15世紀のフランスで鐘楼から落下した際に
その真下を通りかかった人を死なせた人の裁判がありました。
判事は、遺族一名が同じ鐘楼から被告の上に落ちても良いと
判決を下したが実行されることはなかったようです。
鐘楼から転落した人が自殺なのか、事故なのか分かりませんが、
転落した人は、故意に狙ったものであるはずもなく、
そんな結末を望んでもいなかっただろうけれども
一人の人間を死に至らしめた責任は大きなものがあります。
現在の日本の法律では過失致死でしょうか。
そして確かなことを知りませんが、
現在のフランスの法律でも判決は
さすがに上とは違ったものになるのではないでしょうか。
法は、公の秩序を守るためにあると考えると
そのためには公平さが約束されている必要があるので
15世紀のフランスの転落者への判決は、
公平な判決だったかについては疑問を感じます。
転落者への15世紀のフランスの判決が
法の裁きとしての是非は置いておいて、
コミュニケーションの仕方として考えてみると
そのエッセンスは色々な場面で役立てることが出来そうです。
上の判決をざっくり言うと、
「故意で人を死に至らしめたのではないから
裁判所としては転落した者の罪は問わない。
遺族の人達は、死を不運だったと受け入れなさい。」かな。
そんなふうにあっけらかんとシンプルに言ってしまうと、
故人への気持ちをないがしろにされた遺族の人達は、
当然、「ふざけるな!」と大きな反発が起きることは
容易に想像できます。
仮に大きな力によって相手の気持ちを抑え込むことに成功したとしても
解消されないまま抑え込まされた気持ちは
心の中で長く維持され、その圧が高まり、
何かのきっかけで大噴出することで
より大きな問題を引き起こす可能性があります。
なので判事は、言葉を巧みに駆使して
最終的な結論は同じだけれども
遺族の人達の罰を求める気持ちを認めることで反発をやわらげ、
同時に転落者も守ることにも成功したように思えます。
言葉巧みに良い落し所への導く似た話として
イエス・キリストの石打の刑の話や
落語の三方一両損の話のことが思い出されます。
場面、場面に合わせて機転を利かし最適の解を投入する。
この感覚は、日頃のコミュニケーションだけでなく
カウンセリングや心理療法、催眠誘導にとっても
大切な感覚なんですよね。