テキスト読みをしている、NHKの「100分de名著」。
先月は、カール・マルクスの「資本論」だった。
学生時代、経済原論で少しだけ「資本論」を学んだような、記憶がうっすらとある。
それから30年以上たって話題になったのは、トマ・ピケティの「20世紀の資本」だった。
ご存じの方も多い分厚い本で、書店の店頭に並んでいる時点で、挫折した本でもあった。
この頃から、マルクスの「資本論」そのものが、再注目されるようになった気がする。
しかし…マルクスの「資本論」は、やはり手ごわかった。
そこで「100分de名著」に頼った訳だ。
解説をしている斎藤幸平さんの解釈が、アバンギャルドというか、容赦ない「資本主義批判」となっているのに、やや驚いた。
特に、コンサルティングなどの仕事に関しては「ブルシット・ジョブ(クソどうでもよい仕事)」と言い切られており、マーケティングという仕事をしている手前、「クソどうでもよい仕事と、言われてもな~」という、なんとも複雑な気持ちになった。
「クソどうでもよい仕事」は別にして、フレデリック・テイラーが提唱した「科学的管理法」を基にした「マネジメント」が、今の「資本主義」を支える考え方であり、「マネジメントの父」と呼ばれたドラッカーの「マネジメント」とは一線を期すものである、ということと同時に、日本ではテイラーの「マネジメント」の考えによって、今の社会の歪みが生まれているのでは?という気がしたのだ。
(ドラッカーの「マネジメント」とは違う考えであるために、今回の100分de名著では、ドラッカーの名前は全く出てこない)。
テイラーの「マネジメント」とは、いかに安い賃金で最大限の利益を生み出すように管理をするのか?という、人事管理の発想だ。
労働そのものを単純化し、時間を競わせるコトで、生産効率そのものが上がるような「管理」だ。
これは、チャップリンの映画「モダンタイムス」にも描かれている。
正に今の工業化は、仕事を分断し、機械を使って単純化させることで作業効率は各段にアップした。
作業効率が上がることで、大量生産が可能となり結果「手ごろな価格で、価格以上の品質を持つ商品」を手に入れることができるようになった。
この内容を読みながら、思い浮かんだのがミヒャエル・エンディの「モモ」だったのだ。
灰色の男たちから「時間を盗まれた人たち」は、単純化させた仕事をひたすら続ける事で、自分の時間を得たような気がしているが、その多くは自分の時間を得たのではなく、自分らしく過ごす時間を失ったに過ぎなかった。
灰色の男たちが、モモのいる街の人たちを説得する時に使うのは、今の生活がいかに無駄な時間を生み出しているのか?ということだ。
「無駄な時間を有益時間(=働く時間)に置き換えれば、もっとあなたは儲かる仕事ができますよ」と、囁き「時間銀行」に預けさせる事であたかも「余裕のある生活を積み上げさせている」ようにしているのだ。
街の人たちが手にするはずだった、自分らしく過ごす時間は、灰色の男たちのタバコの材料となり、灰色の男たちが勝手に消費しているのだ。
「モモ」の灰色の男たちが、テイラーの考える「管理システム」だとしたら、それは「資本主義」の負の部分ではないだろうか?という気がしたのだ。
それだけではなく、街の人たちが創り出したはずの「生産したモノ・コト」の多くは、灰色の男たち(=資本家)の手の中にある、とも読み取れるようも思えたのだ。
「コロナ禍」の中、リモートで仕事をするようになり問題となりつつあるのは「リモートによって、部下たちが本当に仕事をしているのか?」という点だと言われている。
確かに、「管理する社員」が目の前にいれば、管理はし易い。
しかし「リモート」のような働き方になってしまうと、その仕事の成果を判断する「勤務態度管理」ができなくなってしまう。
逆に言えば今までの「人事管理」の多くは、「仕事の内容」ではなく「勤務管理」によってされてきた、ということなのかもしれない。
「資本主義」は、決して完璧な経済活動ではない、とコトラーも指摘している。
完璧ではないからこそ、改善の余地はあり、改善するのは「モモ」となりうる私たちなのだと思う。