現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

婆子焼庵

2009-02-08 21:36:01 | 心の問題
臨済禅の公案に『老子焼庵』というのがある。

昔、ある老婆が、一人の青年僧の修行の世話をしていた。
衣食住から、病気の時の薬など身の回りの一切の世話だ。
そして20年が経ち、修行の年季があけたので、婆さんは
若い娘に言い含めて、青年の側に寄って「私を好きにして」
と言わせた。青年は「20年修行を積んだ身、若い女なんかに
興味はない」と答えた。娘からそれを聞いた婆さんは、
「私は20年もの間、よくもこんな俗人の面倒をみてきたもんだ」
と怒って、青年を追い出し、草庵を焼いてしまった。

さてここでクエスチョン。「なんで婆さんは怒ったのでしょう」。
これは、公案の中でも最も難問で、これが解ければ卒業とか。
一休の出したヒントは「賊のために梯子を掛ける」。

まったく禅問答はちんぷんかん。一休は「老婆の行為は、泥棒の
ために梯子を掛けてやるようなものだ。つまり余計な“老婆心”」と
言っている。では誰が悪く、どうすれば良かったのかを考えるのだ。

まず婆さんはなぜ怒ったのか。修行を積んで、色欲を滅却したという
青年僧の答えは正しいと思えそうだが、それを婆さんは「俗」な奴だ
という。一般の通念では解けないのが禅の公案だ。では僧は女の
言うままに抱いてやればよかったのか?。でもなさそう。一休は
「婆さんは余計なことをした」というヒントを出している。悟った者に
誘惑して試そうとしたことか?それでもありきたりだ。一休は「男女
の仲は、当人の心のままにまかせればいいものを」と言っている
ようだ。はて正解はいかに。


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ホームレスから1000円も

2009-02-08 21:09:08 | 虚無僧日記
名古屋駅の笹島交差点近くで毎朝会うホームレス。
最初会った時は、まだましな服装で、顔も輝いて
いたが、最近、服は泥だらけ、顔もどす黒くなって
きた。先日500円あげようとしたら、「いぃ、いぃ」
と受け取らない。「こちらが布施しなければいけない
のに、虚無僧さんからもらうわけにはいかない」と
頑なだ。むりやり、500円を置いてきた。

そしたら翌日会った時「布施させてください」と、
1,000円札を差し出してきた。驚いた。1,000円も
受けとれない。押し問答になったが、せっかくの
志を無にするのも悪いと、偈箱にいれさせてもら
った。

その翌日、ホームレス仲間が彼の側に寄ってきて、
缶コーヒーとパンを渡そうとするが、断っている。
本当に遠慮深い人だ。いや、結構お金には困って
いないようだ。余計なおせっかいをした。

一休の「婆子(ばす)焼庵(しょうあん)」の公案が
解けた気がした。


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人の命の儚さよ

2009-02-08 11:07:30 | 虚無僧日記
真如苑事務局で、先日まで元気な顔を見せていたIさんが
亡くなられた。64歳。信仰深く、霊位も高く、皆から尊崇
されていた人が「なんで?」である。多くの人が“お力を
いただいて”命助けられているのにである。経(すじ)親さんは、
「霊界に必要とされて招かれたのでしょう」と。なるほど
そういう見方もあるのか。

話変わって、昨日、名古屋駅の地下鉄からJRに上がる
階段が混雑していた。見上げると、階段中ほどで、年配
の婦人が倒れている。救急隊員が胸を押して蘇生術を
施していた。野次馬の私はずっと眺めていた。他の人は
誰一人立ち止まることもなく、整然と片側の階段を分け
あって上り下りしている。付き添っている40代の婦人も、
ただ黙って立ち尽くしているだけ。誰も声も上げない。
「〇〇さん、〇〇さん、しっかりして! 」と絶叫するドラマの
シーンとはえらい違い。霊を信ずる人は、必死に名前を
呼べば、三途の河原まで行っても引き返すこともあると
いうのだが。

こういう場面に立ち会うと、私の手の平、指先が妙に
ジンジンしびれてくる。気功のパワーが出てくるのだ。
私の気功で助けることができたらと思う。気を送って
みた。
20分ほどして、担架で運ばれていった。蘇生したのだ
ろうか? 何事もなかったかのように、その空間がまた
人の波で埋まる。

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五木寛之の『親鸞』

2009-02-08 10:06:25 | 虚無僧日記
中日新聞連載の五木寛之の『親鸞』。
毎朝、朝刊が来るのが待ち遠しい。ドキドキしながら
新聞を広げる。

聖徳太子の六角堂に100日の参籠。清寂な所で仏と
向き合う修行かと思いきや、美しいな女性紫野(しの)に
会い、胸ときめかす親鸞。毎日飛ぶように山を降りて、
京の町中の六角堂に駈け参じる。大変な難行。疲労
困憊、限界に達しているはずだが、親鸞は「心はずみ、
全身に新しい力がみなぎっているように感じる。
<観音様のような人だ>と思う。その女性に会える、
そのことだけで範宴(後の親鸞)の心はうずく」と。

吉川英治の『親鸞』では、いきなり「六角堂での参籠も
今日で99日目」と、わずか一行。参籠で何をどう得たの
かなど関係ない。人と人との出会いと事件で物語は展開
する。

さてはて「宴乃桜」様から、またまたうれしいコメント。
「私は、虚無僧は悪い人とは思ってません」と。私の胸も
ときめく。こうした出会いがあるから、虚無僧修行も続け
られるのだ。

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吉川英治の『親鸞』

2009-02-08 09:11:01 | 五木寛之
東京に行った折、吉川英治の『親鸞』をとってきた。
私が中学の時読んだものだ。すっかり変色している。

新幹線の中でパラパラと読んでみて驚いた。「尺八
を吹く菰僧」が出てくるではないか。中学の時は気づ
かなかった。
「菰(こも)」は「薦」と同じ、「薦僧、菰僧」は「虚無僧」の
古い表記である。親鸞の生きた平安から鎌倉時代には、
「こもそう」はまだ居なかったのだが、『鳴門秘帖』の
吉川英治だから、よほど「虚無僧」が好きとみえる。

さてさて、吉川英治の『親鸞』は、貴族の世間知らずの
無垢な若者が、いわれの無い恨みや嫉妬を受けていじめ
られ、迫害を受けたり、野盗にたぶらかされたり、さま
ざまな苦難に遭うという流れ。『宮本武蔵』などと同じ
パターンだ。
これが書かれた昭和24年という時代は、まだ戦後の混乱期。
今より仏教に対する信仰心は薄く、凶暴な悪人も横行する
時代だった。悪玉善玉の勧善懲悪の観念が根強い。

五木寛之の『親鸞』が現代に改めて書かれた背景は、ひと
昔前よりも現代人は仏教に真理を求めようとする思いが強く、
また、昔ほどの凶悪非道な悪人もいなくなった平和な時代
を反映しているようだ。世間の底辺にうごめく人たちとの
交流を通じて、親鸞の内面をより深くえぐっている。

ところで、吉川英治も『親鸞』を書きながら、形骸化した
今日の浄土真宗の有り方を非難しているそうな。

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宗教は刺身のつま 2

2009-02-08 08:47:12 | 心の問題
昨日の真如苑の家庭集会で、「あなたは、他の
宗教もやっているでしょう」と問い詰められた。
「ドキッ」である。これだから霊能者は怖い。
「真如苑はすばらしいと解っていて、なんで、
これ一本で立とうとしないのか」というのだ。

私は基本的には「普化宗の虚無僧」だ。だが、
普化宗といっても、経典も教義もない。禅宗は
「釈迦も経典も否定し、あるのは自分だけ」なのだ。

ただ、仏に近づくとはどういうことなのか、真如苑は
それを教えてくれている。朝起き会もそうだ。人を
責めない、悪口を言ってはいけない、心に思っても
いけないなどの三業浄化。現実大肯定、あるがままに
受け入れて、しかる後により善く生きる道を。などなど
すべて共通する。

親鸞も比叡山で学びながら、奈良の旧仏教、法然の
新しい念仏宗も学び、聖徳太子の廟、六角堂にも参篭
して、仏とは何かを追い求め、浄土真宗を開いたでは
ないか。私もいろいろ首をつっこんで学んでいるのだ。

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宗教は必要か?

2009-02-08 08:09:59 | 心の問題
敗戦で、日本の古い伝統がすべて否定された。
天皇の神格が否定され、神話が否定されたの
だから、神社の権威も失墜。キリスト教が是
とされ、小学校でも「仏教の悪い因習、迷信
に惑わされている人は愚か者」と教えられた。

母は「神仏を信じるのは、自分が弱いからだ」と
常々私に言い聞かせた。

そもそも明治4年の廃仏毀釈令で、仏教は、
明治政府によって否定、排斥されたのだ。
近代日本においては、神社も寺も過去の遺物
なのだが、しぶとく残っている。

大晦日から元旦の様子をみれば、今日ますます
神仏への信心が強くなっている気がする。
共産革命で壊滅的に破壊されたロシア正教が
100年を経て復活。中国でも毛沢東によって
寺は破壊されたが、今また仏教が甦っている。

宗教は、それほど人の心に必要なものなのか。
「動物は宗教を持たない。人間と動物の線引きは
宗教を持つか否かにある」とも。「私は無宗教
です」という人は、動物並みとも。

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