現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

大塚山墓地

2011-08-22 13:13:39 | 虚無僧日記
会津若松駅の北東に「大塚山」がある。ここには
東北最大の140m級の前方後円墳がある。そして
今では「市営」の一大墓地となっている。

私の母方の祖父母と伯父はここに眠っている。
私に尺八を教えてくれた伯父だ。耳鼻咽喉科の医者
だった。墓に行くと、すでに花が手向けられていた。
看護師(婦)をしていた「ゆき」さんだ。
こうして、命日とお盆、彼岸には、今でも墓参りをし、
墓の掃除をしてくれている。

こうした律儀さに、何もお返しできない辛さを感じる。

そのあと、親戚の家々を巡り、何十年ぶりに会い、
私の両親のいろいろな昔話を聞かせてもらった。

なつかしい家々は、見た目にはきれいだった。「震災の
影響は少なかったのか」と思ったら、とんでもない。
壁も屋根瓦も、梁も落ち、改修工事を終えたところ
だという。復興の早さに、感嘆した。


強清水から滝沢旧道を経て会津へ

2011-08-22 13:05:57 | 虚無僧日記
強清水から会津まで、今はバイパスができてすぐだが、
あえて滝沢の旧道を通り、会津に向かう。途中に、
何箇所か、こうした墓碑があるのだ。

滝沢峠には「戦死18人墓」がある。峠から下りてきた
年配の男性に「この近くに戊辰戦争で戦死した人の墓が
あるはずですが」と聞いてみた。「知らない」という。
彼が今通ってきた わずか 300m先の道端なのにだ。

こうして、三箇所の墓を巡り、それぞれの場所で
「手向」を吹く。

会津に戻って「甲賀町の郭門」跡に行ってみた。市内も
どんどん道が整備され、昔の記憶はあいまいだ。ここでも
散歩している人に聞いてみた。「知らない」という。

そこからまっすぐ 300mも行くとあった。大きな石垣が
残っている。この郭門の内側に、江戸時代、牧原邸が
あった。「牧原奇平」の兄「牧原一郎」は 63歳で 隠居の
身だったが、官軍が甲賀口の閣門を突破すると「もはや
これまで」と 自邸で 割腹した。

何年か前、TBS年末時代劇で『白虎隊』があった。
堀内孝夫の『愛しき日々』がテーマソングで歌われヒットした。

あのドラマで森茂久弥が演じた「井上丘隅」は、牧原邸の
隣人で実在の人物。だが「井上丘隅」も甲賀口で討ち死に
しているが、ドラマでは最後まで生き残り、斗南まで行く。

ついでに、スーちゃんこと田中好子が演じた「山本八重子」が
再来年のNHK大河ドラマになる。「新島襄」夫人だ。


さて、その「甲賀口郭門」の牧原邸は「居酒屋」になっていた。
そこの板前さんが二人、外に出てきて煙草を吸っていたので、
いろいろ話しかけてみたが、「全然知らない」と 関心も
なさそう。

もう がっかり。私は、会津でも、もう過去からの亡霊に
なっている。

「風葬の城」会津

2011-08-22 12:49:49 | 虚無僧日記
「大内宿」から会津までは 30km。バイパスが整備され、
意外と早く会津盆地が見えてきた。

内田康夫の『風葬の城』は、会津が舞台。内田康夫は、
4日間、会津を旅しただけで、会津人の気質、観光地を
すべて把握し、この推理小説を書いた。その構成力には
感心する。

登場する女性は、勤務地は会津だが、家は「大内村」と
なっている。当時の感覚では、「大内村」から会津まで
毎日通勤するのは無理な話だった。そんなことおかまい
なしに設定することに感心するのだ。テレビドラマにも
なった。大内村はシチュエーションとして最高だ。

だが、美人OLの住まいが「藁葺き屋根の純農家」という
のは、会津人としては“気恥ずかしい”。あれを見た人は
「東北は、貧しい未開の地」と思われたことだろう。

「風葬の城」とは、戊辰戦争で戦死した遺体は埋葬される
ことを許されず、野ざらしにされたことからの「題」だ。

大内宿から会津に行く道路沿いにも「戦死者の碑」があった。
今回の私の旅も、戦死した先祖の慰霊の旅。

「大内こぶしライン」という新道を走っていたら「美里町」の
標識。「美里町」は「会津本郷」や「会津高田」などが
町村合併してできた新名。そんなこと“知んめい”私。

どうも旧名でないと方向が判らない。まもなく、見覚えの
ある墓地。なんと我家の墓地ではないか。墓地のすぐ脇を
新道ができていたのだ。もうビックリである。

墓参りをして、墓誌をチェックする。ここは、明治以降、
私の曽祖父の代からの人が眠っている。江戸時代以前の
墓は、会津盆地の東「大窪山」にある。

盆地の東側の「小田山」から「青木山」「大窪山」一帯は、
江戸時代の初め、保科正之入封の時から「会津藩士の墓地」と
定められ、何千という墓が、山の中にあるのだ。しっかり
子孫によって整備されている墓もあるが、多くは 子孫も絶え、
草木に覆われ 荒れ果てている。

私の家の先祖の墓も、子供の頃、伯父に連れられて墓参りに
来。その後、二度ほど訪れているのだが、藪に覆われて、
見つけることができなかった。今回、山中を駆け巡り、
30分ほどして ようやく見つけた。

そして、猪苗代方面に行き、強清水にある「牧原奇平」の
墓に詣でる。「牧原奇平」は、すでにだったが、「官軍迫る」の
報に、白虎隊たちとともに戸の口原に向かった。会津藩兵は、
日光、越後方面に出払っていて、城下には正規軍は居なかった
のだ。牧原奇平は、僧侶や相撲取りを狩り集めて出陣した。

しかし、鉄砲の扱いも刀も握ったことの無い兵だから、
官軍の大砲の音に、一目散に逃げてしまった。牧原奇平は、
戸の口を防ぎきれなかった責任をとって、その場で割腹して
果てた。

遺骸は、野ざらしにされていたのを、村人が街道脇に埋葬して
くれていた。それが判ったのが、50年前、私が中学の時だった。

墓に名前は無かった。他の戦死者と合葬して、「十二人墓」
としか記されていないのだが、村の古老の言い伝えで
「牧原奇平」他が埋葬されているとのことだった。


白河~大内宿

2011-08-21 14:22:57 | 虚無僧日記
行田から加須に抜け、東北縦貫道を通って「白河IC」で出る。
慶応4年4月、ここで、奥羽征討軍との攻防戦があった。

東軍の戦死者は700名に対して、西軍はわずか16名。圧倒的
「火力」の差だ。白河城内や稲荷山の古戦場を初め 30カ所に
「墓碑」がある。東軍の遺体は多く川に流されたと云われ、
「墓碑」は後年作られたものだ。

わが家の先祖も一人、ここで戦死しているのだが、どこで
戦死したのか、墓誌に名前も無い。白河城と稲荷山に詣でた
だけで、心残りだったが、甲子温泉を経て「大内宿」に向かった。

ここは、会津と日光を結ぶ「会津西街道=日光街道」の宿場
だったが、江戸時代の初めには、参勤交代も白河へ抜ける
街道を通るようになり、時代に取り残された村となった。

40年ほど前だったか、一カメラマンが、この地を訪れ、写真に
撮り発表したことから、マスコミの注目を浴びることになった。
村は、開発か保存かで揺れ動いたが、昭和56年(1981)に
宿場町としては 妻籠宿、奈良井宿に次いで 全国3番目に
「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、コンクリート
舗装や電信柱を撤去し、トタン屋根を茅葺に替え、観光地と
して売り出すことになった。タイム・スリップしたような
異次元の世界が、今では人気スポットとなっている。

それぞれの店が「蕎麦」や「団子」「岩魚(いわな)の塩焼き」を
供し、土産物を売る「店」として、賑わっていた。

看板で目についたのが「高遠蕎麦」の表示。そう、保科正之が
信州高遠から転封となった時、高遠から蕎麦を伝えたという。

今回の旅で、先に「高遠」に寄ってきたが、そこの「お巡りさん」が、
「高遠に『高遠蕎麦』は無い。あれは会津で売っている蕎麦。
保科正之が 蕎麦の種や蕎麦打ちの道具、職人まで、根こそぎ
持っていってしまったから、一時期、高遠には蕎麦が無くなった」
と話してくれた。


大内宿の入口で、虚無僧姿で尺八を吹く。その後、宿場を往復
してみた。「馬籠」と違って、初めて見る虚無僧にどう対処して
いいのか、戸惑っている様子だった。映画のセットに エキストラの
通行人が歩いている感じだったかも。

のぼうの城 「忍城」

2011-08-20 22:44:23 | 虚無僧日記
青梅から北へ、行田市に行く。ここは、青梅鈴法寺の虚無僧
「月山養風」の父「秋山惣右衛門」がいた「忍城」があった所だ。

忍城」は、秀吉による小田原北条攻めの際、北条方の城として
「石田三成」に攻められる。その攻防を描いた映画「のぼうの城」が、
この秋封切られる予定だったが、震災の影響で来年に延期された。

延期の理由は、「忍城の水攻め」が、津波に遭われた被害者の
心情を傷つけるのではという配慮らしい。

行田市は、三階櫓を復元し、「おもてなし武将隊」を編成して、
「のぼうの城」で、観光PRに力を注いでいる。だが、虚無僧
になった「秋山」氏については、ご存知ないようだ。

「忍城」落城後、城主「成田」氏の一族が、蒲生氏郷に従って
会津に行き、その子孫は、会津に続いている。

さて、行田から幸手を廻ったが、「虚無僧」に関連する手がかりは
得られなかった。

青梅・鈴法寺跡

2011-08-20 02:15:05 | 虚無僧日記
虚無僧寺を統括する本寺の「鈴法寺」は、江戸から
数十キロ離れた「青梅」に在った。東京の西はずれだ。

ここには、過去何度も訪れている。今は「公園」として
整備され、ネットでも数多く写真がアップされている。

「鈴法寺」が青梅に建てられた経緯は、旧家の吉野家に
伝わる古記録から明らかにされている。

吉野家の先祖「吉野織部之助」は、後北条氏の家臣で、
行田市の忍城主に仕えた武士であったが、落城後、
青梅に新田を開拓して、その名主となった。ある時、
かつて忍城で戦死した同僚(秋山惣右衛門)の子(惣太郎)に
出会う。父を失った惣太郎は、虚無僧となり「月山養風」と
号し、葦草村(いぐさむら=川越市)に住んでいるという。

そこで、吉野織部之助は、かつての同僚の倅でもあり、
開拓地の66区画の屋敷割りの中から三区画を寄進し、
鈴法寺を建て、庇護したという。

これほどまで具体的に経緯が明らかになっているのは
稀有だが、落城時「惣太郎」は5歳くらいの子供だった。
それが成人して、道で会って「やぁ、なつかしい」と
判るものなのだろうか。惣太郎の虚無僧の師はいないのか。
川越の葦草に居た時も「鈴法寺」だったのだろうか。
いろいろ疑問が残る。


さて、その「鈴法寺」の歴代住職の過去帖が残されているが、
生歿年が 全くデタラメなのだ。年号が、鎌倉時代だったり、
次は江戸の初め、かと思うと室町の年号だったり、時系列に
そろっていない。ただ知っている年号をアトランダムに
書いたとしか思えない。

まともに取り合っていると、チンプンカンプン。「虚無僧の
出鱈目」ここに極まれりなのだ。
先を急ごう。


『喪われた道』 塩山~青梅

2011-08-20 01:11:10 | 虚無僧日記
推理作家・内田康夫の『喪われた道』。

青梅山中で虚無僧の絞殺死体が発見された。「今時、虚無僧なんて
いるの?」と、虚無僧研究会を訪ねる。そして「今時の虚無僧は、
普通に仕事をしていたり、定年退職しての旦那衆ばかり」と聞く。

被害者の前職から、意外な事実が浮かび上がる。そして、伊豆の
修善寺と山梨の塩山~青梅に至る「鎌倉街道」があったことを
突き止め、被害者は、修善寺で殺され、青梅まで運ばれたと
推察するのだ。

伊豆の修善寺には「瀧源寺」という虚無僧寺があった。
内田康夫は、塩山の「向嶽寺」のことは知らなかったようだが、
伊豆と甲州と青梅には虚無僧寺があった。その3点を結ぶ
ルートと、もひとつ、金鉱の中の埋められた坑道が、
トリックになっている。その二つを結びつける発想がすごい。

『喪われた道』はテレビドラマ化もされ、虚無僧研究会も
協力、出演した。室内でも 天蓋をかぶって尺八を吹奏する
など、珍妙な光景もあったが、虚無僧を世に知らしめて
くれた。

さてそこで、塩山から青梅に抜ける道、国道411号線を
走行してみた。柳沢峠を越えて、奥多摩湖、「小河内ダム」を
経て、青梅に至る。すごい山道だが、車は走りやすい。
こんな道があったとは、と興奮する。虚無僧にはもって
こいの街道だ。

ところが、帰宅して ネットを検索して知った。江戸時代の
旧道は、南の「大菩薩峠」を越え「小菅村」に至る、ものすごい
難所だったと。

大菩薩峠といえば、中里介山の未完の長編『大菩薩峠』。
映画化もされ、「虚無僧姿に身をやつした机龍之介(市川雷蔵)が
カッコイイ」と、これで虚無僧に憧れた人も多かったのだ。

大菩薩峠の麓の村が「小菅村」。「虚無僧研究会」会長で
法身寺のご住職が「小菅大徹」師。関係・・・ある?

甲州乙黒明暗寺

2011-08-20 01:11:00 | 虚無僧日記
甲府駅の南 乙黒に、虚無僧寺の「明暗寺」があった。
40年前、尺八仲間に「乙黒」さんという人がいた。
「甲州乙黒の出身」という。そして そこに「明暗寺」が
あったとも聞いていたが、「今は何も残っていない」
ということだった。

旧「中巨摩郡玉穂町」は 今 合併して「中央市」。
どんどん町名が変わるので旧名ではナビも出ない。
さんざん探し回って「史蹟甲州明暗寺跡」と書かれた
碑を見つけた。

ネットで検索すると、「玉穂町」で いろいろ調査し、
虚無僧を顕彰してくれているそうな。

この「明暗寺」の開山「来輝明雲大居士」は「天正
3年(1575年)に死去」という。

京都の明暗寺は、寛永4(1627)年、京都所司代
板倉重宗の配慮により、妙法院の一部、わずか
45坪を借りて建てられた。「妙法院」内だから
だろうか、当初は「妙安寺」だった。

となると、甲州「明暗寺」の方が、京都より50年
以上も古いことになる。ま、虚無僧の伝記は、
ほとんど 嘘 でたらめだから、これを検証するのは
難しい。

甲府の北「塩山」(こちらも「山梨市」になって
しまったが)、ここには「向嶽寺」という「法燈派」の
名刹がある。塩山と言えば「恵林寺」が有名で、その
「恵林寺」に隠れてあまり知られていないが、
「向嶽寺」は なんと「紀州 興国寺」の3世
「抜隊得勝」(1327~1387)の出身地であり、開基の
寺なのだ。

そして、塩山から東京の西、青梅に抜ける鎌倉街道が
あった。青梅には、虚無僧本寺の「鈴法寺」がある。

このルートに着目して、内田康夫の『喪われた道』が
書かれた。作家とは、すごい推察力だ。私にも、
推察力があれば、「向嶽寺」と「鈴法寺」と「明暗寺」
の関係を解き明かすことができるのだが。

諏訪から浜松、天龍川流域

2011-08-18 21:52:56 | 虚無僧日記
諏訪湖から唯一流れ出る川が「天龍川」。
岡谷市、伊那市、駒ヶ根市、飯田市、そして
天龍村をくだり、浜松で太平洋に注ぐ。全長200km。

この流域は以前、何度か旅をした。虚無僧するには
もってこいのシチュエーション。人情も厚く、虚無僧
への理解もある。

今回は、先を急ぐので、過去の思い出を振り返り
ながら、車で駆け抜けた。

そして、一つまた知り得たことがある。

飯田市の「座光寺」は、尾張徳川家の支藩「美濃
高須藩」の飛び地だったとのこと。ここも一昨年、
虚無僧で廻った。縁があったのだ。

つまり 高遠は、会津藩祖「保科正之」の出身地。
そして「座光寺」は、会津藩9代目藩主「松平容保」が
生まれた高須藩の飛び地だった。

そして、高遠から飯田までの街道を、幕末、
武田耕雲斎率いる「水戸天狗党」が 通り抜けて
いった。

それは、甲州乙黒・明暗寺の虚無僧が、ここを
通って、岐阜まで来ていたことにもつながる。
中仙道は、意外と 往来は自由だったようだ。

保科正之とは

2011-08-18 14:28:53 | 虚無僧日記
「保科正之」とは?。最近、俄かに注目されてきた。

「保科正之」は「徳川2代将軍秀忠」の隠し子として
生まれた。只今NHK『江』で、向井理演じる「秀忠」だが、
乳母の侍女に手をつけて、生ませた子がいたのだ。

「秀忠」の正室「お江与」は嫉妬深く「秀忠」は
恐妻家だった?。それで、生まれた子は、秘かに
信州高遠の保科正光の養子に出されていたのだ。

やがて「江」も「秀忠」も亡くなって、3代将軍
「家光」の代となる。「家光」はある時、腹違いの
弟が居ると知って、兄弟の対面となる。

「家光」には、同母弟の「忠長」がいた。「江」は
弟の「忠長」を可愛がり、3代将軍は「忠長」かと
誰もが思っていたところ、「家光」の乳母「春日局」が
家康に訴え出て「家光」が3代将軍となった。

そのような経緯から「家光」は同母弟の「忠長」を嫌い、
自分と同じく、親の愛を知らず育った「保科正之」に
兄弟愛を感じた。

「保科家」は、元は武田の家臣で、2万石程度の小大名
だったが、「家光」は「保科正之」を 会津23万石の
大大名に抜擢するのである。会津は、米沢の上杉、
仙台の伊達など戦国大名を抑える北の護りとして、
弟の「正之」を会津23万石の太守に任じたのである。

そして、家光は後事を「正之」に託し、4代家綱の
後見人として「保科正之」は、幕藩体制を確立した。
その「名君」しての働きは、最近NHKやTBS
でも特別番組で取り上げられた。