2008年 シンガポールの裁判所は書店から聖書を盗んだ
26歳の男性に有罪判決を下し、それに続いて聖書を贈呈しました。
そして、
裁判長は被告人の男性に対して、
「聖書には汝盗むことなかれとあります。
贈呈した聖書をよく読み、再び罪を犯さないように。」
と諭したそうです。
この男性の犯行の状況が良く分からないのですが、
経済的にゆとりがなかったので盗んでしまったのか、
ただの万引きなのか。
ただの万引き犯だとしたら裁判長の行動は、
「俺って何ていい奴じゃねえ。」的な感じもして
ちょっと違うような気もするのですが、
でもまあ犯行の全ての証拠、経緯も知っている
裁判長の判断なのですから
スリルを楽しんだり、ちょっとした利益のための
只の万引きとは違ったのでしょう。
犯人の男性は、国家から罰を受けて
国家から愛を与えてもらったということですよね。
シンガポールの裁判所、粋だねえ。江戸っ子だねえ。
日本の裁判所でも、昔からの名裁きの本場ですから
名裁判長によって大岡越前守ばりの粋な裁きが
最適に行われていることと思います。
確か聖書の言葉だったと思うのですが、
懺悔し悔い改めれば、神は赦される。
であるとか、
右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい。
であるとか。
私は、これらの言葉の深い意味は知らないし、
特に右の頬を云々は色々な解釈があるので何が何やらです。
とにかく、私のキリスト教に対する印象は、
赦しと愛を基盤とした宗教となっています。
世界の裁判の実情は知らないので、
日本の司法制度もまた
①罪を認め。②罪を告白し心から反省し。
③罪を償い。④行動を改めれば。
⑤国家、社会は汝を赦す。
と理解することが出来るので、
赦しと愛を基盤にしていると捉えることが出来ます。
なのですが加害者に対する国家の態度と
被害者となった個人の心の傷が癒える期間と
必ずしも一致する訳ではありません。
なので加害者がしでかした罪が
刑法的に重罪であろうとも微罪であろうとも
被害者は、自分の心に無理強いをしてまで赦すことも
逆に加害者を自分の心の真ん中に留めて
赦さないように頑張ることもせずに
自然に任せるのが良いかと思うのです。
今はまだ赦しはしないけれども
その気持ちや感情は気化しても良いし、気化しなくても良い感じで、
心のブラックボックスに収納して置く感じでしょうか。
多くの時間を加害者への怒りや悲しみに費やすのは
被害に加えて自分の大切な時間を
加害者に差し出しているような感じがして
あまりにも勿体ないように思うのです。