現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

リモコン難民

2011-08-28 22:43:30 | 虚無僧日記
「地デジ化で、新たな“リモコン難民”が
生じている」とのコラム。私もその一人だ。

家にあるテレビ、ビデオ、CDプレーヤー、
エアコンも、すべて、各種設定は「リモコン」で
なければできない。リモコンを紛失してしまって
いたり、電池が切れていたりで、設定が変えられ
ないでいる。

東京の母の家に行くと、地デジにDVDに
ビデオに有料TVと、リモコンが三つも四つも
あって、私には、どれが どれだか わからない。
勝手にいじくると、もう見たいチャンネルに
戻れなくなる。

詩吟のCD制作に尺八伴奏を頼まれ、詩吟を
MDに録音して送られてきた。まずMDの
再生機が無い。S君の家から、CDとMDの
ポータブルデッキを借りてきた。

さて、スイッチは入ったものの、操作ができない。
すべてリモコンでなければ動かないのだった。
また、リモコンをとりに行く。

そのS君、自宅のテレビのリモコンが壊れたら、
なんとケータイをリモコン代わりにして操作
しているという。

なんでそんなことができるのか。ケータイも
リモコンになるということが なんで判るのか。

私には理解できない。高齢者は、どんどん
置き去りにされていく淋しさ。苛ただしさ。
これが、最近、高齢者がキレル原因の一つに
なっているらしい。

人もリモコンで動かす時代が来るのかいな。

親元離れて柔道一直線

2011-08-28 19:48:35 | 虚無僧日記
娘が通っていた世田谷区立「弦巻中学」の卒業生に、
柔道の金メダリストが二人もいる。「古賀稔彦」と
「吉田秀彦」選手だ。決して「特待生」ではない。
学区に、柔道の私塾『講道学舎』があった。

『講道学舎』は、日本全国から将来有望な柔道の
「金の卵」を受け入れてきた。全寮制で、みな、
中学から親元を離れ、学区の弦巻中学校から世田谷
高校に通う以外は、朝も夜も 柔道一筋の厳しい
生活を送ってきたのだ。

古賀は佐賀県、吉田は愛知県大府の生まれ。

その他にも、何人もの子が『講道学舎』から弦巻中学に
通ってきていたのだ。その中で世界の頂点に立てた人も
いれば、消えて行った人も大勢いる。

中学から親元離れて柔道に打ち込む。スポーツの世界は
なんと過酷で非情なものかとも思う。

ところで、最近『講道学舎』の名を聞かない。HPも
閉鎖されているとか。柔道場のリストにも載っていない。

日本人の柔道離れが進み、「親元離れて」なんて子は
いなくなったのか?

高校野球って郷土の代表じやなかったの?

2011-08-28 18:51:50 | 虚無僧日記
青森代表の「光星学院」が決勝まで勝ち進んだ。「被災地の
少年たちが、災害にもめげず、がんばって、東北に初の優勝旗を
もたらすか」と、マスコミも煽り立てた。野球音痴の私も
久々に ラジオにかじりついて、熱い声援を送ったものだった。

ところが、「光星学院」のレギュラー9人全員が、青森県外
からの「野球留学生」と知って、ポカン?!。多くが大阪出身
だったり、川上主将は沖縄出身とか。加熱した声援に、選手も
地元も戸惑ったそうな。

これって「偽坊主」と同じか??。


少年野球から野球一筋。地元でレギュラーになれそうもない
人は、他県で、甲子園に行けそうな高校に進学する。また、
学校側も、甲子園は最高の知名度アップの場。こうした選手を
「授業料免除」などの特別待遇で招きいれるそうな。
「特待生制度」だ。「支度金まで出す」という話もあった。

こうした「特待生」を受け入れる私学は 430校。特待生は
2,000人もいるそうな。いいのか、悪いのか。必要悪か。


私が在学当時、慶応高校が横浜代表になったことがあった。
日吉高校は横浜にあるからだ。でも在校生は、多くが
「東京から通学している」ということで、地元の横浜は
冷やかだった。高校野球が「郷土の代表」という考えは、
私の中では、その頃から無かった気がする。

「紳助」何にキレた?

2011-08-24 13:00:23 | 虚無僧日記
情に厚く涙もろい紳助、反面キレやすい性格(サンケイスポーツ) - goo ニュース

「島田紳助」の突然の引退で、テレビ界大あわてとか。
引退の理由がよくわからない。「吉本興業」の方から
詰め腹を切らされ、解雇通知を受けたような感じだ。

「○暴のA氏とのメールが発覚」といっても、10年近く
前の話。それがなんで今になって?。そのネタで、今
○暴から脅されているとも推測できる。

そもそも、「島田紳助」は、高校の時は“悪ガキ”だった。
「車上狙い」で補導されたことも、最近では 女性社員を
殴って訴えられた事件で一時引退していたことも。
それでも奇跡の復活をした。

以前、吉本興業の(元)役員の講演を聞いたことがある。
「紳助」を“人気タレントに引き上げた”苦労(手柄)話”
だった。

「高校の時の“ワル”でも、“一流”になれる」という
ことで、暴走族や町のチンピラに、どれだけ勇気と希望を
与えたかという話。それなりに納得させられた。

芸能界で長く残れる人と、すぐ消えてしまう人の違い。
「賞味期限」「消費期限」を見定め、いかに、次の手を
打つか、変貌していくかが、長く残れる鍵とも。

今回の「爆弾」は、今 翳りの見えた「吉本興行」自身の
生き残りを賭けた、自己演出かとも思える。


「吉本興業」と○暴との黒い噂もある。2007年には、
「週刊現代」が「創業者一族が○暴を使って副社長を
恐喝!」と。また「週刊新潮」は、「中田カウスが
山口組を背景に創業者一族を脅している」との告発記事を
掲載している。経営権益を廻っての醜いトップ争いだ。
そんな「吉本興業」に「紳助」がキレたか。

それにしても、引退発表の紳助に 追い鞭を浴びせるように、
2チャンネルでは「紳助」への悪口ばかりが上がっている。
「たけし」と比べて、「人望がない、徳が無い」と。
やっぱり根っからの悪人だったのか。

虚無僧で旅する時のノウハウ

2011-08-24 10:53:05 | 虚無僧日記
Sさんから、虚無僧で旅する時のノウハウについて、
いろいろ質問をいただいたので、その回答の一部を
公開します。

①履物は、ビニール製の安物の「雪駄」(700円位い)
表は ビニール製で畳模様のついたもの。但し、裏が 
柔らかいゴムのものは、濡れたところではすべります。
コルクか革張りだと安全。葦草で編んだ本物は、数万円もし、
雨に弱いので 使えません。舞台用です。

「わらじ」は、観光土産品として売っているものは、
藁をよく“打って”いないので、チクチク痛いし、
すぐボロボロになり、使い物になりません。以前、
4つも買って、腰にぶら下げて歩きましたが、2日で
全部ダメになりました。

「地下足袋」は、蒸れて、足がふやけてしまいます。

「下駄」は、「歯」が磨り減り、○万円もするものは
もったいないです。

「雪駄」の鼻緒は、「僧侶は白」、虚無僧は「出家
していない在家なので「黒、紺」だそうですが、私は
「白い着物」には「白い鼻緒」、着物が黒なら「紺」と
決めています。


②足袋:素足だと、すぐマメができるので「白足袋」を
履きます。お寺や人様の家に上がらせていただくことも
あるので、替えの足袋を用意し、履き替えます。


③「天蓋(てんがい)」は、虚無僧のシンボルですので
はずせません。


④「明暗」と書いた「偈箱」は、江戸時代には無かったもの
ですが、現代版虚無僧のシンボルです。「偈」とは「悟りを
導く言葉」ですから、「これってどういう意味ですか」、と
聞かれれば、話しにつながります。


⑤最近は、駅や公園、「道の駅」などには たいてい
「身障者用のトイレ」があり、「どなたでも利用でき
ます」と書いてありますから、そこで着替えたり、体を
拭きます。また、「銭湯」や「日帰り温泉」があれば、
500円ほどで入れます。虚無僧の格好で行っても、
よほど汚くなければ、どこも平気で入れてくれます。
そのためにも、清潔にしておくことが大切。

真冬、氷の浮いた天竜川に飛び込んだこともありますが、
意外にも寒くは ありませんでした。後はホカホカ。
ただし、今は、ほとんどの川は遊泳禁止で、川に入ると
警告されます。 夏は、鮎猟の監視員が、廻っていて
川には はいれません。




会津の旅 総括

2011-08-23 14:44:11 | 虚無僧日記
子供の頃から大学4年まで、毎年、夏休みには、
会津に行き、戊辰の戦跡や、神社仏閣などを
巡っていた。

私の記憶は、40年前に止まっている。私の人生も
40年 止まっていたように思う。40年前のことは
鮮やかに甦るのだ。

会津も、新しい道は、いくつもできていたが、
過疎化と産業や観光の停滞は続き、40年、時間が
止まっているようだ。

今回の震災、原発問題で、会津も避難民を受け入れ、
賑わっているかと思ったが、工場を誘致するために
田んぼを埋めたてた「工業団地」の空き地が、
避難民の仮設住宅になっていた。田んぼの中に
隔離された場所だ。それを見て、愕然とし、言葉を
失った。

我々会津人にとっては、下北に移住した時の、絶望の
思いが甦ってくるのだ。でも、祖先たちはみな、
なんとか食いつなぎ、頑張って成功し、今日に命を
つないできたのだ。

今日は、8月23日、白虎隊、そして牧原一郎、奇平
他が自刃した「命日」だ。すぐそんなことが頭を
よぎるが、今回の旅を最後に、過去を吹っ切りたい。


思い込み

2011-08-23 14:33:32 | 虚無僧日記
ラジオで、ある落語家の噺に、多いに笑えた。

坂道をね、重い荷物を積んだ大八車を曳いて、上っていく
親子がいた。前で引っ張っている人に

「後ろで押してるのは息子さんですか?」と訊いたらね、
「そうです」と云う。
そんで、後ろに廻って、後ろで押している子に
「前にいるのはお父さんかい」と訊いたら、「違う」って
いうんだよ。

変だねぇ。「後ろにいるのは息子さんかい」と訊いたら
「そうだ」。でも、後ろの子に「前にいるのは お父さん
かい?」と訊いたら、「違う」って。ややこしいね。

いいですか。・・・・。

(一瞬の間(ま)があって、私も考えこんでしまった。すると)

後ろの男の子に もう一度聞いてみた。「前にいるのは
お父さんじゃないの?」そしたらね・・・・・

「お母さんです」

そこで観客は大笑い。

つまり「大八車を曳いているのは“男性”=父親」という
先入観、思い込みがあるんですよ。これが怖いですね。

という噺。
「会津なんかの山奥に 平安時代の仏像なんかあるはずがない」。
「猪苗代湖ができたのは、磐梯山の噴火があったからだ」も
皆の“思いこみ”なのだ。

猪苗代湖の謎

2011-08-23 14:05:26 | 虚無僧日記
会津のガイドブックには、一様に「猪苗代湖は、
平安時代の初め、大同元(806)年に、磐梯山が
爆発して、堰きとめられてできた」と説明している。

その根拠は、江戸時代に書かれた『新編会津風土記』だが、
原文を読むと「その年、1年中 天地揺れ、暗雲たれこめ、
村々が水没した」とある。つまり、「磐梯山が爆発した」
とは、書いてない。今回の大震災同様、大地震が1年もの間
続いたのだ。そして、猪苗代湖周辺が地盤沈下したのだ。

磐梯山は、明治21年に大爆発し、裏磐梯で崩落が起きて、
村が埋没し、川が堰き止められて、五色沼や桧原湖、
小野川湖、秋元湖ができた。

地質調査でも、明治の爆発以前の古い地層からは、
火山灰や火山岩、溶岩などが見つからないため、
平安時代に磐梯山が爆発した痕跡は無いのだが、
「明治の爆発」から単純に、そう思い込んでいるのだ。

このことは、私は、中学の時の「夏休み自由研究」で
発表したが、未だに「磐梯山の噴火」とされている。


法用寺、龍興寺、そして勝常寺

2011-08-23 14:05:17 | 虚無僧日記
会津は、戊辰の史跡だけでなく、平安時代の仏教文化を
今に伝えていることでも、特異な地域なのだ。高田の
「法用寺」には、平安時代後期の「仁王像」がある。
平安後期のものは、他に現存していない貴重なもの。

同じく高田の「法幢寺」には「善光寺式阿弥陀三尊像」が
ある。「善光寺式」というのは、「阿弥陀如来」とその
両脇に立つ「観音・勢至菩薩」の「三体」で 一つの光背を
共有している形式。善光寺と同じものが会津にあったのだ。

また「龍興寺」は、平安時代の「一字蓮台法華経」が
伝存している。7万字もの一文字ずつに極彩色の蓮の華が
書かれた珍しいもので、これも「国宝」指定。

この「龍興寺」は、これまたなんと「天海大僧正」生誕の地。
「天海」は、徳川家康のブレーンとして暗躍し、「明智光秀
ではないか」とも噂されているが、会津高田の出身である
ことがわかり、「光秀=天海」説は否定された。

 
そして 究めつけが 湯川村の「勝常寺」。本尊の「薬師如来」と
両脇侍の「日光、月光菩薩」はじめ、9体の仏像が、平安
時代初期のものとして「国宝」に指定されているのだ。

「平泉の中尊寺」が「世界の文化遺産」に認定されたが、
会津の仏様は、平安末期だから、平泉より3百年も古い
のだ。

実は、私の卒論が「会津嶺の国」。「会津」は、山深い
東北の片田舎と思われているが、「古事記」「日本書紀」に
早くもその名が見られ、平安初期には「恵日寺」や「勝常寺」
をはじめいくつかの寺院が建てられ、平泉より300年も昔に、
仏教文化が、花開いていたのだ。

しかし、文化庁のお役人は「会津なんか東北の田舎、平泉
以前に、そんなものがあるはずが無い」との偏見で、これらの
仏像を全く無視してきた。勝常寺の仏像が「国宝」に指定
されたのは、私が卒論で発表してから30年も後、ほんの
10年前なのだ。

しかも、東日本の仏像が「国宝」に指定されたのは、これが
最初のことだった。

勝常寺も私の遠戚になるのだが、40年ぶりの訪問だ。私の
知っている住職はすでに他界され、私を知らないご婦人が、
とうとうと弁舌さわやかに「勝常寺」のガイドをしてくれた。
勝常寺の仏様への厚い思いが伝わり、感動。

会津~高田、坂下(ばんげ)

2011-08-22 20:43:42 | 虚無僧日記
母の実家はすでに無く、「老人ホーム」になっていた。
子供の頃、夏休みには遊びにきて、2、3週間、ここで
従兄弟たちと一緒に過ごしていた。敷地は500坪、部屋数は
50あった。松の木が数本と、石塀がわずかに残り、面影を
留めていた。

思い切って 中にはいり、「虚無僧で、あちこち廻ってます。
入所者の方々に 尺八演奏 いかがですか」と、言ってみたが、
「好きな方と、嫌いな方がいますので」と断られてしまった。
尺八はダメですか。ザンネン。

会津若松市から会津高田に向かう。最近、周辺の町村と
合併して「美里町」になっていた。

伊佐須美神社に詣でる。
「会津」の名は、「古事記」「日本書紀」にすでに出てくる。
紀元前88年(崇神天皇10年)、4人の将軍が東西南北、四方に
派遣された。「四道将軍」だ。そのうちの二人「大毘古命」は
北陸道を北へ進んだ。その子「建沼河別命」は東山道を東へ、
そして、親子が おち会った場所を、「会津」と名づけたという
その故事により、552年(欽明天皇13年)に、大毘古命」と
「建沼河別命」を 合祀したとされている。なんとも古い話だ。

40年前、初恋の人と訪れた思い出の場所。ところが、なんと
社殿は3年前、火災に遭って焼失したとのこと。「お守り」などを
売るお店のご婦人が、いろいろ教えてくれた。これから11年かけて、
これまたビックリ、古代の「出雲大社」に模して、長い梯(階段)を
設け、高さ30mもの社殿を造営するのだそうだ。ほぼ10階建ての
ビルに相当する。観光の目玉になるか。

高田の町を、なつかしい思い出に浸りながら、虚無僧する。