現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「死」については 死んでから考えよう

2012-03-02 03:11:24 | 虚無僧日記
「断捨離(ダンシャリ)」の「やましたひでこ」さんのメルマガ。

「死生観」を問われての回答。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

死については、
死んでから考えようかな・・・なんてね^^;

私たちは、死なない限り、生きていなくてならない。
私たちは、死ぬまで、生き続けなければならない。

だから、生きることを、
今、生きていることを、日々の暮らしを、
なんだかんだと、今、愉しもうと思う。

そんな行動を、いっぱい重ねたい。
果敢に、トライ&エラーを繰り返し、
行動していきたい。

人生、いろいろ。
結果がどうであっても。

潔く、死に対峙することよりも、
山あり谷ありの人生を、
喜怒哀楽を行ったり来たりの人生を、
潔く、受け入れていく。

そうありたいと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私も全くその通り。お釈迦様だって「あの世のことは、自分も
行って見たわけでないから、知らない。何も言えん。死後の
ことを とやかく悩むことより、生きている今を真剣に生きよ」と
説かれているのだ。

それが「前世」だの「来世」だの、「地獄、極楽」だの「西方浄土
への往生」だのと、日本の仏教は、釈迦の教えに背いてきた。

仏教離れが著しい。現世主義が蔓延してきたが、それでも宗教は
なくならない。救いを求める人には、どんな宗教でもありがたいのだ。


諱(いみな)、字(あざな)、号(ごう)

2012-03-02 03:06:52 | 虚無僧日記
歴史上の人物は、実にたくさんの名前を持っている。幼名があり、
元服してからの本名があり、俗称、通称、諱(いみな)、字(あざな)、
号(ごう)、官位や冠位、そして法名、戒名とある。

諱(いみな)は、「忌む」に通じ、口に出すことがはばかられる
ことを意味する。本名である「諱」で呼びかけることは、親や
主君などのみに許され、それ以外の人が諱で呼びかけることは
極めて無礼であると考えられた。諱に対して、普段 呼ぶときに
使う名称のことを、字(あざな)という。

歴史ドラマで「信長公は・・」「秀吉めが・・」「家康殿・・・」 と 実名で
呼び合っているが、それはない。「右府様」「太閤殿」「内府殿」
など冠位や、「上総介」「筑前」、「三河殿」「大御所様」
「権現様」「東照公」などと呼ぶのが習わしだった。

徳川光圀は 誰でも知ってる「黄門様」。「黄門」とは「中納言」の
唐名。

「浅野内匠頭」は「ないしょのみ」ではない「あさの たくみ
のかみ」。「吉良(きら)殿」「上野(こうずけ)の介」とは、皆
知っているが、では実名は?。「浅野 長矩」「吉良 義央」。
「 義央」は(よしひさ)とされているが、実は、なんと読むのかは
不明なのだ。

つまり、本名は「無かった」に等しい。

というわけで、私の本名は「牧原伸一郎」。のちに「牧原伸一朗」、
「牧原龍生(ぼく、はらたつよ」と名乗っていた時もあったっけ。
今は、腹を立てぬように「一路(いちろ)」を名乗っている。


当家は亡くなると、諱(いみな)として 代々「直」の字をつけるので、
尺八にちなんで「直尺」かな?「直八」か? しまらないのォ。