2024年4月1日、川勝静岡県知事が新人職員への訓示の中で職業差別とも捉えられかねない発言をしたとマスコミから一斉に批判を受けた。訓示自体が日本の教育を反映していると読んだが、川勝知事自身が日本の教育で育ち、日本の教育を血肉としているということであろう。2024年4月2日付け「asahi.com」記事が訓示全文を紹介しているから、必要な箇所だけ利用させて貰う。
《川勝知事の訓示全文 静岡県の新規採用職員へ「県庁はシンクタンク」》静岡県の川勝平太知事(75)が1日に県庁であった新規採用職員に対する訓示で、特定の職業に携わる人などへの差別とも受け止められかねない発言をした。訓示の全文は以下の通り。(静岡県の公式チャンネルでも配信されています)
静岡県知事の川勝平太でございます。この度、令和6年度4月1日をもって、静岡県庁の職員として、職員を選んで頂いて、ありがとうございました。 静岡県庁の職員5800人ぐらいいるんですけれども、県庁の職員すべてを代表いたしまして心からご歓迎を申し上げたいと思います。難関だったんじゃないですか? そうでもないですか? 聞くところによると県庁の職員になるには、かなり高度な試験をマスターしなくちゃいけないと。かつ、そのための準備もひとかたならぬものがあるという風に聞いております。こういう形でみなさま方、同期になられた数は233名であります。そして、きょう、この本庁に配属になった方たちが77名いらっしゃる。残りの156名の方たちは、きょう1日からそれぞれの出先機関で辞令を受けるなり、そして、いま研修を受けられているという風に承知しておりますが、ともあれ、本当は全員にお顔を見せていただき、また、お話をしたかったんですけれど、70何名の方だけとはいえ、こうした形でお目にかかれて大変うれしゅうございます。 今年はご案内の通りですね、能登半島ですさまじい地震がございまして、まだ厳しい生活を受けられている方がたくさんいます。一番最初にですね、心得ておくべきことは危機管理です。静岡県はみなさま方、生まれるはるか前、1979年、昭和で言うと54年になるでしょうか、その頃にですね、東海地震説というのが唱えられまして、で、東海地震で確実に静岡県は被害を受けると、1979年のことでございましたが、それ以来ですね、毎年、危機管理のための防災訓練をしていました。 そのうち東海地震だけで単発で起こるんではなくて、東南海地震と連動する可能性があると、いや南海地震と3連動する可能性もあるということにもなりまして、いまはですね、南海トラフの巨大地震、これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということですが、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレてですね、起こる地震ということで、この地震が仮に起こりますと、何もしなかった場合、30万人ぐらいの方たちが犠牲になると言われています。そのうち静岡県だけで10万人ぐらい犠牲になるという、そういう数値が2013年ぐらいに出ました。 静岡県では、もうその時からそれをゼロにしようということで、現在は8割ぐらいの人が想定ですけれども助かる形になっておりまして、ただし、まだ全員が助かるというのは。ですから、能登半島の大きな地震というのは決してひとごとではありません。 従って、いつ何時そういうことが起こるかもしれないと、私どもはパブリック・サーバント、公僕ですからまずは自分が元気でなくてはいけませんので、自己の危機管理を最優先にしつつ、同時に人を助けるということですから、人助けのために何をするべきか、それぞれの班なり、部局で何をするべきかということが共通認識になっておりますので、また抜き打ちの、場合によっては防災訓練が行われる可能性もあります。その時にですね、戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならないという風に思います。 これが、まず静岡県の、県庁としてですね、360万人の人たちの生命と財産を預かっておりますので、これを守るという危機管理をしっかり胸の中にたたみ込んでですね、仕事してください。 それからですね、公務員ですから、人の役に立つと、それから社会の役に立つということがとても大切です。なかなか自分でそういう気持ちを持っていてもですね、それが出来るものではありません。そのためにはですね、やはり「職員のみなさま方は立派だ」という風に尊敬されていくことがとても大切で、これからコンプライアンスといって、法令順守のこともいろいろ言うかもしれませんけれども、基本的にですね、公務員として身に私を構えないと、公務においては身に私を構えない、これも大切なことですね。それから、公の仕事をしていますから、心は素直でうそ偽りを言わないと、これもとても大切なことです。 それからですね、ちょっと難しいかもしれませんけれども、上にへつらわない、下に威張らない、まあ、下がいませんね……。ですから、上にへつらわないと。そういう気持ちが出てきてもですね、逆に仮に威張る人がいたらですね、こういうような上司にはならないということで反面教師にしてください。上にへつらってはならない、下に威張らないと。 で、言葉遣いはとても大切です。ですから「です・ます」調というのが基本になるようにしていただければと思います。上司の方々もですね、それを心がけていますけれども、やはり年齢が離れていたり、責任が違いますので、場合によっては口語調あるいはため口になるかもしれませんけれども、基本的に言葉遣いは礼儀正しくするということがとても大切です。 それから何より、人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないと。人が困っている時にですね、助けるというのが我々の仕事です。ただ、それぞれ預かっている部局によって、これは自分の担当ではないということがあるかもしれません。だけど、静岡県庁に来られる人たちはですね、何か助けを求めて来る人、返事を求めて来る人がいますから、どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考えるということが大事ですね。そういう癖を持つと。これは先例がない、前例がないということではなくて、どうしたらこれを解決できるかというように考えると。やがてみなさんもこれから60過ぎくらいまでお仕事されるわけですけれども、様々な部署に行かれると思います。その時にどういう風にすると一番いいかなということをですね、仮にその決定権を持っていなくても考えるということが大切ですね。で、もし可能なら、その担当局の方に紹介して差し上げるということも、それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないということですね。 それからですね、我々はふじのくに静岡県といいます。富士山、これは2013年6月22日に世界文化遺産になりました。信仰の対象、または芸術の源泉ということで、あの品格のある姿、その姿を自分の心の姿にしていただければと思いますね。富士山に向かって恥ずかしいことをしない。つまり自分、天知る、地知る、己は己のことを知っていますから、天知る、地知る、そして自らも知っているということで、そこに富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないということです。 それからみなさん優秀ですから、なかなか物をわかってくれない人がいるかもしれない。その時にですね、情理を尽くすということが大切です。理屈ではわかっていても、腹にストンと落ちない場合があります。ですからハート・トゥ・ハートで、その心からこうすると本当に良いというように言って差し上げるとストンと落ちる場合がある。ですから情と理、情理を尽くして、自分が正しいと思う信念を貫くということが大切です。 そしてですね、そのためにはですね、やっぱり勉強しなくちゃいけません。実は静岡県、県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。で、それは磨き方はいろいろあります。知性を磨くということ。それからですね、やっぱり感性を豊かにしなくちゃいけない、それから体がしっかりしてないといけませんね、ですから文武芸、三道鼎立(ていりつ)と。文武両道というのは良く聞くでしょう。しかしですね、美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい。 人に情けをかける、もののあわれを知ると昔からそういう風に言われますけれども、人に情けをかけることはですね、情けは人のためならずという言葉がありまして、つまり人のために助けるんですけども、結果的には自分のためになっているということが多いんです。ですから、人に情けをかけるという、困っている人は助けるということを、こうしたことをやってください。(以下略) |
能登半島地震が起き、静岡県も南海トラフの巨大地震の発生が予測されている。これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということで、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレて起こる地震で…云々は静岡県庁の職員としては災害関連以外の部署に配属される予定でいたとしても、東日本大震災や今回の能登半島地震の例もあるから、前以って一般常識としていなければならない危機管理上の知識・情報であるはずだが、それを新入職員の訓示で改めて伝える。
この過剰な世話焼き、過干渉は日本の学校教育で一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼く姿と通底している。日本の学校はこうすべきと教える対象者を一個の人格として扱うことができず、基本を教えて、あとは本人の判断に任せるということができていないために中高生に対しても"ああしなさい、こうしなさい"がなくならない。現在も残っている暗記教育にしても基本のところで"ああしなさい、こうしなさい"と一から十まで教える力学によって成り立たせている。
こういった現象は個々の生徒を判断力を有する一個の人格と看做して、教えることを最小限に抑えて、あとは自分で考えて答を考えさせるという訓練を行ってきていないことから生じているのだろう。結果、教えるに時間がかかることになって、教師の長時間労働に繋がっている。
家庭教育でも子どもをそれなりに判断能力を有する一個の人格と認めることはせず、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼き、入学一年のスタート地点から自分から考えさせて自分の行動を自ら決めさせる発想の元、一人前に持っていくという思想を欠いているために一から十まで教える過剰な世話焼きが延々と続き、社会人になっても、一個の人格としての扱いができず、"ああしなさい、こうしなさい"が入庁の訓示にまで続き、入庁後も各部署の上役から、"ああしなさい、こうしなさい"と指示を受けて、結果、指示の範囲内で効率を上げていく程度だから、目を見張る創造的な発展性や生産性の向上が望めないことになる。まさしく日本の教育課程で植え付けられた思考構造の反映を川勝知事が自ら演じている。
災害発生の予測不可能性から、最優先とした自己の危機管理を対県民ということだろう、救援・救命や生活保全に備えて何をすべきか、各部署でのルールに則った「共通認識」で動き、防災訓練の場合は、〈戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならない〉云々と、自分の常識として備えていて自ら考えて行動しなければならないことを任せることのできる信頼性を持ち得ず、信頼性を持ち得るには何かが足りないのだろう、手を取り、足取りのように指示する。
指示を受ける側も手取り、足取りの指示を当然のこととして抵抗もなく受け入れ、日常慣習化している。中には腹の中ではそんな指示を受けなくたって、常識じゃないか、分かってらあと反発しても、上に向かって悪しき慣習を改めさせる勇気はなく、表面的に従い続けるうちにそのこと自体が自身の慣習となっていく。
公務員として人の役に立ち、社会の役に立つことは大切なことで、役に立つ基礎として県民に尊敬される対象となること、第一にコンプライアンス(法令順守)を先に持ってきて、身に私を構えないこと(「出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)」(出水市)には、「身に私(わたくし)を構(かま)へず」は、「自分よがりの考えをもたないこと」と現代語訳されているが、要するに私情(個人的な感情や利己的な心)を挟まないことということなのだろう、そういった姿勢が大切で、公務という性格上、「心は素直でうそ偽りを言わない」ことが肝要であると、一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と手取り、足取りの世話を焼く。
さらに上にへつらわず、下に威張らずの態度の必要性を言い、下に威張る人がいたら、反面教師にしろと、表面をなぞるだけの指示も暗記教育の反映であろう。なぜなら、上司の部下に対する威張り、その行き過ぎたパワハラは諌める部下の不在の証明でもあり、その不在の証明は部下自体の従属性を纏う一方の姿の証明となるだけだが、当然、変えるべきは部下自体の従属性であるはずが、そうはせずに反面教師にするということは上司の威張りにじっと我慢する従属性はそのままにすることになるからだ。
さらに常識として弁えていなければならないはずの言葉遣いを"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼かなければならない。大体が言葉遣いをあれこれと世話を焼かなければならないような、時と場合を弁えないままの人材の採用に判を押したこと、あるいは採用し続けること自体を問題としなければならないはずだが、方向違いにも言葉遣いに世話を焼く。親や教師の子どもに対する世話を焼くことと共通している。
困難な状況に立たされて相談に来た来庁者に対しては粗末に扱うのではなく、親切に相談し、対応することと極々当たり前のことに世話を焼かなければならない。相談が自分の担当ではなくても、「どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考える」、先例・前例がなくても、あるいは自身に決定権がなくても、何か解決方法がないか模索する、担当違いなら、「その担当局の方に紹介して差し上げる」、〈それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。〉云々と常識としていなければならない姿勢、行動をあれこれ指示し、要求する。
指示され、要求される側も世話を焼かれるのを子どもの頃からの当たり前の慣習としているから大人しく当たり前の様子で静聴する。
あの品格のある富士山の姿を自分の心の姿にして、富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないようにして欲しいは自らの身はそれぞれに自らの方法で律する術を相当程度に学んでいなければならない年齢の人間にそれぞれの方法に任せることができずに富士山の姿を自分の心の姿にしろと一律にある種の強制となる世話を焼いていることになる。
依頼事に納得のいかない来庁者に対しては優秀なみなさんは情理を尽くし、ハート・トゥ・ハートで自分が正しいと思う信念を貫きなさいと自ら学ぶべきこと、あるいは自ら学ばなければならないことをそれぞれに任せることができずに一つ一つ手ほどきする。こういったことも学校教育の慣習を受け継いだ過剰な世話焼きに入る。川勝知事はそういった学校社会の空気を吸って育った。学校教育の慣習を一般社会の慣習として受け継いでいるから、県知事にまで上り詰めても、その慣習が抜けきれずに、手取り足取りの世話焼きから抜け出ることができない。
川勝知事は県庁をシンクタンク(研究機関)と称しているが、福祉、災害、教育等々、それぞれの在り方や政策の向上、住民利益の向上や公平性、政策執行の効率化といった役割に於いてシンクタンクの一面を担っていないわけではないが、ここまではいいとして、〈毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。〉は、勉強のできる子とスポーツのできる子はいい子で優秀な子という学校社会で通用させている価値観、いわば多様な可能性に対する差別をそのまま一般社会に引きずってきている、日本の学校教育の反映が如実に現れることになっている姿であろう。
学校社会の悪しき慣習を一般社会にまで持ち込んだまま年齢を重ねても断ち切ることができない川勝知事も悪いが、もしこの発言が職業差別とも捉えられかねない発言であるとするなら、先ずは学校社会の多様な可能性をそれぞれに等しく認めていない可能性に関わる差別をなくすべきだろう。なぜなら、多くの日本人がホワイトカラーよりも肉体労働者を差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は学校社会での可能性に関わる差別の延長にある現象だからだ。
勉強のできる子やスポーツのできる子が勉強のできない子やスポーツのできない子に持つ意識・無意識の優越感を解消し、可能な限り対等関係に持っていくためにはどのように学校の成績が悪い子どもであっても、何らかの可能性を見つけ出す手伝いをして、見つけ出した可能性を尊重し、伸ばしていくための助言を与えて、勉強のできる子が勉強を自らの居場所とし、スポーツのできる子がスポーツを自らの居場所としているように勉強のできない子であっても、自らが見つけた可能性の追求を自らの居場所とできて、学校生活を充実させて送ることができるようになれば、彼らが勉強やスポーツのできる子に持つ下位意識は自然と薄まり、彼らにとって勉強やスポーツのできる子が彼らに持つ上位意識は相対的に意味が薄れていくことになり、このこととの連動でこのような意識を優越的な立ち場で一般社会にそのまま引きずっている川勝現象も余程の例外を除いて消えていくことになって、世間的に肉体労働者をホワイトカラーよりも差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は少なからず是正されていくことになるだろうからである。
学校教育での上下の物差しで計られることになる優劣の価値観が一般社会に於いても影響していて、牛の飼育で生活するのも、野菜を売ったりするのも、モノを作ったりするのも、一つの可能性であると同時にそれぞれがそれぞれの可能性への挑戦であることが蔑ろにされている。
知性を磨け、感性を豊かにしろ、三道鼎立(ていりつ)(文(学問)、武(スポーツ)、芸(芸術)の3つが調和することだとネットに出ていた)だ等々、それぞれの自覚に任せるべきを任せることができずに口出ししてしまう。親や教師が子どもがすることなすことを任せることができずにあれやこれや口出ししてしまうように。
「美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい」、「知性というものを大切にするということが大事だ」、「人に情けをかける」、「結果的にじぶんのためになる」等々、どこまで行っても、それぞれの判断に任せることができない。
できていたなら、言うべきは次のようなことであるはずだ。
「みなさんがどう成長していくか、どのように成長した姿を見せるか、その成果はみなさんの自覚と努力次第でもたらされることになるが、年々の成長に具合を周囲に見せることになるし、自分自身も自分の年々の成長の具合を判定できる目を持たなければ、不足を補い、伸ばすべきは伸ばす点を弁えることもできなくなる」
任せる信頼を寄せることが信頼関係の構築に重要なことのはずだが、世話を焼くばかりで、それができない。学校教育の悪しき慣習の反映に過ぎない。
以下、「身に私を構えず、上にへつらわず、正直であること」も、「情理を知って、人に情けをかける」ことも、いわば「見返りを求める親切はいけない」ことも、世話を焼いてさせるよう仕向けることではなく、自ら学んでその必要性を自覚しなければできないことで、自覚が意志の形を取ったとき、誰に言われるまでもなく自分から進んで行うことのできる行動、働きかけとなる。
相手が置かれた立ち場立ち場で"できる"という相手の可能性を信頼して、「あなたがたは年齢相応に応じた、あるいはそれ以上の可能性を備えているはずで、その可能性を既に備えてここに立っているはずだ。あなた方にとっては何を今さらといった指摘でしょうが、それぞれの可能性は自らの意志・判断に基づいて責任ある行動を心がけることのできる主体性と、他の助けや支配を受けずに自ら立ち、自ら行動できる自立心、同じく他の助けや支配を受けずに自ら立てた規律に従って自らの行動を律することのできる自律心の三つの行動特性を確固とした柱としているはずだから、どのような部署に配属されても、自ら学び、自ら行動する力を発揮することになるだろうし、他の部署に移動になったとしても、あるいは他の県に自然災害が発生して自然災害関連以外の部署からその県庁に災害関連の応援に駆けつけることになったとしても、その場に自身を置けば、その場の状況に応じて自身の可能性の柱としている主体性・自立心・自律心がその場の状況に応じて学びながら臨機応変に対処していく態度を随時発揮することができて、困ることはないだろう」
相手の可能性と可能性が年齢相応に備えているはずの主体性・自立心・自律心に期待をかける訓示のみで相手を信頼していることになり、相手への信頼が相手の主体性・自立心・自律心をよりよく引き出す力となって、積極的な行動を促すことになる。
当然、学校教育に於いても成績の優劣に関係なしに自分の可能性を見つけ出すことができていな子どもに何らかの可能性を見い出すことができるようにし、見つけ出した可能性を自ら発展させていく過程でその"自ら"という姿勢が主体性や自立心、自律心を育むキッカケとなり、育んでいくことになるだろうから、そうなれば、川勝現象は限りなく必要性を失い、姿を消していくことになる。
当方は川勝静岡県知事の新規採用職員訓示をこのように読んだ。一方、日本の著名が教育学者は自身のブログで次のように読んでいる。 静岡県知事さんの『暴言』 桁はずれに酷すぎます 更に 公務員をシンクタンクで持ち上げるとはーー 国家公務員、地方公務員問わず と訓示、期待を表明すべきところを どうかしていますねーー 今すぐの辞職と詫びを期待したいです みなさんはどうですか? 久しぶりに怒りでいっぱいです 要するに訓示を"農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱する、桁はずれに酷過ぎる『暴言』"とのみ読んで、頭に血を上らせた。 読みの正当性は読者の判断を仰ぐしかない。 《こりゃ〜即首ですよ!6月まで待てません!》((尾木ママ)オフィシャルブログ「オギ♡ブロ」Powered by Ameba/2024-04-02 19:11:25)
農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱するとはーー
国民・県民の為に働く『公僕』たれ
尾木ママ