか、何ら問い質すことはしなかった。

 世耕弘成「これは日程等を確認して捜査当局にもご説明しておりますが、安倍晋三当時会長の議員会館のお部屋であったというふうに記憶しております」

 場所が問題ではない。西村康稔が最初に証言している、安倍晋三が現金還付中止の理由として「不透明」という性格を挙げた、事実あったこととしているその性格付けに対して同席した一人としてどう解釈し、どう認識したのか、どう受け止めたのか、止むを得ないと思ったのか等々を矢継ぎ早に問い質して、現金還付と不記載を知り得ていたことなのか、ほかの安倍派幹部が証言しているとおりに2023年11月のマスコミ報道によって初めて知り得たことなのかを炙り出すことであった。
 
 以下、蓮舫「4月の会合で誰か手控えのメモを取っていたか」→世耕「メモを取っていない。他の人が取ったメモというものを見たことがない」→蓮舫「現金還付について話し合ったのは4月のその1回か」→世耕「1回だけだ」

 世耕が手控えの「メモを取っていない」と答えたなら、安倍晋三から「現金は不透明で疑念を生じかねない」という言葉を聞いた際、仕方がないことだと納得できたのか、「不透明」とか、「疑念」とか、どういう仕組みのことを言っているのだろうかと不審に思ったのか、前者なら、現金還付、収支報告書不記載か、虚偽記載を承知していたことになり、後者なら、どのような仕組みを指してそのように言っているのか、聞き返すのが自然な態度だから、聞き返したのか、様々に追及して、還付した現金の取り扱い――処理方法を炙り出すべきだったが、何の工夫もなく遣り過してしまった。

 西村康稔の衆議院政倫審での証言が2024年3月1日。蓮舫の参議院政倫が3月14日。12日間も時間がありながら、これといった駆引きを思いつくこともなかった。

 繰り返しになるが、安倍晋三が現金還付の中止を指示したことが事実あったことと前提づけるなら、中止の理由として挙げた現金還付そのものの性格付けが何を意味しているのか、中止が与える影響をどう考えたのか、中止を当然と思ったのか、止むを得ないと思ったのか、あるいはどういうことなのだろうと思ったのか、様々に追及すべきを、追及しないから、相手の証言を証言どおりに通用させることになる。蓮舫は頭の回転よろしく強い口調で早口にまくしたてるから、一見、厳しく追及しているようにも見えるが、その実、中身のない追及を続けていただけのことで、結果、そのまま時間切れとなり、自分では一矢を報いる積りでいたのかもしれないが、自身の追及技術が不足していただけのことで、捨て台詞にしか聞こえなかった蓮舫の最後の発言を再度取り上げる。
 
 蓮舫「何の弁明に来られたのか、結局分からない。政倫審に限界を感じました。終わります」

 自らの追及に何か問題点はなかったか、自省するほんのちょっとした間も与えずに自らの追及を最初から正しい場所に置いて、政倫審という制度そのものに欠陥があるかのようなお門違いを曝す。

 当然、自身の追及に限界を感じることはない。こういった繰り返しで権力追及を行ってきたのだろう、結果、権力の私物化を恣にした安倍晋三を総理大臣として7年8ヶ月も生き永らえさせることに大きな力を与えた主たる1人となった。

 このようなお門違いが即座にできるのはまさに常に自分の考えは正しいとする自己正当化バイアスを凝り固まった性格としていなければできないことで、必然的に論理的思考力欠如、自己省察力欠如を背中合わせとしていることになる。

 いわば論理的思考力と自己省察力を欠如させているからこそ、自己正当化バイアスに陥ることになる。

 蓮舫は岡田克也をユニークさのない人物と酷評し、自分にはユニークさがあるとしたが、彼女のユニークさは自己正当化バイアスが突出している点にある。自身を岡田克也の対極に置いたものの、都議選敗北、そして代表辞任へと追い詰められながら、奇麗事を並べた辞任会見は"政治は結果責任"の自覚のなさを現していて、そのこと自体が自己正当化バイアスそのものをイコールさせているのだが、その自覚が少しでもあったなら、その心理的歪みをここまで引きずることはなかったはずだ。

 以上、蓮舫の自己正当化バイアスの典型的な現れを見た上で、今回の都知事選に関連して見せることになる蓮舫の同様の認識の偏りを次回は見ていくことにする。

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蓮舫を叩く:女だからではない、民進党代表時代前後の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス

2024-10-13 05:51:13 | 政治
 蓮舫の民進党代表選2016年8月23日記者会見発言「岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて本当につまらない男だと思います」から見るハンパない自己正当化バイアス

  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 以下、6回に亘って蓮舫が心理的傾向としている「自己正当化バイアス」を指摘する記事を連載する。但し題名の変更もありうる。途中、別の記事を挟む場合もある。 

2:《蓮舫を叩く:女だからではない、参院政倫審世耕追及の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス》
3:《蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選立候補会見等の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス》 
4:《蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選後の動画配信「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス1》
5:《蓮舫を叩く:女だからではない、自分だけが打たれ強いとする、自己正当化バイアスな動画配信2》
6:《蓮舫を叩く:女だからではない、SNSの誹謗中傷を病んでいると言うだけの自己正当化バイアスな動画配信3》 

 いくつかの事例を挙げて、当方なりの蓮舫評価の総決算を試みることにした。勿論、当方というごく個人的な見解だから、公平性を備えているかどうかは第三者の解釈次第となるが、いわゆる誹謗中傷の類いとなる安易な"蓮舫叩き"とはならないように心がけるつもりでいる。

 この総決算を試みたいと思い立ったのは都知事選敗選後に元宮崎県知事でタレントの東国原英夫が蓮舫についてテレビ番組で「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と批評したことに対して蓮舫が「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことない人が『ちゃん』づけだよ」と反発したことをネット記事で知り、「生理的に嫌いな人」を多いとしている点の正当性に反発の焦点を当てずに「ちゃん」づけに当てた、その相変わらずの非合理性からだった。

 「自己正当化バイアス」とは、〈自分の考えは常に正しいと信じ込もうとする人間心理の歪み。〉だとネットで紹介している。要するに自己中心の考えが際立っているということであろう。

 誰もが多少なりとも取り憑かれている歪みではあるだろうが、この心理の歪みは物事を相対的に、あるいは合理的に捉える力=論理的思考力の欠如、あるいは素直に反省する自己省察力の欠如から生じているはずだ。蓮舫が抱える自己正当化バイアスはその非合理性や非自己省察性に依拠していて、それがハンパない状態にある。このことをおいおい証拠立てていく。

 蓮舫が小池百合子と対決したのは今回の2024年7月7日投開票の都知事選のみではない。民主党後継の民進党代表だった岡田克也が2016年7月10日の参議院選挙で開戦前議席62議席から13議席減らして49議席となったものの引責辞任せず、2016年7月30日に2ヶ月後に控えた党代表選への不出馬を表明、2016年9月15日執行の民進党代表選に立候補した蓮舫が対立候補の前原誠司や玉木雄一郎を大差で破り、民進党代表に就くことになった。各マスコミの世論調査では蓮舫に「期待する」が軒並み50%を超えていた。

 民進党代表として9ヶ月後に迎えた2017年7月2日の東京都議選では前年の2016年に就任した小池百合子東京都知事の与党都民ファーストの会が選挙前6議席から55議席へと大躍進、民進党は蓮舫が東京都を参議院選挙区としながら7議席から5議席に減らして、同じ女性対決でありながら、蓮舫効果をプラスに向けることができず、その敗北の責任を取って幹事長の野田佳彦が辞任、求心力の低下を招いて新体制に向けた人事に行き詰まり、2017年9月1日に1年足らずで辞任することとなった。

 これが蓮舫と小池百合子との最初の対決である。

 話を戻すと、岡田克也の不出馬表明後の2016年8月23日に代表戦に名乗りを挙げていた、当時代表代行だった蓮舫が日本外国特派員協会で記者会見し、代表の岡田克也を評して次のように発言している。

 蓮舫「あとは民進党のイメージを思いっきり、私が代表にさせていただくことで変えたいと思います。ここが大事なので、是非編集しないで頂きたいんですが、私は岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて本当につまらない男だと思います。人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います。是非、皆さんのご支援頂ければ、このあと是非、質疑応答で議論させてください。ありがとうございました」

 要するに岡田克也の党代表としての政治行動全般に亘って見るべき価値がなかったと、その役柄を否定している。決して政治という場を離れた一個人に対する評価ではない。民進党のイメージを高めたわけでもなく、対与党政策論争、あるいは自らの政策展望等の党運営に関して非常に平凡で、見るべき独自性がなかった。だが、私が代表になったら、民進党のイメージを大きく変えることができ、全てに他にはない独自性(=ユニークさ)を発揮すると強気の発言を見せたのである。

 当然、蓮舫も政治家の端くれ、"政治は結果責任"をしっかりと頭に置き、道理としていただろうから、党運営に相当に確固たる自信を持っていたはずである。

 但し岡田克也が民進党代表時、蓮舫はナンバー2の代表代行を務めていて、政治がチームワークである以上、トップがチームを満足に統率できず、見るべき党運営ができなかった責任を第一に負うものの、他の成員それぞれが"結果責任"を連帯して負わなければならないはずだが、蓮舫は「本当につまらない男だ」と岡田克也一人の責任に帰した。

 蓮舫はこの矛盾に何も気づいていなかったことになる。つまり公平な判断が満足に働かず、自分だけを正しい場所に置く自己中心(自己正当化バイアス)に陥っていた。

 蓮舫の記者会見での発言が問題視されると蓮舫は自身のツイッターで、「岡田代表への敬意を表しました。その上で、ユーモアのない真面目さを現場で伝えたかったのです」と釈明している。

 岡田克也は辞任前のまだ代表であり、蓮舫は代表代行、いわば立場の上の人間を掴まえて、「本当につまらない男」と言ったのは仕事上の能力に対する否定的評価として使った言葉ではなく、敬意を表した言葉であって、意図としては「ユーモアのない真面目さ」を指摘したと真意を説明した。

 だが、どこの世界に「本当につまらない男」と言われて、俺は敬意を示されたのだと受け止める人間がいると言うのだろうか。いるはずはないのだから、「本当につまらない男」との評価を敬意表明の言葉とするには道理を無視し、自分の都合のよいように釈明する無理矢理なこじつけ、牽強付会なくして成り立たせることはできない。蓮舫にはそれが自然にできた。

 勿論、牽強付会を行うについては小賢しさや狡さといった性格的要素を欠かすことはできない。小賢しさ、あるいは狡さゆえに間違ったことを言っても、素直に認めることができずに無理矢理にこじつけて、間違いを隠して正しいことに持っていってしまう。素直な感覚の持ち主なら、「失言でした。小賢しさ、あるいは自分を正しくみせる狡さが先に立ってしまいました」と素直に謝って修正するだろうが、そんな気配は見せることはなかった。

 政権与党自民党の閣僚が自身の不祥事やスキャンダルで国会追及されても、あれやこれやと言葉を使い分けて自身を正当化して逃げるのと殆ど変わらない。蓮舫はそのことに気づいていない。

 自身の言葉は自らの性根の現れでもあるから、言葉の正当化は自らの性根の正当化をも意味することになる。常識や妥当性を無視した言葉の正当化はその無視をそのまま背負った性根の正当化に反映されるというメカニズムを取ることになって、否応もなしに小賢しさや狡さを性根として付き纏わせることになる。

 但し周囲からその小賢しさや狡さを指摘されたとしても、常識や妥当性を無視した言葉の正当化という態度自体が自己正当化バイアスの現れであるから、その心理が強過ぎると、その指摘をも悪意に取り、気持ちを安定させるために自身の正当化に一層努めることになるか、周囲から自分に味方してくれる人間を探し出して、味方の言葉を利用して自己正当化の補強を図るなどして、ますます自分は正しいんだという思いを強くすることで自己正当化バイアスの殻に閉じこもることになる。

 蓮舫がそうであるかどうかを見ていくことにする。都議選敗北から約1ヶ月近く後の2017年7月27日に辞任記者を開くことになった。「産経ニュース」記事からその「発言」を見てみる。

 辞任を臨時の執行役員会で了承されたことを伝えてから、辞任の理由を述べている。

 蓮舫「どうすれば遠心力を求心力に変えることができるのか。力強く、私たちがしっかりと皆さんに託していただける民進党であれと国民の皆様方に思っていただけるのか。そのとき、やっぱり考えたのは、人事ではなくて、私自身をもう一度見つめ直さなければいけないと思いました」

 なぜこうも抽象的で巧みな発言ができるのだろうか。民進党代表任期3年を当初50%もあった期待を裏切ることになり、約1年で退くことになった、代表としての力不足への謝罪を最初に直接的に持ってくるのではなく、巧みな言い回しでその力不足を直接的にはぼかす細工を施している。

 この"ぼかし"は日本外国特派員協会の記者会見で見せた、「民進党のイメージを思いっきり変えたい」、「人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います」の言葉の発信に付き纏わせなければならない"政治は結果責任"を痛切に自覚していないからこそできる"ぼかし"であって、結果としてウソとなる大口を叩いたことになるが、このことの自覚も共々にないことになる。

 僅かでも自覚があれば、最低限、"政治は結果責任"の文脈を用いて、「1年しか持たなかったのは恥ずかしいです」と自分から正直に謝罪し、ぼかすことのない言葉の使い方で自分の責任を語るはずである。記者からの質問で責任を話ざるを得なくなって話すのでは自覚不足は変わらず、このような無自覚は自分のどこかで自分は正しいとする自己正当化バイアスの働きなくして発生させることはできない。

 蓮舫「(行政監視という攻めの部分に関しての成果を請け合った上で)ただ一方で、攻めと受け。この受けの部分に私は力を十分に出せませんでした。率直に認め、今回私が手を着けるのは人事ではない。いったん引いて、より強い『受け』になる民進党を新たな執行部に率いてもらう。これが最善の策だ。民進党のためでもない。私のためでもない。国家の民主主義のために、国民の選択肢の先である二大政党制の民進党として、それをつくり直すことが国民のためになるという判断だと、是非ご理解をいただきたいと思います」――

 言ってることが最初から破綻している。第一歩として辞任は民進党のためであるとしなければならない。民進党が勢力を拡大しなければ、次の光景、民進党が目指す「国家の民主主義」も、民進党主体の「二大政党制」も実現し得ない。如何に論理的思考力を欠いているか、合理的思考力を欠いているか、自ら証明している。

 新しい執行部へのバトンタッチを「民進党のイメージを思いっきり変えたい」と言ってできなかった程度のリーダーシップに反して「民進党のためでもない。私のためでもない。国家の民主主義のために」云々と美しい言葉で仕立て上げているが、政権を率いて国家を運営するわけではなく、貧弱な党を建て直すだけという話に大層な言葉遣いで高邁な話に持っていこうとする。

 結局のところ、1年足らずの代表辞任という結末(=果たせなかった"政治は結果責任")を隠す大袈裟に格調を持たせた言い回しであって、最後の最後まで自分を実質以上に見せようとする虚栄心を働かせている。ここからは政治家として表に現れる行為・行動に対して正直であろうとする姿は見えてこない。

 蓮舫は「攻めと受け」の"攻め"に行政監視を置いているが(実際の発言は「私たち、言えるのは、攻めの部分は、しっかりと行政監視をしてきました」)、これは狭い解釈でしかなく、実質的には政党としての対外発信力を言うはずである。代表蓮舫の統率力(リーダーシップ)のもと政府与党政治に対する自党政治の国民にとっての利益性の訴え、権力監視(一つに行政監視)の国民にとっての利益性の訴え、国民有権者に対してどのような社会階層の利益を主として代表しているのかの党の存在理由の訴えなどとそれらの訴えに基づいた各理解の獲得と、最終結果としての党支持率の獲得を目的とした諸々の情報発信活動のことであって、サッカーやラグビーの試合で言うなら、全体的な攻撃の部分に当たる。

 当然、「攻めの部分は、しっかりと行政監視をしてきました」は一つの成果に過ぎず、攻めの全体の成果とするにはマヤカシそのものとなる。

 "受け"は政府与党や他野党、あるいは不支持の立場にある国民の自党の存在に向けた否定的考えに対抗して改めて自らの存在理由の正当性を主張・証明する情報闘争を指すはずで、サッカーやラグビーの試合での全体的な守備の部分に当たるが、守備と言えども攻撃の側面を抱えていて、攻撃と守備がうまく噛み合わないと、勝利に向けたチームの存在(党の存在)が成り立たないから、当然、"攻め"と"受け"は相互補完的な一体性を持たせた車の両輪の関係で機能することが求められる。片方のみの機能であったなら、党の存在意義を獲得できはしない。

 だが、蓮舫は"攻め"と"受け"を別個扱いとし、"受け"には力を発揮できなかったが、"攻め"にはあたかも力が発揮できたかのようなニュアンスの言葉遣いをしている。"攻め"に力を発揮できていたなら、なぜ都議選で敗北を喫することになったのだろう。

 結局のところ、攻めの部分に当てている行政監視の成果は民進党の存在理由をより多くの国民に認知させる全体的な成果となる攻めとはなっていなかったということであって、だからこその1年足らずの辞任であり、蓮舫の合理的認識能力を欠いた自己正当化バイアスが言わせている部分的成果に過ぎないということであろう。

 大体が蓮舫本人が自覚しているとおりに統率力が不足していたなら、"攻め"も"受け"も、満足に機能することも、機能させることもできたはずはない。その結果の一つが東京都を選挙地盤としていながらの都議選の敗北ということであるはずだ。

 "攻め"の部分として国民の関心を行政監視以上に集める機会も多く、注目度が高いのは首相、あるいは閣僚の不祥事や内閣の政策自体に対する国会の場での追及であるはずだが、特に蓮舫は攻撃的な言葉で激しく追及するものの、殆を最後まで追及しきれずに、尻切れトンボの不完全燃焼で終わらせている。終わらせていなければ、安倍晋三の権力の私物化やアベノミクスが経済格差に役立ったのみで、国民の大多数を占める中低所得層の生活を苦しめることになった政治利益の偏りなどで追い詰めることができ、結果的に安倍晋三を7年8ヶ月も権力の座に居座らせることはなかったろう。

 この国会追及の不完全燃焼の格好の事例として次回、2024年3月14日の参議院政倫審での世耕弘成に対する追及に関連して取り上げてみる。

 要するに国会追及という"攻め"の大きな見せ場でもある権力監視の大部分を未消化のまま推移させ、満足に機能させることができなかったにも関わらず、マスコミが「厳しく追及した」と報じるのを見るだけで満足したのだろう。だが、多くの国民は騙されることも自らを騙すこともしなかったから、野党に対して「批判ばかり」というレッテルを貼るに至った。「批判ばかり」というレッテルそのものが追及の程度を物語っている。立憲民主党は「批判ばかり」がどのような能力に向けられた名付けなのか気づかず、「批判ばかりではない、政府法案に対して対案も出している、独自法案も出している」と見当違いだと気づかない答を出している。結果、追及部分に見せる批判行為だけを印象に残し、いつまで経っても「批判ばかり」と言い続けられることになる。

 蓮舫の辞任記者会見での発言は代表として発揮すべき役目である"攻め"という能力でも、"受け"という能力でも、実際には統率力不足(=リーダーシップ不足)が足枷となって不発状態で推移させているのだから、そのことを言葉の上では可能な限り綺麗事化し、自己正当化バイアスの網にかけ、自身が負う傷を傷と見せない巧妙なカムフラージュを施したといったところである。このことは応分な責任負担の回避に当たるのは断るまでもない。

 蓮舫の言葉の巧みさは強度な自己正当化バイアスが積み上げていくことになった、その見事な作品と言うことができるはずだ。

以下、《蓮舫を叩く:女だからではない、・・・》――は続く。
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