「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円) 1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」 2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ 3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革 4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入 (学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める) |
――尾木直樹は日本人の平等の意識化不足を無視してスウェーデンの体罰激減を"社会ぐるみの意識改革"のみに要因を置き、その点に日本の体罰激減を期待する視野狭窄に陥り、気づかないままでいる――
2022年7月23日の日本財団主催「こども基本法制定記念シンポジウム」での尾木直樹の講演の続き、次のテーマを取り上げる。前のテーマと同じく画像で画面上に提示していたから、テキスト化して紹介しておく。
「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! ①「こども基本法」を実体化させる→“こどもまんなか”社会の実現に向け、十分 な予算と人材の確保を! ② 当事者の視点に立った細やかで丁寧な取組→自治体や民間団体、企業等との 協働•パートブーシップが重要 ③ 「子どもの榷利条約」謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及•推進 する→大人側への啓発活動が重要 ④ 子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待 はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親 や社会、人々の意識を変えていくことが必要(例:スウェーデン) ⑤ 「コミッショナー制度」の確立と導入に向けた検討の継続→最後の砦として の「駆け込み寺」の機能を ⑥特にいじめ問題における実効性の伴った「勧告権」の発動を→問題が“解決”す るまで見届けることが必要 ⑦すべての政策を「子ども参加」で→子どもに関わることは当事者の子どもに意 見を聞き、受け止め、考慮する必要 |
この記事では①番目から④番目までを取り上げる。
尾木直樹「『こども基本法』を実体化させる。子どもをど真ん中に置いて支援していくという社会の実験に向けてやっぱり十分な予算と人材(強調する)。教育問題は殆ど予算を倍にして、先生の人数を倍にしたら、あるいはクラスのサイズは2分の1にするとか、肝心なところで一気に問題は6割は解決するというふうに思っています。
2つ目は教育者の視点に立った細やかな丁寧な取り組みを自治体や民間団体、それから企業なども含めた協働とかパートナーシップが大事だろうというふうに思います。
3つ目ですね、子どもの権利条約に謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及する大人側への啓発活動が勿論、これは重要だと思っています」――
以上は、〈「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 〉で掲げた提言のうち、① 番目と② 番目、③ 番目についての発言である。①については、「こども基本法」を実体化させる。実体化のバックアップ策として「十分な予算と人材」の確保。具体的には「教育問題は殆ど予算を倍」、「先生の人数を倍」、「クラスのサイズは2分の1」にする。
こうすれば、いわば「こども基本法」の"実体化"(当方が言う「義務化」に当たるはずである)に関しては、「肝心なところで一気に問題は6割は解決するというふうに思っています」と確実性を持った予測を立てている。要するに政策的要素によって「こども基本法」が規定している諸取り決めの"実体化"は「6割は解決する」ということであって、残り4割の解決はあとの②番目、③番目が担うことになるということになる。
②番目は自治体や民間団体、企業などが協力して教育者の視点に立った細やかな丁寧な取り組みを行う。
③目は「子どもの権利条約」が謳う子どもの権利を"包括的で強力な普及"(「実体化」、あるいは「義務化」)に持っていくための「大人側への啓発活動」の重要性を言い立てている。
最後まで触れていない肝心な点について前以って再度触れておくことにする。子どもの諸権利を保障するための教師一人ひとりが原則としなければならない基本的姿勢である。どのような子供に対しても一個の人格を有した"個人として尊重"できるかどうかという姿勢のことで、この姿勢を基本的、あるいは原則としなければ、子どものどのような権利を口にしようとも、単に舌の上で言葉を転がすだけの権利、綺麗事の権利で終わる。"個人として尊重"できなければ、如何なる権利も眼中に置くことはできないからだ。
その極端な事例として「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在である」を動機として殺人という形でこの世から19人もの障害者を抹殺した2016年の相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園事件」を挙げることができる。
いわば児童・生徒を"個人として尊重"できるかどうかが子どもの諸権利の保障へと向かうスタート台の役目を果たすと言っても過言ではない。
成績の悪い子であっても、家が貧乏な子であっても、障害のある子であっても、一個の人格として"尊重"する、一個の個人として"尊重"する。その"尊重"は相手の考えや意見にまで反映することになる。既に触れたようにこの"尊重"が相互の信頼関係を築く糸口となり、相互の信頼が相手側の責任感や主体性等の姿勢を育んでいく礎となる。
当然、教育予算と人材を倍増し、クラスのサイズが2分の1になれば、教師はどのような児童・生徒に対しても余裕を持って"個人としての尊重"姿勢を発揮することができるようになるだろう。だが、"個人としての尊重"姿勢を元々から欠いていたなら、教育予算と人材がどのように倍増されようと、クラスのサイズがどう縮小されようと、また「こども基本法」が子どもの権利についてどう謳っていようと、「子どもの権利条約」が子どもの権利についてどう約束していようと、その主張・約束はスローガンの域を出ないことになる。
要はどのような政策の前にも、どのような法律の前にも、核となるのは教師が児童・生徒に対して"個人としての尊重"を基本的姿勢とすることができるかどうか、基本的姿勢を原則としうるかどうかであって、教育予算や人材がどうのこうのは本質的問題ではない。
「4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと」――
法律による禁止規定+地域社会やメディア、民間団体との連携+親や社会、人々の意識を変えていく啓発活動の総合性によって体罰・虐待等の消滅可能性を謳っている。教師や保護者による子ども一人ひとりを"個人として尊重"することのできる態度・姿勢の必要性はあくまでも問題外にしている。
2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」は「第3章 基本的施策」の「第17条 関係機関等との連携等」で、〈国及び地方公共団体は、いじめを受けた児童等又はその保護者に対する支援、いじめを行った児童等に対する指導又はその保護者に対する助言その他のいじめの防止等のための対策が関係者の連携の下に適切に行われるよう、関係省庁相互間その他関係機関、学校、家庭、地域社会及び民間団体の間の連携の強化、民間団体の支援その他必要な体制の整備に努めるものとする。〉と謳っているが、イジメがなくならない状況、年々増加している状況は法律を義務化できずにスローガン状態にしていることの現れであると同時に「イジメ防止等のための対策」を目的とした「関係機関との連携」にしてもその役割を有効に機能させることができていないことの何よりの前例の一つとなるはずだが、尾木直樹は前例を省みることなく、約10年経過後も「こども基本法」が同じように規定している"関係機関との連携"を取り上げて、そのままに有効に機能するかのように主張するのは安易というだけではなく、無責任そのものであろう。
さらには啓発活動に基づいた親や社会、人々の意識の変革の必要性にしても、同「いじめ防止対策推進法」が第21条で「啓発活動」として、〈国及び地方公共団体は、いじめが児童等の心身に及ぼす影響、いじめを防止することの重要性、いじめに係る相談制度又は救済制度等について必要な広報その他の啓発活動を行うものとする。〉ことを求めているが、条文がスローガンのままで推移しているに過ぎないことは昨今のイジメ認知件数が証明することになるだけでなく、「こども基本法」でも啓発の積極的な実施を謳わなければならない点に成果の不毛性を十分に窺わせることになる。
となると、尾木直樹は国民一人ひとりが法律を具体化(当方が言う義務化)するにはどうすべきか、「関係機関との連携」や「啓発活動」を機能させるにはどうすべきかを解説しなければならないのだが、パネリストとして必要とする義務を果たさずに実現できるかどうかも分からない必要性だけを言う。その自身の無責任に気づかない。
ではなぜ「いじめ防止対策推進法」が機能しなかったのか、なぜ「関係機関との連携」や「啓発活動」が有効性を発揮し得なかったのか、その理由を考えると、イジメや体罰、その他の問題行動が発生する直接的な最前線は学びの場である学校であり、体罰や虐待が発生する直接的な最前線は養育の場である家庭であって、関係機関や民間団体、地方自治体ではなく、利害の関係性に濃淡が生じて、熱心さ、あるいは切実さに差が出るからだと推測できる。
例えば自分の子どもが学校でイジメに遭っていないだろうかと考えることはあっても、実際に遭っていなければ、一企業に身を置いていると、そこでの利害を常日頃からより切実な問題として抱えることになり、後者を優先課題とし、前者を時折り頭に思い浮かぶ心配事で片付けてしまって、連携だとか啓発だとかにまで手が回らないままに納めてしまうからだろう。
但し学校、あるいは教師がイジメや体罰が発生することによって直接的に利害が関係してきても、その利害は事態が大きくならない前に沈静化させて学校や教師の責任を最小限に抑える場所に限度を置いているとしたら、重大事態に至らない限り、自らの責任感をさ程重く受け止めることはないのだろう。
こういった状況に手を貸しているのは「イジメは完全にはなくすことはできない」という世間一般に流布している言説に教師までもが染まっているという事実を挙げることができる。イジメを事実そのとおりになくすことはできなくても、なくす努力を払わなければ、世間一般の言説に便乗して止むを得ないこととイジメの発生に妥協することになる。
もし尾木直樹自身が法律は変わったとしても、法律が求める禁止規定、あるいは逆の義務規定が条文どおりに機能するわけでもないと、そのスローガン性を前提とするなら、その前提は"関係機関との連携"に関しても、「啓発活動」に関しても利害関係に差があることが原因となってスローガン性を引きずる結果を招くことを当然の道理としなければならないはずだが、優秀な教育者だからなのか、当然の道理とする考えは一切起きないようだ。
何事も学びの最前線である学校社会に於ける教師対児童・生徒の人間関係の質が、あるいは家庭社会での保護者対子どもの人間関係の質が学校生活や家庭生活での彼らの行動に影響を与えて各種問題行動となって現れたり、現れなかったりするのだから、やはり心がけるべきは教師が、あるいは保護者が児童・生徒、あるいは子どもという存在に対して"個人として尊重"できる態度・姿勢を取ることができるかどうかに掛かることになる。
特に1日のうち、一般的には学校での生活時間の方が長いことを考えた場合、教師の児童・生徒に与える人間関係の質は家庭に於ける保護者との人間関係が余程のことがない限り、より大きな影響を与えるはずだから、心してその質に注意を払わなければならない。
だが、尾木直樹は教師が基本的姿勢とすべき児童・生徒に対する"個人としての尊重"を何ら問題とせずに予算の倍増等で「こども基本法」の実体化、あるいは義務化は「6割は解決する」と請け合い、あとの4割は関係機関との連携や啓発活動で、「いじめ防止対策推進法」という機能不全の前例があるにも関わらず、その前例を顧みることなくさも片がつくような安易さを見せて平気でいられる。
尾木直樹が法律が変わるだけではなくせない例として体罰と虐待のみを挙げて、認知件数が桁違いに多く、未然防止が極めて困難な上、事後解決に追われることになるイジメを挙げていない点は不自然だが、「いじめ防止対策推進法」が施行された2013年9月末日から半年も経たないうちにこの法律を「子どもの命を救う法律」だと、いわば法律が変わっただけでイジメをなくせると見ていた(どのイジメが自殺を誘うか前以って把握できない以上、イジメの根を断たない以上、イジメ自殺はなくせない)過去の安易な過ちに対する本能的な回避意識が狡猾にもイジメを事例から抜いたと見ることができるし、見られても仕方ない安易な過ちを見せていたと指摘できる。
「ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。
ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある」――
尾木直樹らしい上っ面だけを見た、底の浅いゴタクとなっている。体罰もブラック校則と同様に大人が自らの価値観、考えを権威として子どもの価値観を無視して押し付ける上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動様式を力学として引き起こされる。
だが、尾木直樹は、既に前のところで触れているが、子ども権利条約発効に際して出演したNHKの番組で子どもの権利について喋っていたのだろう、自分の勤める学校で体罰が行われていて、それに有効な処置もできずに心因性の狭心症に罹り、教師の職を辞めざるを得なくなった1994年も、今回取り上げている「こども基本法制定記念シンポジウム」にパネリストと講演している2022年7月時点でも、体罰やブラック校則、イジメが権威主義の力学がなせる技だとは気づいていない。そして恐らく現在も気づいていないに違いない。
権威主義の行動様式は、当然のことだが、上下の関係力学に基づいて発動される。いわば同じ目線に立ってはいない。教師の児童・生徒に対する体罰もブラック校則も同じ目線に立たず、目線を上に置いているから可能であって、児童・生徒のイジメ加害者と被害者の関係も同じ目線に立つことができず、前者が後者に対して目線を上に置いているから可能となるイジメという名の攻撃となる。
断るまでもなく、この権威主義は人間の自由と平等を尊重する民主主義とは対立関係にある。日本は制度としては戦後に民主国家とはなったが、戦前の権威主義を、戦前程には色濃くないものの、身分制度や長幼の序としての年齢に基づいた上下関係、あるいは先輩・後輩の関係や性別に基づいた上下関係といった形で戦後も意識の中に残していて、それが地位で人間の価値を計る地位差別や学歴で人間の価値を計る学歴差別、性別で人間の価値を計る男女差別等の形で現在も残している。
このことは2023年版「ジェンダーギャップ指数」の国際順位となって現れている。日本は教育到達度では完全な平等を達成しているが、その内容は識字率、就学率等を計った制度的平等であって、意識としての平等を示しているわけではない。一方で政治参画(閣僚や議員数の男女比)や経済参画(労働参加率の男女比、同一労働における賃金の男女格差、推定勤労所得の男女比、管理的職業従事者の男女比、専門・技術者の男女比)等で平等数値が特に低いのは憲法等で表向きは平等を謳っていても、それが意識にまで達していなくて、不平等意識を内面に抱えていることからの格差現象であり、それが日本は146ヶ国中125位の低い順位に付けているということであって、スウェーデンの世界5位からは日本と比較して遥かに意識としての平等(=平等観念の意識化)を実現させていると見なければならない。
スウェーデンの大人たちの間のこの意識としての平等(=平等観念の意識化)の進行度合いが体罰の激減の要因となったと見るべきで、体罰や虐待、イジメを減らすためには教師、保護者、児童・生徒共々に上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動様式を極力排して、平等の意識化(このことは"個人としての尊重"の精神に重なる)を図らなければならないのだが、尾木直樹はこの点についての考えは何もなく、スウェーデンの体罰激減を"社会ぐるみの意識改革"のみに要因を置く視野狭窄に陥って、気づかないままでいる。
当然、日本の消費者庁が真似をして牛乳パックのレッテルに「『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』」とか書かせて頭に記憶させることになっても、権威主義的行動様式を内に抱えている状況下で対人関係での軋轢や衝突が生じた場合、理性的な対応よりも権威主義的な対応が本能的衝動として優先され、頭の記憶を簡単に無力化させてしまうことになりかねない。
そもそもからして大学で教育学や心理学を学んでいる教師が子どもに体罰を働く、教育を受け、社会に出て人間関係を学んでいるはずの親という人種が子どもに暴力を振るうのは上に対して下を強制的に従わせようとする権威主義的な力学に感情的に取り込まれてしまうことが一般的な原理となっていると見なければならない。
当然、日本人が行動様式の根のところで今以って抱え込んでいる権威主義を抹消して、平等を意識化するところにまで持っていかなければ、スウェーデンのようにはいかないだろう。
尾木直樹のこのシンポジウムでの発言とは関係しないことだが、日本人が根のところに権威主義的行動様式を残している以上、学校での授業でもその影響を受ける。その影響は暗記教育という形を取っている。暗記教育とは教師が教科書の記述と教師用の参考書の記述のほぼ範囲内でその記述をなぞる形で教え、児童・生徒は教えられたとおりに記憶していく、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的知識授受の形式を取る
。
結果、例え100%記憶したとしても、自身の考えや意見、思いを付け加えない、どのようにも発展させることのないそのままの知識を受け継ぐことになる。いわば1+1=1で推移し、1+1=を3にも4にも膨らませたり、発展させたりする機会を持たない他者の知識を自分の知識とすることになる。
この権威主義的力学に基づいた暗記式知識が日本の児童・生徒の思考力欠如や表現力欠如、あるいは言語力不足となって現れるているはずで、これらの欠如・不足はいつ頃から言われ出したのか、かなり以前から言われてきたのは事実である。
この事実のどおりの現象が最近になって報道された。2024年4月18日実施、2024年7月29日結果公表の小学6年と中学3年の全員対象の文部科学省全国学力テストの回答に対する解説が証明することになる。NHKの記事を案内として、《令和6年度全国学力・学習状況調査の結果(概要)》(文部科学省・国立教育政策研究所)を覗いてみた。
「小学校6年評価の観点」(平均的正答率)
国語 知識・技能 70.0% 思考・判断・表現 66.2%
算数 知識・技能 72.9% 思考・判断・表現 51.6%
「中学3年算数評価の観点」(平均的正答率)
国語 知識・技能 62.4% 思考・判断・表現 55.8%
算数 知識・技能 63.5% 思考・判断・表現 30.0%
「知識・技能」はNHK記事では「基礎的知識」の表現となっている。
「基礎的知識」は暗記で片付く。「思考・判断・表現」の各能力は各個人が如何に考えるかによって答が導き出されるから、暗記では簡単には片付かないことになる。問題は小6年生も中3年生も考えなければならない問題の正答率が暗記で片付く「基礎的知識」の正答率よりも低いことだけではなく、小6年生の国語・算数の考える力よりも中3年生の考える力の方が成長している分、高くなっていていいはずだが、逆に低くなっている事実を挙げなければならない。
この傾向は問題が難しくなって、考える力が追いつかなくなっていることの現れと見るべきで、このことは考える教育の必要性、あるいは考える教育への転換が言われて久しいが、まだまだ暗記教育の影響が強く残っていて、考える教育への転換が十分に果たされていないことを示していると言える。
当然、現在以上に考える教育を根付かせるためには上は下を従わせ、下は上に従う権威主義を排して、児童・生徒と同じ目線に立つ姿勢が必要になる。具体的には、「どうしてこんな問題が分からないだろう」ではなく、「どこが分からないのか」と分からない個所を見つけるのを手伝い、見つけることができたなら、答を出すヒントというものが必ずあるだろうから、一緒になって考え、そのヒントに基づいて自分で答を導き出させる。
これは学びと言うよりも訓練と見るべきだろう。最初は手間も時間もかかるが、自分で解くコツを習得していったなら、手間も時間も掛からなくなっていく。勿論、全部が全部うまくいくとは限らないが、教師の権威主義的姿勢の排除が児童・生徒に向けて"個人として尊重する"態度を取ることになり、それは教師に対する信頼となって跳ね返ってきて、彼らの学びの力にプラスに働くだけではなく、体罰やイジメの抑制効果ともなって現れるはずである。
要するにこの面からも児童・生徒の責任感や主体性、自主性、自律心、あるいは自立心の育みに役立っていくことになる。役にも立たないのは尾木直樹の講演である。もしここまで取り上げた尾木直樹の発言が正しい見通しに立った正しい提言であると仮定するなら、改めて結論を示すことになるが、「いじめ防止対策推進法」がイジメの禁止だけではなく、関係機関等との連携と啓発活動の必要性を併せて規定しているその骨格からしてイジメの防止に役立っていなければならないはずだが、全く逆の役立っていない状況を示している事実は尾木直樹の「こども基本法」や「子どもの権利条約」に向けた見通しそのものの錯誤を突きつけていることになる。まあ、その程度の教育評論家に過ぎない。
以上、ここまで。残りの最後は次の記事に譲る。