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「安楽死」ではなく「尊厳死」という、「死生観」を持ちたい

2020-07-24 20:37:19 | 徒然

昨日、ASLの女性患者さんに対する「嘱託殺人」という罪で、2人の医師が逮捕された。
NHK NEWS WEB:ALS患者の嘱託殺人容疑で逮捕の医師 SNS通じて知り合ったか

まず「安楽死」を依頼したALS(筋萎縮性側索硬化症) という病気について、理解をする必要があるだろう。
数多くの報道がされているので、概要としてご存じの方もいらっしゃるかもしれない。
徳洲会という病院の創立者である徳田虎雄さんやテレビ番組「クイズダービー」で活躍された学習院大学の故篠沢教授も、晩年この病気と闘っていらっしゃっていた。
「難病指定」がされている病気であり、決定的な治療法がないまま体を動かす神経路が侵され、運動だけではなく体を動かすことができなくなり、最終的には人工呼吸器をつけなくてはいけなくなる、という病気といわれている。
しかし、体を動かす神経路が侵されても、考えたりすることは問題ない為、患者さんは「動かない体と鮮明な頭」というギャップやジレンマに日々向き合い苦しむことになるという、指摘もあるようだ。

おそらく「安楽死」を選んだ女性も、そのような「動かない体と鮮明な頭」のはざまで、「生きていくことの意味」を失い絶望してしまったいたのではないだろうか。
特に、病気が発症する前までは仕事に打ち込み、それなりの社会的評価を受け、経済的にも自立していた女性であれば尚更、「人の手を借りなくては生きられない自分」が、許せなかったのかもしれない。
といっても、故人について知っているわけではないので、あくまでも私の想像でしかない。

「死の科学者」と呼ばれた、エリザベス・キューブラー・ロスの名著「死ぬ瞬間」という本が、装丁が新しくなり書店に並んでいる。
キューブラー・ロス自身は、脳卒中に倒れ、治療・リハビリなどに励みつつ「ライフレッスン」という、本を書きあげている。
「死の科学者」と呼ばれていても、「自分の死」を前に揺れ動く心情や言葉は、「死を目の前にした人の姿」として、強く印象付けられる。
それは脳卒中という病気により、動かなくなっていく体と研究者としての思考という間で、揺れる心情のようなモノのようにも感じた。
そのような経験の中から、「生きていくためのレッスン」とは、社会的評価や経済的豊かさという価値観を手放した時、「自分の姿」を取り戻し、そこから「生きていくレッスンが始まる」と書いているのでは?という、印象を持ちながら読んだことがある。

私の感想なので、受け止め方は人それぞれだと思うのだが、ALSを患い人生を悲観し、自死をするために人の手を借りなければならなかった女性が一番必要としていたのは、彼女の不安や絶望感に寄り添う人だったのでは?という気がするのだ。
これは私自身が、がんという病気と向き合うことになった時に「自分の不安や絶望感の素は何か?」ということを自問自答し続けることで、「不安や絶望感を乗り越えること」ができたからだ。
もちろん、私は早期の中でも相当な早期であったこと、手術後の辛い治療が無かったために「自分で向き合う」ということができたのだと思う。
だからこそ、「人生に不安や絶望を感じている人」に、寄り添う社会であってほしいと願っている。

もう一つ感じているのは「安楽死」ではなく、「尊厳死」という考えを持ってほしいと思っている。
積極的な治療を受けるのではなく、病気の進行に合わせ徐々に衰えていく自分を受け入れる「死の迎え方」という意味だ。
「体は動かなくても、頭の中で想像する力がある」とすれば、様々な道具を使いサポートを受けながら、表現し続けることができるとすれば、その力を自分の生きた証として残すということを考えて欲しかった。
そのために必要なことがあるとすれば、「自分なりの死生観」を持つ、ということなのかもしれない。

「死」が忌まわしいものではなく、「いずれ誰にでも訪れる」ものとして、「自分はどのような人生を送りたいのか?どのように生きていきたいのか?」社会的名誉や経済的成功ではない「自分の価値観」というモノを考えるトレーニングが、今の社会には欠けているようにも思える。



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