随分前から、若い女性たちの言葉使いが変わりはじめた印象があった。
いわゆる「男言葉を女性が使う」と言うコトだ。
それが最近では、もっと乱暴な言葉を若い女性たちが使いはじめているように感じていた。
今日、所要があり夕方の地下鉄に乗ったら、そんな場面に出会った。
ホームで電車が来るのを待っていた時のこと。
後ろから、相当乱暴な言葉使いをする声が聞こえてきた。
若い男性の割には声が高く、若い女性だとすれば相当低い、そんな印象の声だった。
しかし話の内容から、若い女性たちのようだ。
何気ないフリをして、後ろを見ると10代後半と思われる若い女性2人だった。
そのうちの一人の女性が、とても乱暴な言葉使いをしていたのだった。
私自身は、「女性は女言葉、男性は男言葉」を使う・使わないと言うコトは気にしていないつもりだ。
若い女性が「僕」と自分のことを呼ぶことに、違和感が無いわけでは無いが、それもその人の表現だと思っている。
逆に、男性がオネエ言葉で話していても、その人のキャラクターだと思うようにしている。
だが今回気になったのは、乱暴な言葉使いと声のトーンだ。
女性の声と言うのは、「黄色い歓声」とか「キャピキャピしている」と言う表現があるように、男性に比べると高い。
それが若い時には「可愛らしさ」になる。
一方男性は、変声期を過ぎると「野太い声」となり、「男らしさ」や「逞しさ」を感じさせるようになる。
昨今の「草食男子」であっても、声そのものは女性に比べるとずいぶん低いはずだ。
ところが、若い女性が「男言葉」を使うようになってから、女性の声も少し低くなってきたような気がしている。
「言葉使いと声」が結びついているとは思わないが、低い声の若い女性が多くなりはじめているような印象があるのだ。
「そんな些細なこと」と思われるかも知れないのだが、それが社会の変化のような気がしている。
と言うのも、女性が自分を主張する場面で「可愛らしさ」ではなく、「自分」をアピールする必要があると感じていれば、自ずと落ち着いたやや低めの声となると思うのだ。
とすれば、今の若い女性たちは「自分」を積極的にアピール(と言うか「主張」)をしているようになっているのでは?
と同時に「乱暴な言葉」と言うのは、ジェンダーフリーと言うよりも「未発達」という感じがしている。
思考的な未発達さだけではなく、彼女たちを取り巻く社会の未発達・未熟さと言う印象なのだ。
「自分たちで完結した世界に閉じこもっている」そんな印象だ。
「自己完結した世界の中で、自分を主張している」のが、今の若者たちなのか・・・そんなコトを感じた地下鉄のホームだった。
いわゆる「男言葉を女性が使う」と言うコトだ。
それが最近では、もっと乱暴な言葉を若い女性たちが使いはじめているように感じていた。
今日、所要があり夕方の地下鉄に乗ったら、そんな場面に出会った。
ホームで電車が来るのを待っていた時のこと。
後ろから、相当乱暴な言葉使いをする声が聞こえてきた。
若い男性の割には声が高く、若い女性だとすれば相当低い、そんな印象の声だった。
しかし話の内容から、若い女性たちのようだ。
何気ないフリをして、後ろを見ると10代後半と思われる若い女性2人だった。
そのうちの一人の女性が、とても乱暴な言葉使いをしていたのだった。
私自身は、「女性は女言葉、男性は男言葉」を使う・使わないと言うコトは気にしていないつもりだ。
若い女性が「僕」と自分のことを呼ぶことに、違和感が無いわけでは無いが、それもその人の表現だと思っている。
逆に、男性がオネエ言葉で話していても、その人のキャラクターだと思うようにしている。
だが今回気になったのは、乱暴な言葉使いと声のトーンだ。
女性の声と言うのは、「黄色い歓声」とか「キャピキャピしている」と言う表現があるように、男性に比べると高い。
それが若い時には「可愛らしさ」になる。
一方男性は、変声期を過ぎると「野太い声」となり、「男らしさ」や「逞しさ」を感じさせるようになる。
昨今の「草食男子」であっても、声そのものは女性に比べるとずいぶん低いはずだ。
ところが、若い女性が「男言葉」を使うようになってから、女性の声も少し低くなってきたような気がしている。
「言葉使いと声」が結びついているとは思わないが、低い声の若い女性が多くなりはじめているような印象があるのだ。
「そんな些細なこと」と思われるかも知れないのだが、それが社会の変化のような気がしている。
と言うのも、女性が自分を主張する場面で「可愛らしさ」ではなく、「自分」をアピールする必要があると感じていれば、自ずと落ち着いたやや低めの声となると思うのだ。
とすれば、今の若い女性たちは「自分」を積極的にアピール(と言うか「主張」)をしているようになっているのでは?
と同時に「乱暴な言葉」と言うのは、ジェンダーフリーと言うよりも「未発達」という感じがしている。
思考的な未発達さだけではなく、彼女たちを取り巻く社会の未発達・未熟さと言う印象なのだ。
「自分たちで完結した世界に閉じこもっている」そんな印象だ。
「自己完結した世界の中で、自分を主張している」のが、今の若者たちなのか・・・そんなコトを感じた地下鉄のホームだった。