日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

スター選手がいなくても・・・-トヨタカップ-

2006-12-17 23:16:05 | スポーツ
今日、横浜国際陸上競技場(日産スタジアム)で行われた「トヨタカップ」。
下馬評を覆して、バルセロナを破ってインテルナシオナルが、クラブ世界一に輝いた。
テレビ中継での騒がしさなどは別にして、試合そのものはとても面白く、サッカーと言うスポーツの魅力が満載されていた。

世界のスター選手が集まった、バルセロナの攻撃的なパス回しに対し、代表選手がひとりもいないブラジルのインテルナシオナルが、体を張ってゴールマウスを全員で守る。
「守る」と言っても、いわゆるカウンターサッカーと呼ばれる内容ではない。
互いに最終ラインを上げ、中盤を制する為に選手が動き、ボールを動かしていく。
こういうサッカーが、現代サッカーの醍醐味なのだ(と、私は勝手に思っている)。
そして、バルサの一瞬のミスをついてゴールを陥れたインテルナシオナルの攻撃は、見事だったと思う。
スター選手がいなくても、ここまで組織でプレーし、勝つことができるのが、サッカーと言うスポーツの楽しさだと言うことを、再確認できた試合だったともいえるかも知れない。

あくまでも個人的なサッカーイメージなのだが、「点描画」と似ているような気がする。
スーラの描く「点描画」の全体イメージは優しく、穏やかだ。
しかし、その「絵」を構成している「点」は、とても強く主張し、個性の強い色が使われている。
その強い個性が集まって、一つの絵が完成する時には見事な色調となっている。
ただ「点描画」と大きく違うのは、その「絵」を描くのは選手一人ひとりだということだろう。
監督やコーチは、試合前の練習でテーマを与え、絵を描く為の技術や連携を指導し、試合で選手が力を発揮できる様に万全の準備をさせるだけなのだ。
インテルナシオとバルサの試合は、そんなことを改めて教えてくれたような気がする。

それを観て、果たして日本のサッカーは?と考えてしまった。
6月にあったドイツW杯では、1勝もすることなく早々に敗退してしまった。
U-21のメンバーで戦ったアジア大会でも、あっさりと予選敗退。
「選手たちの気持ち」や「自分達の描くサッカー」というモノが、感じられない試合だったように感じるのだ。
選手や監督を始めとするスタッフに、文句を言うつもりはない。
でも・・・どこか「チグハグ感」が、いつまででも残ったと言うのも、本当なのだ。
スター選手がいなくても、素晴らしいサッカーを見せてくれたインテルナシオナルに、日本のサッカーの未来図があるように思う。

再上陸する「バーガーキング」

2006-12-16 21:55:00 | マーケティング
昨日の日経新聞のWEBサイトに米バーガーキング、日本に再上陸と言う記事が掲載されていた。
マーケティングをしている人にとって、「バーガーキングの日本進出失敗」と言うのは、一つの教訓的なコトとして語り草?になっている。

日本に初めて「ハンバーガー」というファーストフードを紹介したのは、マックドナルドだった。
今から35年近く前。
場所は銀座・三越の角だった。
その後、モスバーガーが「テリヤキ」味のハンバーガーを発売し、アメリカ生まれのハンバーガーの「日本味化」が進み、今や定番化している。
その意味で、ハンバーガーは既に立派な「日本食」となっているのかも知れない。
最初の「バーガーキング」の日本進出は、「満を持して、本家登場!」だった。
ところが、余りにも「アメリカ・スタイル」を貫きすぎた。
ハンバーガーの大きさや量、出来上がり時間など「日本人のサイズ・食事スタイル」を考えていなかった。
結果、短期間での撤退となった。

同じコトが、北欧家具「イケヤ」にもいえる。
「イケヤ」も80年代に、ファッション雑誌などに紹介され「オシャレな北欧家具・ライフスタイル」として、注目された。
しかし、日本の住宅事情がそれを許さなかった。
価格的にも高く「オシャレな生活」は、あくまでも「海外の話」という、受け止められ方をしていた。

ここ数年、海外のスーパーマーケットなどが進出し、短期間で撤退をしている。
進出すると話題にはなるのだが、なかなか日本の市場に受け入れられることなく撤退を余儀なくされている。
「日本市場の難しさ」と、言われることが多いのだが「郷に入りては、郷に従え」という言葉通り、自国のスタイルを貫くだけでは、市場に受け入れられることが難しい。

今回「バーガーキング」は、単なる再上陸だけではなく「ロッテリア」との提携がある。
ハンバーガー業界でも、特色あるメニューが打ち出せないことへのテコ入れ、と言う問題も解決しなくてはならない。
再上陸と言うだけではなく、これまでと違う「日本のハンバーガー」をいかに提案し、展開していくのか?
もちろん「バーガーキングらしさ」を失わずに、という二兎を追う以上のことが求められている。

ブランドにすがる人たち

2006-12-14 23:08:14 | 徒然
日本に「ブランド」が、溢れかえるようになってどのくらいたつだろう?
ルイ・ヴィトンやグッチのショップには、相応と言いがたい若い人たちが押し寄せている。
「ブランド(の本質)が、自分のライフスタイルに合っている」と言う理由よりも、「とりあえず、みんな持ってるし~。有名だから」という理由のような気がする。
「持つことで、自信になるし~」と言う、人もいるようだ。
それほど「ブランド」は、魅力的なモノではある。

それは決して「海外有名(ファッション)ブランド」だけに、限ったことではない。
復党騒ぎとなった「自民党」も、同じだろう。
復党を果たした議員さんも、刺客と呼ばれた議員さんも「自民党」という「ブランド」がなくては、意味がないのだ。
特に、岐阜1区などは。
もちろん、政党に属していないと「政党助成金」等が受けられず、金銭的に厳しいと言う事情があるのだろう。
昨年、あれほどの思いで選挙を戦ったのだから、「郵政民営化反対」を掲げる他の政党へ属せばいいだけなのではないだろうか?
でも「自民党」という「ブランド」のほうが、政党助成金以外の理由で魅力的だったと言うことがよく分かる。
政治信条よりも「ブランド」の方が、大切なのだ。

最近何かと話題の、石原東京都知事も「石原ブランド」にすがっているように思える。
確か、都知事選の第一声は「石原裕次郎の兄・石原慎太郎です」だったと思う。
国民的(ある世代にとっての)ヒーローだった弟を宣伝に使い、弟が社長をしていたプロダクションに所属している俳優さんたちを動員して、選挙戦を戦っていた。
私は、東京都民ではないので関係ないといえば関係ないのだが、その選挙戦やその後のメディア露出など、とても都知事と言う印象ではない。
本業の都知事としての仕事はしているの?と、疑問に感じるほど、東京都以外での活躍である。
それを可能にしているのは、一家揃っての「石原ブランド」だろう。
その「石原ブランド」を利用して、ご子息の重用は都民の皆さんにとってどう見えるのだろう?
今、東京都民の皆さんには「石原ブランド」が、必要なのだろうか?

「ブランド」を持つことは、魅力的であり一種の安心材料だろう。
企業が「ブランド構築」に躍起になるのは、それが市場の優位性に繋がるだけではなく、生活者や社会にとって「信頼の約束」となるからだ。
でも「ブランドにすがる人たち」は、「信頼」とか「魅力」を生活者や社会に与えている訳ではない。
自分が「ブランドの力」を借りて、利用しているだけなのだ。

それを見極めることが、生活者に求められている。

現場が大事-ヒット商品に見る発想-

2006-12-13 22:17:10 | マーケティング
昨日のエントリ「今年のことば」にトラックバックいただきました、「大西宏のマーケティング・エッセンス」さんありがとうございました。
本日のエントリでもご紹介を頂き、本当に感謝しています。

今日の毎日新聞のWEBサイトに、「’06これが売れた:背中すっきりブラ “ママ友”観察から生まれた」という記事が掲載されている。
通販の王道?というのは、いわゆる「ニッチ商品」と呼ばれる「ありそうでなかった」という隙間商品だ。
その意味でこの商品は、女性下着、特にブラジャーの「寄せてあげる」志向の商品とは対極にあるかもしれない。

実際、街中でよくよく観察をしてみると「ムニュお肉」は、決してウエスト周りだけの問題ではない。
会社員時代、ある男性から「女性って、背中で年齢が分かるよね」と言われたことがある。
別に、「猫背で年寄りっぽい」ということではない。
年齢を重ねると、肩から背中にかけ、全体的に「ムニュ」感が現れるというのだ。
この男性の観察力に驚いたのはもちろんだが、意外なところを観ているものだ・・・と思ったのも事実だ。
以来、極力背中の「ムニュお肉」にも注意をしてきたのだが、やはりというか、遅まきながらというべきか?このような商品が登場した。

記事中にもあるように、問題を抱えた人が商品開発に携わることが多い。
その意味で「マーケティングは、問題解決事業」と言われる。
でもそれは、「当事者だから」という見方をするのは早計だろう。
「快適なモノ・コトを提案したい」という、気持ちと視点を持って現場に出て行くことが何よりも大切なことなのだ。
しかも現場は、売り場だけとは限らない。
むしろ、何気ない日常風景の中にこそ「問題」が隠れている。
そんなことを改めて、このヒット商品が教えてくれている。

今年をあらわす言葉

2006-12-12 21:34:29 | 徒然
今日、京都・清水寺で「今年の字」が発表された。
「命」だそうだ。
確かに、自殺者が3万人/年以上発生し、「いじめ」による小中高校生の自殺というのも、決して豊かな社会とはいえない現実だろう。
他にも、「(地元で)出産したいのに産婦人科がなく、子どもが生まれても小児科がない」というのも、どこかおかしな話だ。
国が掲げている「少子化対策」そのものが、足元から崩れている。

個人的な「今年の字」は、『歪』だ。
「お金儲けが悪いことですか?」と言った村上さん、「時価総額世界一」が企業の価値だといっていた堀江さんなど、企業倫理など社会のルールよりも自分優先という企業経営が問題として露になった。
上述した「少子化対策」にしても「産婦人科がない・小児科がない」というのは、子育て以前の問題なのではないだろうか?
「未履修問題」などは、「大学受験」という名のもと「高校生」という年代でなくては感じ得ることができない、瑞々しい感性を得るための教養を学ぶことを、高校そのものが放棄してしまっている。
もちろん、父兄などからの圧力などがあったとは思うのだが、その圧力を与えた父兄が高校生だった頃は、もっと自由で伸びやかな高校生という時間を過ごしていたのではないだろうか?
他にも、「県知事」自らが贈収賄に関わったり、「裏金作り」に積極的に関わりながら県民に謝ることもしない。
「自民党」というブランドが欲しいばかりに、昨年の選挙で掲げた主張や信念をいともあっさりと捨てることに抵抗のない政治家。それを受け入れる政党なども、「歪んだ関係」のような気がする。

これらの意味で「歪み」という言葉を思い浮かべたのだ。
「格差社会」とか「ワーキングプア」なども、「社会の歪み」だと言えそうだ。
年内に様々な「歪み」を総て吐き出し、「一生懸命に生きる人が、真っ当な評価を受ける」社会になることを・・・と願っている。

街で見える風景-姿・カタチが与える印象-

2006-12-10 23:41:53 | 徒然
「ネットマナーを考える」にコメントを下さった、星の王子様ありがとうございました。
街中で見かける喫煙者の姿には、「マナーとかエチケットとは無縁だな~」と感じる人が少なくありませんね。
昨日も、歩きタバコを水溜りに投げ捨てる人を見かけました。
サッカー(天皇杯)の試合前だったので「どうか、この人が同じ(チームの)サポでありませんように」と願った一瞬だった。
この投げタバコを平気でする人だけではなく、禁煙エリアでも平気でタバコを吸う人たちなど、マナーとかエチケットが守れない人を見ると「自分勝手な人だな~」という印象がある。
それだけではなく、「想像力のない人」だという気もするのだ。

「想像力のない人」というよりも、「相手(周囲の人)の気持ちになる」と言い換えれば、分かりやすいだろうか?
「相手の気持ちになる」コトよりも、「自分優先」という「俺マター」的な思考がもてはやされたここ数年の傾向が、様々な場所で見かけられたのも今年の傾向だったのかも知れない。
そのような人たちを見るたびに感じるのだが、その「姿・カタチは美しいのだろうか?」
いくらブランド品で外見を着飾っても、どこか貧しさを感じるのだ。

そして、そのような人たちが街中に溢れることは、「街が美しくない」ということにもなるのではないだろうか?
「名古屋は元気」といわれて久しいが、全国的に見て「イマイチ印象がない」というのは、こういうことなのかも知れない。
行政主体の「まちづくり」は、ハコモノ中心になりがちだ。
NPOなどは(伝統)文化の発信だ。
等身大のリアルな「まちの情報を発信」しているのは、その街の生活者の「姿・カタチ」なのではないだろうか?

「マナーやエチケット」という当たり前の心遣いが、学力以上に求められているような気がする。






速い道より楽しい道-国土交通省の狙い?-

2006-12-08 22:18:52 | ライフスタイル
「広告代理店の儲けのしくみ?-タウンミーティングの無駄遣い」に、トラックバックを下さった「カイロスの前髪」さん、ありがとうございました。
様々な情報を集められ、ニュース的には一応名前の伏せてある広告代理店名までチェックされて、「やはり」という代理店名が出ています。
インターネットの普及によって、広告代理店は業態変化を求められているのは、事実でしょう。
テレビCMなどは、インターネット広告への誘導という位置付けに代わり、企業が一番伝えたいことは、ネットで検索してもらうという方法が一般化してきた。
「不特定多数の生活者」から「興味のある特定(多数)の生活者」へとアプローチが変わってきたのだ。
かつての手法が通じなくなってきた、広告業界においてはイベントプロデュースで儲けるのも大切なのだろう。
だからといって「ありえない」法外な請求を堂々とするのは、「企業倫理」として問題がある。

「ネットマナーを考える」にコメントとくださった、すとさん。ありがとうございました。
便利なモノだからこそ、マナーが大切なんだと思いますね。
まして、個人が情報を発信するものですから「素の自分が、露になる」というコトも、頭に入れる必要があるということでしょう。

先週末「越後妻有トリエンナーレ」をプロデュースされた、アートディレクター・北川フラム氏の話を聞いた時、「へ?!」と思う話があった。
それは、国土交通省の「道路行政の政策」だった。
北川氏が言うには「速い道より楽しい道へ」と政策転換する動きがあるらしいのだ。
「速い道」というのは、高速道路や赤字が続く道路専用橋のことだろう。
では「楽しい道」とは、何なんだろう?
高速道路のパーキングエリアのことなのか?それとも高速道路入り口付近にある(ことが多い)「道の駅」なのか?
はたまた「観光用道路の整備」なのか?
ガソリン税などは「道路特定財源」として、高速道路建設や整備に当てられてきた。
それが「高額で不要な道を作ってきた」と、批判を浴びている。
その代わりが「楽しい道つくり」なら、それはそれで問題ではないだろうか?

ネットマナーを考える

2006-12-06 21:08:46 | Weblog
ブログを作られる方が、急増し個人が様々な情報を発信している。
そのことを云々する気はない。
最近トラックバックやコメントがエントリ内容とズレている場合が、目立ってきた。
どうやら、エントリ内容を読まないでタイトル検索などで、トラックバックをされているようなのだ。
確かに「タイトル検索」という方法は便利で、様々なブログにトラックバックをすることで、アクセス件数を増やすことができる。
多くの人に、自分の考えや持っている情報を提供できるブログは便利なのだが、的はずれなトラックバックは、いかがなものか?
トラックバックをしたブログ製作者の感性というか、読む力に疑問を感じる。

ある程度容認してきたのだが、最近は「情報提供」といいながら「売り」を目的としたトラックバックが目に余るようになってきた。
そのため、トラックバックをして頂いてもその内容がエントリとは関連性がないと思われる内容のものについては、削除させて頂くようにします。

所詮、ランキングに登場することもない地味なマーケティングのブログですので、「売り」目的のトラックバックをしても、労力の割りに効果はないと思います。

ブログにしても、HPにしても気軽に情報を発信できるようになった。
だが、気軽であるがゆえに「マナー」が大切なのではないだろうか?
なぜなら、個人が情報を発信するということはある意味「自分の素」を出すことにもなるのだから。

程よい緊張感のある関係

2006-12-05 22:50:32 | ビジネス
今日の讀賣新聞のWEBサイトに、「なれあい型」学級でいじめ多発という記事が掲載されている。
現在大きな社会的問題になっている「学校でのいじめ問題」だが、その背景にある「なれあい」ということに、注目したい。

今から数年前、丁度今ぐらいの季節だったと思う。
仕事を終え、いつものようにタウンウォッチングを兼ねたウィンドショッピングをしに、百貨店にいた時のことだ。
私の背後から、小学校高学年女児とその母親と思われる親子の会話が聞こえてきた。
「○○って、うざい」と女の子が言えば、お母さんが「○○って、ダメなんだよね」といった内容のことを言っている。
どうやら、担任の先生のことを話しているようなのだが・・・、その母親と思われる女性の言葉の乱暴さに驚くだけではなく、先生を呼び捨てする子どもの態度にも驚いた。
もちろん母親と思われる女性は、子供が先生を呼び捨てにしても、気にもかけていない様子。
一体どんな親子なのか?と思って、その親子を見てみるといたって普通の親子なのだ。
母親は、当たり前のようにブランド品を持ち、それなりの身なりをしている。
女の子も、今どきのファッションを着ている、どこにでもいるような女の子だ。
その「普通さ」と、「先生に対する態度や言葉の乱暴さ」のギャップに驚いたのだ。
そんなことを背景として、先生自身も「気に入られたい=なれあい」という態度になってしまうのだろうか?
それが「いじめ」に結びついているとすれば、「いじめる子だけの問題ではない」ような気がする。

しかし・・・いつのまにか、「タメ口」をイロイロなところで聞かれるようになった。
顕著な例が、ブティックなどでの店員だろう。
友達感覚で、商品を勧めるというのも一つのビジネススタイルなのかも知れない。
だが、その商品がどことなく安っぽいモノに見えてしまうというのも、事実だろう。
海外の有名ブランドショップのように、警備員がアチラコチラに立って・・・というのも、監視をされているようで(私は)余り気持ちよいものではないが、それにしても程よい緊張感のある関係が、なくなりつつあるような気がする。

「心地良いビジネス」を考えた時、相手のことを一生懸命考え・生活や日常を想像し、「素敵なコト・楽しいコト・あったらいいな」ということを、提案することだろう。
そこには、絶対踏み入れることができないほど良い距離感があり、緊張感がある。
その距離と緊張感が、スリリングな関係がなくなりつつあり、今一番必要なモノなのかも知れない。



身体感覚と均一化-20世紀の思考-

2006-12-04 21:53:55 | ライフスタイル
以前、拙ブログで紹介した「越後妻有トリエンナーレ」をプロデュースされた北川フラム氏の講演会に週末行ってきた。
その中で、興味のある内容があった。

「身体感覚を忘れ、均一という都市化を進めた20世紀」という言葉だ。
都市化といっても、「高層ビルが建ち並ぶまちづくり」という意味ではない。
合理性とか効率という名のもとに進んだ、「均一化」という意味である。
結果日本全国に「ミニ東京」のようなまちづくりが進み、地域自身が持っていたはずの「伝統・文化」など「地域の資産」を捨てて、どこにでもあるような『まち』を作ってしまったということなのだ。
それがとても皮肉なカタチとなって出てきたのが、夕張市などにみる「ハコモノ行政」による破綻なのかも知れない。
過去、一生懸命にやってきた「夕張映画祭」等よりも、「夕張メロン城」などを観光の柱に置くというのは、ピントがずれているように思うのだが、行政に携わる人たちからすれば「助成金」という『お金』のほうが、大切だったのだろう。
そのような発想・思考が、「都市化」であり「均一化」なのではないだろうか?

では、何故そのようなことが起きるのか?
それは「身体」が置き去りになっているということも、あるのではないだろうか?
大ベストセラー「バカの壁」の作者・養老孟さんもエッセイなどで書いているのだが、「身体感覚がなくなり、頭=脳感覚優先」となっている今を「脳化=都市化」と言っている。
そして、「脳化=都市化」した社会はとても脆い、という指摘をされていた。

他にも「合理化・効率化」ばかりを優先した「人工物」は、自然にとても弱いという話もあった。
「越後妻有」という地域は、「中越大震災」で一番被害を受けた地域でもある。
そこで、大打撃を受けたのは「合理化・効率化」の下行われた「圃じょ整備農地」だったらしい。
昔ながらの棚田などは、土手一つ崩れていなかったということだ。

ただ今問題なのは、私たち自身の「身体感覚」がとても鈍くなっているコトだ。
モノの価値を「お金」で判断し、本質を見極める時間を惜しむような「効率・合理化」を社会益として感じているところは無いだろうか?
最近「ひと手間かけた」とか「ていねいな」という言葉を使う雑誌見出しが、目に付くようになった。
それは、「身体感覚を失いつつあるコト」への、提議のような気がする。