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「みんな」いう呪縛

2018-09-20 20:09:59 | アラカルト

Huffpostに「みんな化語」という記事があった。
Huffpost:電車での飲食は「日本の恥」なの?蔓延する”みんな化語”の5つのタイプ

まず先に言っておきたいことがある。
この記事を書かれた方は、叱りつけた男性が「日本」を言う言葉を使うことによって、「電車での飲食をすることは、日本人みんなが恥ずかしいとだと考えている」という前提で、書かれているように思うのだが、記事を書いた方の「みんな化語」とする定義と、電車での飲食を「日本の恥」と考えるのは、別の問題のような気がする。
それともこの記事を書かれた方は、叱りつけた男性が「自分が(多くの日本国民=みんなを代表して)『日本の恥』と言っている」と、感じたということだろうか?

多くの日本人にとって「通勤電車などでの飲食は、乗車マナーとしてどうなの?」という、抵抗感はあると思う。
同じ電車での飲食であっても、それが行楽地などへ向かう人たちが多い電車の中であれば、さほど抵抗感はない人のほうが多いのでは?
「車中で食べる」という行為とは別の、非日常的なエッセンス(=行楽)などが、加わることで人の受け止め方は大きく変わるのではないだろうか?
逆に日常の続きの中で「車中で食事をする」という行為になると、抵抗感を感じる人が多い、ということであって、それが「みんな化語」と結びつけるのは、やや違和感を感じる。
車中でパンを食べていた女性が、「日本の恥だ!」と叱りつけた男性が下車した後も体を小さくしていたのは、自分の行為(=車中でパンを食べていた)に対してではなく、人前で叱られたコトに対して「身の置き場がない」恥ずかしさを感じた反応だったのでは?

書き出しの内容と、話しのテーマが一致した内容ではないのでは?、ということをまず押さえておく必要があると思う。
そのうえで「みんな化語」ということを考えてみると、「みんな」と言う言葉を使う様々なシチュエーションで、その「みんな」と言う言葉の力(というべきか?)が、変わってくるのではないだろうか?

子どもの頃、欲しいものがあると「クラスのみんなが・・・・」と言って、親にねだったりした経験を持っている人は多いと思う。
「みんな」と言う言葉を使うことで、「自分だけが取り残され、仲間外れにされる」という、ニュアンスを持っていたように思う。
だからこそ「そんな嫌な思いをしたくない(あるいは「嫌な思いをさせたくないでしょ?」という一種の脅し?)」ということを、言いたくて「みんな」と言う言葉を、使っていたのではないだろうか?
多くの親はそのコトを知った上で「家はうち、他所はよそ」と言い切ることで、交渉を不成立にさせていた(私が子どもの頃は、そのような親が多かったように思う)。

上述の「車中での食事」のような場面の場合、その場面に他の人がいなくても心のどこかで「私だけが、車中で食べているわけではない。他の人もやっていること」という、言い訳のようなものを言いながら自分の行為を肯定している、ということがあるのではないだろうか?
そのような「自分の行為を肯定する時」というのは、もう一人の自分が「でも、やってはマズイよね」という、否定的な気持ちもあるはずだ。
むしろ自分のやっていることに対して、否定的な気持ちがあるからこそ「みんなやっている」という言い訳をすることで肯定しているのではないだろうか?

記事に書いてある内容は、とても興味深いものだと思う。
それよりも「みんな」と言う言葉を使う自分自身を客観的に見ることのほうが、重要だという気がする。