読売新聞のWebサイトに、あるBBQ場の記事が掲載されていた。
その読売新聞の記事を引用して、東洋経済が記事を書いている。
東洋経済:BBQスポット「飯能河原」が一部有料化で利用者激減
この有料化はあくまでも一時的な実証実験として行われたようだが、無料であった頃と比べると激減を通り越して閑古鳥が鳴くような状況になってしまったようだ。
だが、考えてみれば「どこかで何かの施設を利用する」ということは、それなりのコストがかかっているはずだ。
「無料で施設を利用する」ということは、「誰かにコスト負担を強いている」ということになる。
もちろん利用者側としては「河原」という場所を「施設」だと思っていないだろうし、「施設でもない場所を有料化するのは、おかしい」という、考え方もあるだろう。
だが、「その場所を利用した後、利用する前と同じ状態に戻して帰っているのか?」という問いに対しては、どのような答えをするのだろうか?
洋の東西を問わず、人の心理の中に「Not In My Backyard(=私の周りでなければ良い)」がある、といわれている。
また日本には「旅の恥は掻き捨て」という、諺もある。
ご存じのように、自分の生活圏以外で恥ずかしいコトをしても、恥だとは思わないコトを指している。
自分の生活圏外で、自分が自制心のない行動をしても、それを恥ずかしいとは思わないし、興味も関心もない、ということなのだ。
それが「無料」ということになると、自制心がないという範疇ではなく、傍若無人な行動へと発展する人達が少なからずいる、ということなのだ。
それが「有料」という、費用が発生することで「その場所が自分の場所」という意識への転換であり「自由気ままにふるまえない」という、コトにつながっているのでは?と、いう気がする。
上述したように、「人が行動をする」ということの中に「何かを利用する」ということが含まれている。
自家用車に乗る為には、自動車免許が必要だがほかにも自家用車を利用するための費用がそれなりにかかる。
それはごく当たり前の生活をする中でも電気料金やガス・上下水道代といった「生活に必要最低限の費用」が発生するのは、それらを利用するために発生する費用である、ということでもある。
一方「サービス」という言葉がある。
上述した「生活に必要最低限の費用」は、全て「サービス業」によって行われているものだが、中には「無料=サービス」という意識を持っているものもある。
これまでスーパーで買い物をしたときに使われていた「店名入りのレジ袋」等は、その一つだろう。
だが「無料」であったのには、理由がある。
「店名入りレジ袋」を提供していた理由は「お店の広告」を兼ねていたからだ。
「店名入りレジ袋」を持って歩く、ということ自体が「お店の宣伝になる」という、考えが企業側にあったからこそ「無料」であった、ということに他ならない。
「サービス」といっても、必ず何等かのコストが発生していて、その目的によって生活者に「無料」として提供されていた、ということに過ぎないのだ。
それを「サービス」という言葉によって、「無料」だと思い込み「サービス=無料」だと認識をしている人たちが、日本には多いように感じている。
「無料」という言葉には、「誰かが、何等かの目的をもって費用負担をしている」と考えると、BBQ場にはどのような費用が発生し、誰がその費用を負担しているのか?ということを、利用者は考える必要があると思う。
自分が住んでいない自治体が負担している、とすれば「自分には関係がない」のではなく、「自分が住んでいない自治体に負担させている」と、考えるべきで、その負担はその自治体に住んでいる人たちがしている、ということでもある。
違う言い方をするなら「お邪魔させていただいている」ということになるのだ。
とすれば、当然それなりの「お邪魔させていただく為の負担」はする必要はあるだろう。
「サービスが悪くなった」のではなく、「コスト負担に相当したことを提供している」ということを、社会全体が理解すべき時期にきていると思うのだ。
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