先日、若くして病死なさったロシア語会議通訳の米原万里さんは、1960~1964年プラハにあるソビエト学校で学んだそうです。
米原さんのお父さんは、日本共産党の幹部で、そこを代表してプラハにある「平和と社会主義の諸問題」編集局で働いていました。そこの職員の子どもは、ほとんどプラハにあるソビエト学校に通っていました。
その時の同級生が、ソビエト崩壊後、激動の東欧でどのように生きたかを綴ったノンフィクション。
日本の共産党は政権政党ではないので、ソ連が崩壊しても大きな影響を受けなかったけれど、ソ連の衛星国では大混乱だったでしょう。
ルーマニア人のアーニャの父親は、チャウシェスク政権の幹部だったが、チャウシェスク処刑後も失脚せず、一応は実権のない名誉職についている。
しかし子どもたちは皆、祖国を捨て、イスラエル、アメリカ、イギリスへ行って帰国する意思は無いらしい。
北朝鮮でもそうだけど、外国に出国できるのは恵まれた共産党幹部の家族だけ。
考えてみれば、国に一番貢献しなければならないはずの立場の人が、一番先頭に立って祖国を見限っている。
また(今はもう解体してしまったが)ユーゴスラビアのヤスミンカの半生も波乱に満ちている。
ユーゴスラビアに民族紛争がおこり、今まで同国人として仲良くやっていた人々が、分離独立を求め殺しあう。
ヤスミンカはボスニアムスリムだったので、生命の危険さえ感じる立場に。
民族ってそんなに大事なものだろうか?色々考えさせられる1冊だった。
米原さんのお父さんは、日本共産党の幹部で、そこを代表してプラハにある「平和と社会主義の諸問題」編集局で働いていました。そこの職員の子どもは、ほとんどプラハにあるソビエト学校に通っていました。
その時の同級生が、ソビエト崩壊後、激動の東欧でどのように生きたかを綴ったノンフィクション。
日本の共産党は政権政党ではないので、ソ連が崩壊しても大きな影響を受けなかったけれど、ソ連の衛星国では大混乱だったでしょう。
ルーマニア人のアーニャの父親は、チャウシェスク政権の幹部だったが、チャウシェスク処刑後も失脚せず、一応は実権のない名誉職についている。
しかし子どもたちは皆、祖国を捨て、イスラエル、アメリカ、イギリスへ行って帰国する意思は無いらしい。
北朝鮮でもそうだけど、外国に出国できるのは恵まれた共産党幹部の家族だけ。
考えてみれば、国に一番貢献しなければならないはずの立場の人が、一番先頭に立って祖国を見限っている。
また(今はもう解体してしまったが)ユーゴスラビアのヤスミンカの半生も波乱に満ちている。
ユーゴスラビアに民族紛争がおこり、今まで同国人として仲良くやっていた人々が、分離独立を求め殺しあう。
ヤスミンカはボスニアムスリムだったので、生命の危険さえ感じる立場に。
民族ってそんなに大事なものだろうか?色々考えさせられる1冊だった。